第九話

 それからしばらくは、打って変わって平穏な日々が続いた。


 二人の部屋には世話役の仙師が交代で顔を見せるのみで、沈萍も暁晨子も音沙汰なしだ。大人しく療養に努めていた万松柏も、挫いた足が治ってくると、比連を連れて近くの森を散策するようになった。


 万松柏は沈萍に掛け合って傷薬をもらい、ようやく比連の傷を完治させることができた。両手を自由に使えるようになった比連は、お礼も言わないし表情もあまり変わらないが、それでも快適そうに過ごすようになった。片手で万松柏の服を握り、空いた手であれは何、これは何と尋ねるさまに、やはりこの子を救って良かったと思えてくる。

 仙府はどこにでも建てられるものではなく、修行に適した場所を選んで築かれる。白凰山にも市井とは異なる清涼で澄んだ空気が漂っており、深く深呼吸をするだけで雑念が追い払われるような気分だ。

 今日も二人で森を歩いていると、比連が大きく息を吸ってからぽつりと言った。


「……ここ、いいばしょ」


「仙府は地脈の上に建てられるからな。こういう場所は霊気が濃いから、修行にはもってこいだ」


 万松柏はそう言いながら草の上にあぐらをかいた。比連にも向かいに座るように促して、背筋をぴんと伸ばすように言う。


「やることもないんだ、白凰山の霊気をたくさん借りようじゃないか」


 そう言って万松柏は膝の上に両手をぽんと投げ出し、軽く目を閉じて丹田に意識を集中させた。体内を緩やかに巡りだした内功に気を配りつつ薄く目を開けると、比連も同じように目を閉じて内功を運用している。

 「妖」の字が頭につく生き物は、皆自然の霊気を蓄えて人の形をとる。比連もその例にもれず、完全に人間の姿をとれるほどには修行も完成されていた。そして、幼体のうちから人の形をとれるということは、この先もっと高い修為まで上り詰めることができるのだ。どういう経緯で魔偶にされたにせよ、正しく教え導くことができたらひとかどの仙師にだってなれると万松柏は踏んでいた。そのためにも、まずは十分に清められた場所で汚染されていない霊気を蓄えさせる必要があるのだ。



 どれくらい時が経っただろうか――ふと、目の前でガサッと音がした。


「比連?」


 目を閉じたまま声をかける間にも、少年の軽い足音が鳥の羽音に変わる。万松柏は慌てて目を開けて立ち上がると、木々の奥へと消える黒い鳥を追って走り出した。


「比連! どこに行くんだ!」


 チチチ、と返事のようなさえずりが前方から聞こえてくる。万松柏は小さく舌打ちすると、「待て!」と叫びながらさえずりを追って木々をかき分けた。

 そのとき、万松柏は澄んだ空気に漂う一抹の違和感に気付いた。暗く重たい、体が本能的に身構えてしまうような禍々しさ――その正体に気付いたとき、身の毛もよだつ叫び声が山を震わせた。

 万松柏は思わず足を止めた。長年の戦いですっかり耳に染みついた、全ての負の感情を掻き立てる叫び声。一か所で上がれば次から次へと重なって、やがてこの世の終わりのような混沌の音が白凰山を覆いつくす。


 魔偶が、この白凰仙府を襲っているのだ!


「まずい……!」


 万松柏は歯ぎしりして、比連が行ってしまった方を睨みつけた。彼がどこへ行こうとしていたのかは分からないが、森の中に立ち尽くしている今この時にも一番身近な同胞たちが命を落としているのだと思うと、引き返さずにはいられない。

 悔しいのは山々だったが、今は比連を追いかけている場合ではない。万松柏は「すまない」と呟くと、踵を返してもと来た道に足を踏み出した――


「お待ちを」


 そのとき、すぐ後ろから深く静かな声がした。しかし、その声とは裏腹に、重苦しい邪気が煙のように万松柏を取り巻いていく。


 振り返った万松柏の目の前にいたのは、初めて会う男だった――豪奢だが身軽な黒い長袍は光の具合によって金色に光り、結い上げた黒髪は金色の簪でまとめられている。薄情そうな目、薄い唇に浮かぶ傲慢不遜な笑み、帯に差された黒い羽扇。魔偶ではないが、魔界の手勢であることに変わりはない。


 そしてその腕は、なんと人の形に戻った比連を締め上げている!


 万松柏は一瞬何が起きているのか分からなかった。が、すぐに我に返って内功を巡らせ、印を結んだ手から発射する。しかし男は比連ごと半身を引いてそれを避け、代わりに直撃を受けた木々が悲鳴とともに倒れていく。


「その子を放せ!」


 万松柏は悲鳴のような声で言った。男はカタカタと震える比連を余計に締め上げ、嘲笑とともに万松柏に答えた。


「放せ、ですと? これが誰の所有なのか、まさか分からないと言うのですか?」


「その子は誰のものでもない。ましてやもう一度魔界になど、絶対に行かせるものか!」


 カハッ、と、比連が弱々しく咳き込んだ。その目に浮かんでいるのは紛れもない恐怖――万松柏と出会ったあのときと同じ死の恐怖だ。


「ひと月ほど前から、手勢の数が合わなくて困っていたのですよ……ですが、やっと見つけました。しかもこんな場所にいたなんて、あなたにはそれ相応の報酬を支払わねばなりませんねぇ」


 男の愉しげな声が、かえって万松柏の神経を逆なでする。万松柏は間髪入れずに男に向かって突進し、男が一瞬怯んだ隙にまっすぐ通った鼻筋に拳骨をお見舞いした。

 男がうめき声とともによろけ、比連を掴む腕が緩む。万松柏はその隙に比連の体をかっさらうと、両手に抱え上げて木の上に飛び乗った。


「……貴様!」


 軽功を駆使して枝を渡る万松柏の背後から、男が唸る声が聞こえてくる。万松柏は振り返らず太くてしっかりした——そして身も隠しやすい低層の枝を選んで、一直線に仙府の宿泊房を目指した。が、男もすぐには諦めない。万松柏の背中めがけて邪気が追いすがり、万松柏が別の枝に乗り移ると元いた枝がバキッと爆ぜた。


可悪クソッ、魔術師か!」


 万松柏は誰にともなく叫びながら次の枝へと飛び移った。次の瞬間には元いた枝が爆ぜ、また別の枝に移った途端にさっきまでいた枝が撃たれる。そんな攻防を繰り返した末、ついに木々が途切れた——最後の枝を蹴って大きく飛び出した万松柏の目の前がばっと開け、宿泊房の敷地が眼下に広がる。万松柏は屋根を足掛かりにして中庭に降り、比連を下ろして無造作に右手を突き出した。

 追手はまだここまで来ていない。万松柏は扉を突き破って飛んできた長剣を受け止め、比連の手を引いて裏口を目指した。


 人間の方術が仙術と呼ばれるように、魔界の方術はもっぱら魔術と呼ばれる。そして魔術の使い手――魔術師たちは単独で人間界を行動することはなく、決まって自身の戦力を引き連れているのだ。


 しかし、悪い夢だとしてもこれは笑えない。人生の大半を過ごした場所が魔界によって焼き尽くされるところなんて、誰が好きこのんで見たいというのだろう。大局を考えても、白凰仙府が焼き討ちに遭うなどあってはならないことだ。


 二人は見つかる前に裏口にたどり着き、閂をそっと上げて宿泊房から逃げ出した。目の前に伸びる細道をまっすぐ行けば、白凰仙府の中心部に行き当たる。


「……ぐんし」


 ふと、比連が小声で言った。万松柏が振り向くと、小さな体を小刻みに震わせた比連が万松柏の服にきつくすがりついている。


「ぐんし……わるいやつ……こいつがいると、あいつもいる……!」

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