3階に戻って

 その部屋はやけに広く見えた。


 同型のコンテナを積んだような校舎の構造上、部屋ごとの体積に差があるはずはない。つまり広さは誤認で、実際は普段使う教室と変わらない……などと言葉で考えたところで印象が消えるわけでもなかった。二十人分の机と教卓が収まる室内を八割方持て余し、ただ窓際の一角に作業机と本棚の些細な書斎がある、という光景は、完全な空室以上に空虚だ。


 そのようなことを考えながら、天音は床に転がっていた。


「大丈夫ですか」


 背中の下から声がした。同時に腰の拘束が解かれる。天音は上体だけ起こし、座ったまま、下敷きミスミの赤い顔を見下ろした。


「転んだことより、空振りした肩が痛いかも」

「すみません。他に思いつかなくて」

「どうやったの? また事前に仕掛けてたってやつ?」

「……はい。俺の本体を見えなくして、代わりにコピーを近付かせました。ぶっちゃけ静止画なので、足とか見るとバレバレだったんですが」

「分かんないよ、そんな急に」

「ですよね」


 ミスミが言いながらもがく。赤みを増していくその顔を面白そうに眺める天音の背後で、教室の扉が音を立てて閉じた。天音は振り向き、ミスミの限界まで伸びた足を見た。


「閉じ込められちゃった」

「少し違います」


 ミスミが指を立てる。二人の頭上から光線と光輪が消えていた。


「この部屋は機略を止めているんです。位置は取られませんから、若葉さんへの光線は外でも消えています」

「追いかけられないってこと?」

「虱潰しにでもされない限りは」

「なるほどね。じゃあ、の仕掛けもここでやってたんだ」

「手品……まあ、はい。実用的なのはさっきの二つだけなので、もう種切れですが」


「我が物顔で言うじゃないか」


 ミスミの説明を茶化して、書斎空間のソファに起き上がる人がいた。


 学生ではない。襟もない私服に白衣を羽織るその女は、強いて言えば前時代の学校教師に見える。生徒の他に生身の人間がいないはずの校内において、見知らないどころか想像の埒外の存在。天音はミスミを肘でつついた。


「誰?」

「なんと言いますか……いや、まあ、今回の犯人です」


 天音はミスミを見、白衣の犯人を見、ミスミを見た。


「でも、誰?」

「機略の駐在研究員ですね。俺らから五つ上の卒業生でもあります。初対面だと思いますが、ここを出ない人なので」

「誰も知らない真犯人」


 天音はミスミの鼻を指さし、その指を自分の唇に当てた。


「先に教えてくれれば、こんな無茶しなくても素直に入ったのに」


 ミスミは寝転がったまま肩をすくめた。


「名前は──」

「サム・ウィンデン。偽名だし経歴も嘘だけど、よろしく、若葉天音さん」


 サム(偽)はソファから袖を振った。天音はその揺れるのを見、ミスミを見た。


「俺も騙されてたんです。さっきまで。三年間」

「三年間。そう、可哀想だね。犯人なんですかー?」


 天音はようやく立ち上がった。その手のハンマーを見つめてから、サム(偽)は目を上げた。


「うん。調査役と、実行犯にあたるよ。ここに潜り込んで、構造を読み解いて、分析して、どう表示するかも考えてた。コンペに負けたから外のアレは私のアイデアじゃないけど、ここのシステムに仕組んだのは私。ミスミくんは……まあ、善意の第三者かな。そういう事情も知らないまま、色々手伝って貰ったのさ」

「ずっと何を言ってるんですか?」


 サム(偽)が手元を操作する。壁の一角でモニターが点灯し、ニュース番組が流れ始める。


 中継映像と字幕は端的に、世界各地で発生する混乱と、人々の頭上に現れた光線を知らせていた。


「みんな正直に生きるが良いのさ。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』。機略サマサマだね。現に悪女は炙り出された」


 ミスミは静かに立ち上がり、天音が揺らすハンマーの柄の先を掴んだ。掛かった力はほんの僅かで、それでも天音は振り向いた。


「なあに?」

「一旦、あの人のことは無視してください」

「ひどいぞミスミくん。女の部屋に別の女を連れ込んで、ひどい言い草だ」

「先輩は黙って。若葉さん、光線が消えたことで、外の生徒は若葉さんが校舎を脱出した可能性を考えているはずです。まだ探すとは思いますが、学校を出る生徒も必ず現れる。そして一人でも外の様子に気付けば、世界の、大人たちの、ひょっとしたら彼らの家族の混乱が伝わります。そうなれば、若葉さんとか犯人だけに気を取られてはいられない。状況が感情を塗りつぶすんです」

「つまり?」

「こんなことをしても、もう誰も喜びません」

「さすがに傷つくなあ。その言い方は」


 天音は口の端だけで笑った。


「ミスミくんは、私の行動原理を全部剥ぎ取って身動きできないようにした、つもりなんだね」

「……ダメですか」

「ダメだね。零点。言ったでしょ。私が助かっても、私が助かるだけなら意味はないでしょう?」


 ミスミは顔をしかめた。この世に残された最後の食べ物を口に入れるような、最悪の気分だった。


「……俺が喜びます」

「本当? それなら百点にする」

「違うんです。これじゃダメだ。若葉さんにはそこを五〇点、いや四九点にして欲しいんですよ。それが俺の要望です」

「趣味が合わないね」

「……そうですね。今日のところは、この件に関しては」


 ミスミはハンマーを強く握り、引いた。天音は抵抗なく手放した。


 手の中で垂れ下がったハンマーをミスミはすぐに放り投げた。その放物線はサム(偽)の額から腰に通り抜け、床のタイルにひびを入れた。


「いやいや、死んじゃうよ」


 サム(偽)は立ち尽くしたまま言った。


「生きてから言え、と思いますが」

「ひどいなあ。私は傷つかないけどね」


 天音は目を瞬き、壁と天井を見回した。


「これも映像……本人は逃げたってこと?」

「ふふふ、どうかな?」


 うそぶくサム(偽)を二人は無視した。


「そもそもいないんだと思います。たぶん、この世界のどこにも。偽名どころじゃないんですよ。あの外見も性格も俺を使うためにパーソナライズされたもので、つまり他の場所にも俺みたいに使われた奴がいるんです。仮に実在する人物で、さっきの思想が本気だとしたら──」

「外ではミスミくんからもどこかに線が出ていたはず。ゼロじゃないから」


 ミスミは頷いた。誰からも目を逸らしながら。天音はその泳ぐ目を真っ直ぐに見た。


「このことは知ってて一緒にいたの? 三年間?」

「まあ、はい。二年目ぐらいからは」

「……そっかー。色々だね」


 天音はミスミの背中に触れた。サム(偽)が腕を組んで何度か頷く。何かに納得したようなその動作が、天音には無性に不快だった。


「サムさんは、どうして消えないで待っていたんですか?」

「それはもちろん、ミスミくんが好きだからさ」

「困りますね」

「私はそうでもないよ」

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「関係性を可視化したよ」と先輩は言った。 mktbn @mktbn

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