3, トラブル

 そのとき、


「おい、何してるんだ!」


 と、耳障りな声がした。


――まずい!


 ペートルヒェンは心の中で舌打ちした。

 荷馬車の持ち主が、用事を終えて戻ってきたらしい。


「「逃げて!」」


 ペートルヒェンはシャロンウィンに、シャロンウィンは騾馬に、同時に言った。


 騾馬とシャロンウィンは同時に走り出した。


 パカパカという騾馬の足音と、パタパタという裸足のシャロンウィンの足音が遠ざかって行き、やがて騾馬の足音だけになったのが、ペートルヒェンには分かった。

 シャロンウィンが走りながら、手綱も付けていない騾馬に乗ったらしい。


「何してるんだって聞いてんだよ!」


 荷馬車の持ち主はかなりの巨漢だった。

 ペートルヒェンは騎士ではないから、喧嘩になればあっという間に倒されてしまうだろう。

 しかし、ペートルヒェンは恐怖を感じなかった。


「私としたことが、うっかりしておりまして、じれていた騾馬をなだめようとした 

 ら、うっかり留め金を外してしまいました。申し訳ございません」


 ペートルヒェンは顔色を窺うように荷馬車の持ち主の顔を見上げたが、彼の目は別のところを見ていた。


――シャロンウィンだ


 シャロンウィンの長い金髪と、純白のドレスは、いやでも目立つ。

 その上、騾馬は全速力で走らせても馬の駆け足より遅い。

 騾馬のことをよく知らないシャロンウィンは、それを知らずに騾馬に乗ったのだろう。


「おい、てめえ! 俺の騾馬に何をした!」


 騾馬から飛び下り、こちらに向き直ったシャロンウィンのグリーンの目は怯えていた。


「逃げてください!」


 ペートルヒェンが叫ぶと、荷馬車の持ち主が怒って彼を突き飛ばした。


「あっ!」


 シャロンウィンの、悲鳴に近い声が聞こえる。


 左半身に強い衝撃が走り、気づけばペートルヒェンは地面に倒れていた。


「俺の騾馬を返せ!」


 荷馬車の持ち主はペートルヒェンのことなど気にも止めず、シャロンウィンに襲いかかろうとした。


「やめて!」


 突然、ゴーゴーと唸り声をあげて強風が吹いた。


 地面に垂れていたシャロンウィンの髪がふわっと舞い上がり、荷馬車の持ち主は吹きすさぶ風に煽られて倒れた。


 周囲の建物が、強風に耐えかねてギリギリと音を立てる。


「お嬢様、おやめを!」


 ペートルヒェンは倒れたまま、腕で顔をかばいながら言った。


 ペートルヒェンには分かっていた。


 これはただの風ではない。


 シャロンウィンが起こした風だ。


 シャロンウィンがペートルヒェンの方を見た途端、風は止んだ。


「ごめんなさい。誰かのものだなんて思わなかったわ」


 シャロンウィンは騾馬に、持ち主のところに戻るよう言った。

 騾馬は大人しくそれに従ったが、主人のもとに戻ると急に言うことを聞かなくなった。

 荷馬車の持ち主は怒ってシャロンウィンを睨み付けたが、さっきの風に恐れをなしたのか、何も言わずに騾馬を急き立てて去っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る