1階にいる

 ミスミはいま跨いだ繭を踵で蹴った。尻から転ぶその頭上を通過し、ハンマーは無関係な生徒に直撃した。潰れて割れる音。首が曲がる。生徒が倒れる。その身体がノータイムで床から生えた繭に覆い隠される。


 廊下の繭は二つになった。


「んー。ね、ちょっと一緒に来てくれない?」


 空いた右手を顎に当て、女子は小さく唸った。


 ミスミは床に手と尻を付けたまま自分を見下ろすその姿を記憶と照らし合わせた。クラスメイトではない。クラス外の生徒はまるで覚えていない。しかしミスミは、彼女の名前だけは、ほんの数分前に聞いていた。


 お、すごい子がいる。名前は──


「わ、若葉天音わかば あまね

「ほらやっぱり私のこと知ってる。立たなくて良いよ」


 天音あまねは笑った。


「でもごめんなさい、私の方は思い出せなくて。すれ違ったことはあるのかな。一年生?」

「……同じ三年です、けど」

「へえ、変わってるね。敬語が変だし、輪っかが無いのも変」

「それが何か分かって言ってるんですか」

「答え合わせ? 知ってるよ。みんなも、私も」


 天音は自分の光輪に手を翳した。触れようとした指は抵抗もなく通過した。


 実体はない。細部を見てしまえば、それは輪として造られたものですらない。無数の光線が円状に集まって、遠目には輪に見えるというだけ。線は不規則に動き、向きを変えてさえいる。


 輪に満たない光の線であれば他の生徒にも浮かんでいた。天音の光は誰よりも濃く、明確な輪になっていた。


 天音はその一本を指で摘んだ──ように振る舞った。


「これはね、気持ちの線。人から人への、あっちに居る人が好きとかこっちの人は嫌いとか、そういう繋がりを、機略の装置が投影して目に見えるようにしたもの。元データはたぶんカメラが拾った生理反応。発汗、発熱、代謝ホルモン、声の震え、姿を追う眼球の動き。それを誰かが統合して、突然、開示した。合ってるでしょ?」


 天音が首を傾げる。輪が追随する。顔に影が掛からないことが不自然なほど、その存在は確かに見える。


 ほとんど学校中、全方位の生徒が彼女に感情を向けている。それが、線が輪になることの意味だった。


 ミスミは答えなかった。尋ねられたという感覚すらない。輪の下の天音の瞳は明らかに、自分の言葉を確信していた。


「みんな、秘密を守ってくれてたのにね。今日で卒業だったのにね。おかげで大変」


 ミスミの目の前で天音はハンマーを振りかざし、振り下ろした。軌道上にミスミの頭。


「──もう。立たないでって言ったのに」


 空振り。


 天音は長さを確かめるようにハンマーを見つめた。ミスミはさらに床に転がり、這って下がり、そしてようやく立ち上がった。


「なんなんですか。俺が何かしましたか。こっちはその、ただ名前を知っていただけで、あんたに対する気持ちの線とやらも無い」

「うん、無いね。誰に対しても無い。だから犯人にちょうど良い。キミは学校の誰とも関わってこなかったから、自分を認めなかったみんなを苦しめようと思った。そういうお話でしょ」

「誤解、いやただの妄想だ。そんなことで人を」

「だって、本当はどっちでもいいもの」


 天音はハンマーで頭上の輪を薙いだ。


「みんな今は怒ってて、私を探したり校門で待ってたりしてて……でも犯人らしい人が見つかれば喜ぶと思うの。それで少しでも気持ちが晴れれば良いなって」

「無茶苦茶な。何をどれだけ、どうしたら、そんなことになるんですか」

「それは質問? それとも告解を聞きたいとか?」

「あんたが追われるのは自分のせいだと言ってるんです」

「そう。私が悪いの。だからお詫びに犯人を探してて。分かってくれて嬉しいな」

「俺は嬉しくない」

「そっか。でも知らない人よりみんなの方が大事だから。ごめんね」


 天音が一歩近付き、ミスミは後ずさる。校門が遠のく。


 立ち向かう勇気も背中を向ける勇気も湧かない。ミスミには、視界に収まる天音の姿、その天輪から白いスニーカーまでが、偶然、人の形をとっただけの災害に見えた。


「いた、若葉」


 別の声が起こった。反射的に振り向いたミスミは、数人の生徒が階段を駆け下りて来るのを見た。


「いたぞ!」「こっち!」「天使か?」「もっとちゃんと逃げてよ、天音」


 声が足音を呼び、生徒は一気に増え、背後の一群は周囲の人垣になった。全員の頭に一本以上の線があり、全員が天音に接続していた。


 円の中央に取り残され、ミスミはただ硬直していた。天音は自分の天輪と繋がる生徒の顔を、思い出に浸るように眺め回した。


「連れて行くしかない。誰がやる?」


 生徒の誰かが呟く。


「私が一緒に死ぬよ、若葉」


 囲みから一人の女子が飛び出し、天音のハンマーに顎を打たれて倒れた。廊下の繭が増える。その間にも人垣は厚くなっていく。


 いざが来た。ミスミは端末に触れた。


 次の瞬間、若葉天音を探し追い詰めた生徒たちの目の前に壁が現れた。


 それは校舎の廊下と変わらない同じ無機質な壁だった。触れようとした手が抵抗なく通過する。しかし壁に顔を当てた生徒は、壁にめり込んだ姿勢で硬直した。厚みのない壁を抜けた10センチ先には、また同じ壁があった。


 混乱した生徒の群れが麻痺した人垣になる。その呻き声の渦の中で、ミスミは天音を見た。見ずにはいられなかった。逃げるつもりでいた足はすでに止まっていた。


 廊下でただ一人、天音だけが動いていた。腰を落として現実の壁際に歩み寄り、その前の生徒を殴り倒す。空いた壁に片手をつけ、ハンマーの柄を前にして振りかぶる。先端に触れる不運な誰かを確かめずに殴る姿勢。


 そして天音は移動を始めた。壁際を保ち、見えない階段を目掛けて進んでいく。壁の虚像に挟まれた空間から、唯一、彼女だけが脱出しつつあった。


 ミスミは再び端末に触れ、網膜投影の対象から若葉天音を除外した。目を瞬く天音に歩み寄る。静かに、慎重に、しかし驚かせないように。

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