第六話
久しぶりの風呂は必要以上に熱かったが、万松柏にはそんなことは気にならなかった。体に染み渡る熱々の湯と溜まった汚れが落とされる気持ち良さに勝るものなどこの世にないからだ。沈萍の鶴の一声で用意されたこの風呂は桃源の郷や極楽浄土にも勝る、万松柏は石鹸をたっぷり付けた海綿で背中を擦りながら強く思った。
「はあー、やっぱり沈萍は気が利くなあ。なあ、比連?」
すっかりご機嫌な万松柏だが、同じ風呂桶で膝を抱えて縮こまっている比連にとってはそうではないらしい。
「あいつ、ひどいやつ。おじさん追い出した。きらい」
比連は小さな膝小僧を睨んで言った。
「……ああ、あのときは、な」
万松柏はそう答えながら、仙門を追われた日のことを思い出した。
あの戦いのあと、万松柏は魔偶の比連を密かに仙府に連れ帰っただけでなく、書閣に忍び込んでとある禁術を書き写した。人やものの性質を逆転させる「
仙府の中に魔偶が紛れ込んだとなると、万松柏と比連の二人ともにとってかなりまずいことになる——この術を使うことでこの問題を解決できる上に、比連が魔偶の身から解放されるかもと考えた万松柏は一か八かの賭けに出たのだった。そして三日に及ぶ寝ずの挑戦の甲斐あって、比連は黒い影のような姿から脱したのだ。
しかし、成功の喜びは長くは続かなかった。
ものの性質を変えてしまうような方術は使い手をひどく消耗させる。戦闘の疲れも相まって疲労困憊の極みにあった万松柏だったが、秘密を悟られないようにと普段どおり鍛錬や討伐に参加していたせいでついに内功が暴走し、血を吐いて倒れてしまったのだ。当時の万松柏は掌門の一番弟子、白凰仙府を代表する仙師だった。上へ下への大騒ぎの末に秘密が暴かれ、医務室で目を覚ました万松柏は憔悴しきった沈萍から追放を告げられた。
厳密には、地下牢に繋がれた比連をどうするかで万松柏の処遇も決まると沈萍は言った。邪気は消せても魔偶は魔偶、しかも比連は仙師が倒すべき妖獣であること。加えて万松柏が禁術を使った罪も重い。万松柏が比連を見捨てれば彼は仙師として復帰でき、逆に比連を守ることを選べば仙師の立場を失う、それが長年師事した暁晨子から与えられた最後の選択だった。
だが、内功をひどく損なって衰弱していても、万松柏の答えは変わらなかった。
比連は魔界によって邪悪な存在に作り変えられた上、駆り出された戦場で見捨てられ、行き場を失った哀れな小鳥だ。自分が助けたいのはそういう存在で、そこに人間か魔偶か、敵か味方かの別はない。死人もかくやというほど蒼白な顔色で万松柏はきっぱり言い切った。そして追放という処遇を潔く受け止めたのだ。万松柏は暁晨子が手ずから調合した丹薬で回復したのちに、比連を連れてきっぱり皆に別れを告げた。
聞けば、自室に隠していた比連を牢に繋いだのが沈萍だったらしい。そして最後に二人を見送ったのも沈萍だった。万松柏はそのときの彼の居た堪れない表情を覚えているが、感情に乏しい比連にとっては「自分をひどい目に遭わせた奴」という認識でしかないのだ。万松柏はそれを分かった上で、あえて沈萍については弁解せずにいた。いつか彼が感情の機微を理解できるようになった日に、あのときの沈萍の表情が何だったのか分かればいいと思っていたからだ。
しかし、ものの一月で帰ってきた。
つくづく数奇なものだと万松柏は思った——それも彼を追い出した沈萍その人によって仙府に連れ戻されたのだ。とはいえ、ここまでしてもらえる理由はただひとつ、万松柏が遭遇したあの魔偶の剣士の謎があるからだ。
「なあ、比連」
なんでもないように声をかけると、比連は自分の膝小僧からふっと顔を上げる。
「あの魔偶、お前は知っているんだったっけ?」
そのまま軽い口調で尋ねると、比連はこくりと頷いた。
「たしか皆のお気に入りって言ってたよな。どういうことか、詳しく話してくれないか?」
万松柏が続けて尋ねると、比連はきょとんとした顔で万松柏を見上げる。しかし、聞き方が難しかったかともう一度口を開いた万松柏を遮るように浴室の戸が叩かれた。
「万先生」
沈萍の声だ。万松柏が応じると、
「……大丈夫。何もしない」
湯を跳ね上げて万松柏に縋り付く比連に、万松柏は小声で言い聞かせた。金色の目を緊張で見開きながらも逃げるのをやめた比連をそっと撫でると、万松柏は沈萍に向き直った。
「沈萍。此度の歓待に感謝する」
「なんの。先生は身を挺して蒼生を守られたばかりか、我ら仙門にも関わる重要な発見を提供してくださいました。先生のご尽力に報いるのは当然のことです」
沈萍は他人行儀に答えた。その間に童僕が湯の中の二人に毛巾を差し出し、湯から出る手伝いをしてくれる――さっさと立ち上がった比連に続いて万松柏もありがとうと応じたが、毛巾を受け取った瞬間に沈萍が「待て」と声を上げた。
「お前はそのまま比連殿の着替えを手伝え。先生は私が。怪我の手当をいたします」
沈萍はそう言いながら幅広の袖の中をまさぐり、塗り薬の壺を取り出した。沈萍は毛巾にくるまった万松柏を近くの椅子に座らせ、少し匂いを嗅いでから赤く腫れた足の前に膝をつく。その様子の変わらなさに、万松柏は思わず吹き出してしまった。
「お前、相変わらず潔癖症だな」
「体を清めればこそ仙の道も歩めるというものです」
万松柏を見上げもせず、沈萍は淡々と答える。だが、その目は万松柏の足に注がれており、足の腫れを確かめる手つきも薬を塗り広げる指も、包帯を巻く仕草も、どれ一つとして彼を軽んじてはいない。しばらくして沈萍は手当を終え、童僕に万松柏の着替えを持ってくるよう言いつけた。
「着替えが終わったら部屋にお通ししろ。私は掌門に報告がある」
そう言うと、沈萍は万松柏に軽く会釈して去っていった。
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