第五話

 白凰びゃくおう仙府せんふ——名峰・白凰山の山腹から頂上にかけて築かれた仙門の拠点。仙門は仙術を扱う者たちを指す言葉で、その拠点はもっぱら「仙府」と呼ばれている。この白凰仙府は何百年と続く由緒ある仙府かつ堅牢な砦のひとつであり、万松柏が人生のほとんどを過ごしてきた場所だった。



 万松柏が初めて仙府の門を叩いたのは遥か昔、彼が五歳のときのことだ。掌門の暁晨子ぎょうしんしの一番弟子として修行を始めた彼はめきめき成長し、五十を超える頃には白凰仙府の若い仙師たちからこぞって「大師兄」と呼ばれるようになっていた。

 そもそも修仙の道は長く険しいものだ。加えて魔界との戦いで命を落としたり、心身を損なって修行を続けられなくなる者も多く、万松柏のように八十年も戦い続ける仙師は稀だ。その点では彼は皆の兄貴分と言っても過言ではなかったし、年下の門弟の面倒もよく見る良い門弟だった——義侠心を何よりも重んじ、正義のためなら仙門の掟も平気で破ること以外は。



「仙門の救命弾を打ったのはあなたですか」


 万松柏の目の前にいるこの仙師、沈萍ちんへいは、万松柏と同じく暁晨子を師を持つ白凰仙府の高弟だ。順列では三番目の彼は、早くに戦死した二番目の兄弟子に代わって自由奔放な大師兄と仙府を支えてきた――おかげで、彼は修行の賜物である若々しい肌には似合わない銀鼠の髪をしている。


「よお、沈萍。ちょっと見ないうちにまた髪が白くなったんじゃないか……」


 万松柏は苦笑いでごまかそうとした——が、彼を知り尽くす沈萍はそんなことでは騙されない。

 沈萍は元々吊り上がり気味の眉をさらに高く持ち上げると、「大師兄!」と咎めるように万松柏を遮った。


「我々は任務を終えて白凰山に帰る途中だったのですよ! そこに救命弾が見えたから急いで行き先を変更して来てみれば、弾を放ったのはあなたで、魔偶もあらかた倒した後だなんて、あなた我々に恥かかせるために救命弾を使ったのですか⁉︎」


 沈萍はものすごい剣幕で万松柏に詰め寄った。今にも万松柏の胸ぐらを掴みそうな勢いだったが、しかし一歩近づいた途端に顔をしかめて鼻と口を覆ってしまう。

 うっ、と軽くえずいている弟弟子を傍目に、万松柏は自分の頬を撫でてみた——ぱっと見は三十にも満たない若者のそれだが、触るとどうにも頬がぺたっとする。


「……おい、考えてみてくれよ。俺は寝食もままならない極貧生活の真っ最中だぞ? そりゃ風呂屋にも垢すりにも行けないさ」


「それにしたって……清らかな心身が聖気を養うのだと師父が常々仰っておられるでしょう。これでよく聖炎滅魔が使えましたね」


 気取られない素早さで、しかし確実に距離を取る沈萍に、万松柏は軽く笑い声を上げた。


「さすがは俺の三師弟。だがひとつだけ間違いだ、清らかな心身というのは体の清潔さを言うのではなく、何にも侵されない魂魄こんぱくの高潔さを指すんだぞ」


 沈萍はすこぶる迷惑そうに吊り上げた眉を下げた。


「だからって風呂に入らない理由にはならないでしょう。ひどい臭いですよ」


 万松柏は改めて苦笑いをし、「だが来てくれて良かったよ」と言った。


「連中は数が分からないからな。聖炎滅魔で滅しきれずに悲惨な結果になることも多い。……それはさておき」


 万松柏はそこで言葉を切ると、密談でもするように沈萍に一歩近づいた。


「実は仙門に確認したいことがある。過去に魔偶との戦いで行方か生死が分からなくなった仙師の中で、魔界に連れ去られた者はいるか?」


 思わぬ問いに、沈萍の眉間のしわが苛立ちとは別種のそれに変わった。沈萍も声をひそめると、万松柏に顔を寄せて答える。


「私の知る限りでは誰も。仙府に戻れば調べることはできますが……何故それを?」


「実は、先の襲撃の……ッ!」


 万松柏は言いかけた途端、痛めた足首に体重をかけてしまった。痛みに飛び上がる兄弟子の姿に沈萍はすぐさま顔色を変え、万松柏に地面に座るよう言いつけた。


「大丈夫です、骨は折れていません。数日の療養で治るかと」


 手巾で手早く足を縛りながら沈萍が告げる。それから彼は門弟たちを集めると、万松柏を白凰仙府に連れて行くと宣言した。


「師尊⁉︎ しかしその人は……」


 驚きの声を上げる門弟たちに、万松柏は沈萍の立場を思い出した。一番目の万松柏が魔偶との戦いに明け暮れ、二番目の弟子は早逝したせいで、彼らの師の暁晨子は三番目の沈萍に仙府を支える大役を任せたのだ。仙師たちの生活を監督し、座学の教鞭を取り、訓練では仙師たちにはっぱをかけ、時に遠征の指揮をも執る沈萍は、今や白凰仙府の大黒柱と言っても過言ではない。


「この方は在野の方師でありながら魔界の軍勢から人々を守り、途中で怪我を負われたのだ。仙府に招き、数日の宿を供することが差し当たっての礼儀だとは思わぬか?」


 沈萍はバシリと言い切ると、なんと自らの剣を杖として万松柏に差し出した。


「行きましょう、大師兄。先の話は仙府で」


 沈萍は有無を言わせぬ口調で告げると、純白の袖を振るって弟子たちに帰還の合図を出した。

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