第四話

 黒衣の男は万松柏が近付いてきても眉ひとつ動かさなかった。男は腰に佩いた細身の剣の柄を握り、万松柏の一撃が当たる瞬間に抜き放った。


 キン、と軽い音に反して、凶暴なまでの衝撃が走る。弾き合うように距離を取った二人は瓦を蹴って再び突進し、そのまま激しい打ち合いにもつれ込む。


 剣が交差して火花を散らし、剣戟の音が空気を揺らす。黒衣の男は羽のように軽い動きで千斤の岩のような攻撃を仕掛けてくる。対する万松柏は全身に内功を巡らせ、相手の隙を刺す一瞬を狙い続けた。しかし男が隙を見せることはなく、技を重ねれば重ねるほど違和感だけが募ってゆく。


 男が使う細身の剣、その切先が描く道筋、軽妙な足さばきに洗練された身のこなし――そのどれもが万松柏が仙門で身につけたものとひどく似通っているのだ。まるで仙師を相手にしているような感覚だ。万松柏は違和感に眉をひそめつつ、酸っぱくなっている腕にもう一度内功を集めて不可思議な剣をさばき続けた。

 対する男は万松柏の集中が切れてきているのを感じ取ってか、金色の目を一瞬細めるとぐっと足を踏み込んできた。

 万松柏は急いで一歩後退した。そこに相手の剣が迫り、もう一歩退けば空いた隙間に容赦なく攻め込まれる。頃合いを見て反撃しようにも連綿と紡がれる攻撃がそれを許さず、万松柏は疲弊した両脚が許す限りの速さでひたすら後退するしかない。その一方で、万松柏ははっきりと悟っていた――この足さばきは「雲歩剣うんぽけん」、仙門の剣術の中でも最も難しい招式のひとつで、外部の剣客が一朝一夕に真似できるものではない。


 つまりこの魔偶には、仙門で仙師として訓練されていた過去があるのだ!


 この事実に思い至った刹那、足元の瓦がバキッと音を立てた。我に返ったのもつかの間、平衡を失った体はあえなく地面へと吸い込まれていく。


 万事休すだ。

 覚悟を決め、ぎゅっと目を閉じた万松柏だったが、固く強烈な衝撃はやって来なかった。


 代わりに感じたのはふわりと優しい浮遊感だった。誰かが自分を抱えて飛んでいるような、頼もしさのある感覚。


 閉じていた目をおそるおそる開くと、黒い帳に覆われた憂いのある顔が飛び込んできた。自身を見下ろす金色の双眸はわずかにしかめられ、まっさらな肌に刻まれた小さなしわから万松柏を落とすまいという固い決意が見てとれる。その眼差しは敵に向けるそれでは断じてはなく、膝裏と腰に回された腕もただ万松柏を落とさないためのものだ。ただこの男に身を任せていれば大丈夫、そんな思いがひとりでに湧いてきて、万松柏は吸い込まれるように金色の双眸を見つめ返した。


 意外に長く感じられる時間ののちに、男は万松柏を抱えたまま、ぐらつきもせずに着地した。


 万松柏はそのまましばらく男の腕に抱かれていた——しかし、己の状況に気付いた瞬間、魔偶の肩を全力で突き飛ばした。


 内功も込めての一撃は魔偶を直撃し、万松柏は一瞬の隙を突いて地面に飛び降りた。よろめき、肩を押さえる魔偶から素早く距離を取る。

 幸いにも手の中に残っていた剣を重たい腕で構えると、万松柏は大声で言った。


「お前、何のつもりだ!」


 全ての音が途絶え、自分の粗い息遣いだけが聞こえる。


 放っておけばそのまま地面に激突し、勝手に倒れてくれたであろう相手を、なぜこの魔偶は助けたのだろう?


 疑念がさらなる疑念を呼び、脳裏には良からぬ想像のあれこれが波のように押し寄せる。あの瞬間、この恐るべき敵の手中に文字通り落ちていたと思うとどうしようもなく寒気がした。そのまま墜落していた方が悪い結果に終わっていたと反論する声も聞こえるが、そもそも魔偶との戦いはいつだって命懸けだ。多少間抜けな最期でも、抵抗する力を持たない人々の盾となって散ったことには変わりない。

 万松柏は剣をまっすぐ魔偶に突きつけた。対する魔偶は打たれた肩口を押さえてじっと立ち尽くしている。形の整った眉は悩ましげにひそめられ、金色の目は万松柏を凝視している。それまで固く結ばれていた口が何か言いたげに開いたが、そこから言葉が出てくることはなかった——まるで彼自身、なぜ目の前の仙師を助けたのか分からないとでも言いたげだ。


「……名」


 沈黙の末に、魔偶はようやくぽつりと言った。魔偶の凶暴さとはかけ離れた、深く落ち着いた声音だ。


「お前の、名」


「万松柏だ。覚えておけ、魔偶」


 万松柏も負けじと魔偶を睨み返す。魔偶は切れ長の目をひそめたまま万松柏の名を何度も呟いていたが、やがて踵を返して去っていった。


「おい待て! おい……! さっきのは何だったんだ!」


 黒衣を翻して瓦屋根に飛び乗り、身軽に走り去る背中に向かって万松柏は怒鳴った。が、どれだけ呼びかけても声が静寂に吸い込まれるだけだ。呪符による炎はすでに消えており、通りを埋め尽くす勢いだった魔偶もいない。


「何だったんだ、あいつ……?」


 魔偶が消えた屋根の向こうを見つめたまま、万松柏は呟いた。

 すると、それに応えるように懐がもぞもぞ動いた。襟の合わせから黒い小鳥が頭を出し、金色の目をキョロキョロさせる。


「比連! 大丈夫だったか?」


 万松柏は我に返って尋ねた。比連は答えずに懐から抜け出し、すぐさま少年の姿に変化する。

 比連は通りをちらちらと見てから万松柏の袖を引っ張った。言われるままに万松柏が身をかがめると、比連は耳に顔を寄せてこう告げた。


「あいつ、しってる」


「なんだって⁉︎」


 万松柏が思わず聞き返すと、比連はこくこくと頷いてもう一度口を開いた。


「あいつ、ニンゲン。いちばんつよい。みんなのおきにいり」


 万松柏は眉をひそめた。あの魔偶は見た目から考えても元人間だということは間違いなさそうだし、強さのほども身をもって知っている。問題は最後の「皆のお気に入り」という部分だ。

 万松柏はそのまましゃがんで比連と向き合った。長らく意識が阻害されていたとはいえ、元魔偶の比連があの男について知らないわけがない。

 しかしもう一度質問しようと口を開いたとき、大勢が向かってくる足音が聞こえてきた。

 万松柏は質問の代わりに比連の背中を軽く押し、懐に戻るよう促した。

 立ち上がったとき、屋根を踏み外した方の足首に痛みが走った——考え事をしていたせいもあって踏みどころが悪かったらしい。万松柏は深呼吸をひとつすると、反対側の足から振り返った。


 そして、目の前にいた相手を見た瞬間、振り返ったことを後悔した。


 塵ひとつない真っ白な装束。裾は短く、白い長靴の踝が見えている。よく手入れされた黒髪はぴったりと結われ、吊り上がった両目が万松柏を路傍のゴミでも見るような目で睨んでいる。その背後では、揃いの白装束に身を包んだ男女が逃げ延びた魔偶がいないか調べていた。


 万松柏より少し背の低いその仙師はしばらく万松柏を睨んだのちに、地獄の底から這い上がってきたような唸り声で言った。


「……どうも、大師兄」

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