「関係性を可視化したよ」と先輩は言った。
mktbn
3階から1階へ
「じゃ、気を付けて帰りなね。巻き込まれないように、寄り道しないように、転ばないように。いざとなったら、躊躇しないように。いざとなる前にやっちゃうくらいの気分がコツだ」
ソファに寝たままの手が振られる。その細い指と白い袖の揺れはミスミの網膜にこびり付いて、視線を外したあとも空中に残っていた。
「俺は大丈夫です。いざも何もない。そういう先輩こそ」
「うん。まあ、いったん寝るけど。良いタイミングで片付けるよ」
ミスミはひとりで部屋を出た。自前の意思と脚を駆使して、それでも追放される気分だった。
吹きさらしの廊下に立ち、青空へ吹き抜ける中庭を見下ろす。四階からの景色はいまのミスミですら爽快で、そして全校生徒の誰にとっても無意味だった。
中庭から放射状に直方体の教室を積んで並べた円形校舎において、内向きの景色は、どの部屋から出てもほとんど同じだった。情報に差異がなければ実用性もない。現在地を確認する手掛かりにはならない。客席に傾斜のないコロセウムに似た、美しく、不便な校舎だった。
ミスミは後ろ手に引き戸を閉めた。取り出した支給端末が示す時刻は昼前。出口への経路を求めて操作すると右手の壁に簡易な矢印が投影された。階段は左手の方が近いと知りつつ、掲示どおり右に歩き出す。校内は平時でも混雑やトラブルが多い。校舎を設計・運営する機略新社の標示システムは、街中の広告になると鬱陶しいが、最適化された企業施設の中では確かに有用だった。
それでも膝は上がらない。廊下とローファーが気弱に擦れた。
背後から男子生徒が、そのすぐあと女子生徒が、ミスミを追い抜いて走り去った。教室の窓から女子が飛び出し、中空を遮る柵に衝突した。その恐怖に見開いた目と絶叫をミスミは横切る。そうすることができる。
ミスミは誰にも構わず、誰もミスミを遮らない。視界の無機物をろくに見ないのと変わらない。どうでもいい存在、自分と無関係な現象という認識が相互にあった。
扉から出てきた女子が廊下に転がる女子の腹を踏む。下が上の足首を抱えて捻る。上が顔から床に落ちる。
争う生徒たちの頭上には線があった。白く発光し、輪郭のぼやけたケーブルが、それぞれの頭頂部から浮かんで伸び、別の生徒と接続している。光線は生徒同士が離れれば飴のように伸び、近付けば巻き戻すように縮まる。ほとんどの生徒は争う相手と繋がる一本とは別に、違う方向へと延びる光線を──人によっては複数──浮かべていた。
それは可視化された人間関係だった。
中庭で歓声が上がる。男子が男子の顎を殴り抜く。
ミスミはその光景を見ない。ただ先輩は部屋から見ているのだろうかとだけ思い、自然と顔を上げた。
廊下の天井には半円形の監視カメラが埋め込まれている。一つ二つではなく何百というカメラが、周期的に、ときに意表を突く位置に、実際には壁や床にすら視認できない器官が並んでいる。この学校に死角はない。生徒の行動は完全に記録されている。秘密や陰謀でもない。機略新社が大々的に喧伝する事実だった。
曰く、青少年の安全と健全な発育を確立するために。曰く、真に自由な学校生活を実現するために。
本当に最高なのはね、それが欺瞞でも建前でもないことだよ、ミスミくん。
廊下の途中に人間大の白い繭が寝ている。ミスミは静かにそれを跨いだ。
校内での怪我は校内で治される。校内での罪は校内で裁かれる。それ自体はいつもと変わらない日常の景色だった。
異常はただ一つ、放課後に現れた光線だけだった。
「見つけた。光ってない人」
階段を降り、辿り着いた一階に、一人の女子が立っていた。その長い黒髪の頭上には白く濃い光の輪が浮かび、両手には一つずつ黒い金槌が下がっていた。
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