第2章
第12話
かたん、と今までのリズミカルな揺れとは違う荷馬車の揺れで、ディフは目を覚ました。目を覚ましたが、自分が今、どのような状況下なのかが理解できずに、ぼんやりと藍色の瞳を瞬く。数回瞬き、眠気に勝てずセドリックに寄りかかり寝入ってしまったことを瞬時に思い出すと、横たえていた身体を勢いよく起こした。
「お、起きたか。ちょうど着いたところだったんで、起こそうかと思ってたんだ。」
ディフに膝を貸していたセドリックはディフの隣で手綱を片付ける算段をしており、そのセドリックの隣に座っていたアシアは、御者台から降りたところのようだった。
「ごめんなさい、ボク、寝てしまって。」
慌てて謝るディフに、セドリックは不思議そうな表情を浮かべると、
「そりゃぁ、今朝早くから出発させたのは俺だし、それに疲れてるんだから眠くもなるさ。」
謝ることはない、と言いながらセドリックもアシアに続き御者台から降りる。そして、
「ほれ。」
と、ディフに向かって両手を広げた。どうやら、ディフを抱きかかえて御者台から降ろしてくれるつもりらしい。
その、セドリックの対応にディフは戸惑いを見せる。今朝、この御者台に乗るときも、先ほどの休憩時における御者台からの乗り降りも、ディフは少してこずってはいたが独りでできていた。それなのに、なぜ、今、彼はこの御者台からディフが降りるのを、抱きかかえて手伝おうとするのか、解らなかった。
「ボク、独りで降りられると思うんですけど。」
今までセドリックの膝を借りて寝入ってしまっていたのだ。これ以上、彼の手を煩わすのは申し訳なく思い、ディフは独りでできることを申し出ることで、やんわりとそれを拒否する。
しかし、
「いいから、ほら。」
と、セドリックは両手をひらひらさせて、ディフを抱きかかえて降ろすことに、諦めがない。そして、じゃないと、と、
「数秒後にきっと後悔しているぞ。」
いつも見せている、人懐っこい笑顔を浮かべる。
ディフは困ってどうしていいのか助けを求めアシアを見遣るが、アシアもセドリックのその行動の意図が汲めず、彼もディフにどう返答してよいのか、解らないようだった。
嬉しそうに両手を広げ、ディフを抱きかかえるのを今かと待っているセドリックにディフは少し逡巡したが、独りで御者台から降りることを諦め、その身を預けた。
セドリックは腕に入ってきたディフを抱えあげると、
「軽いなぁ、ディフは。」
と言い、
「ウチでいっぱい食べていくといい。」
エイダの飯は美味いぞ、と満面の笑みを浮かべる。
御者台から降ろすためだけだと思っていたのが、よいしょ、と抱っこされ、ディフは余計に戸惑う。
が、セドリックに抱きかかえ上げられたその場から見える景色は、ディフがいつも見えている景色とは違い、遠いところまで見渡せて新鮮味があった。それに、いつもならディフが見上げなければならなかった、ディフを見る柔らかな優しさを湛えた琥珀色の瞳が、自分の視線と同じ高さで、こんなにも間近にある。この状況にディフの中で戸惑いの感情から、嬉しい気持ちへと変化しかけたそのとき、
「父さん、帰ってきたんだ?」
と、セドリックの自宅に横付けする形で停まっている荷馬車の後方の、その建物の玄関扉から、ひょこり、とこげ茶色の髪をした青年が顔を出した。
「あれ?お客様?」
と、セドリックに抱きかかえられているディフと、その斜め前に立っているアシアを見て、そう訊ねた彼の言葉と同時に、大型犬の低く唸り、吼える声。
「あ、こらっ。ウルフ。」
玄関扉から勢いよく飛び出した大型犬を制止させようと青年は手を伸ばしたが、大型犬はその手をすり抜け、真っ直ぐアシアやセドリックの方へ吼えながら駆けていった。
「・・・っ。」
大人の腰の高さくらいの大きさの犬が、親和的ではなく威嚇するような吼え方で迫ってきたその姿に、ディフは思わず小さな悲鳴を上げてセドリックしがみつく。
「ウルフ。客人だっ。」
駆けてきた大型犬へセドリックも制止させるため命令するが、大型犬は止まる素振りはなかった。
ウルフはセドリックたちの斜め前に立っているアシアを無視し、その横を駆け抜けてセドリックに向かおうとしたが、ウルフがアシアの傍を駆け抜けようとしたそのとき、アシアがほんの少しだけ、注意深く観察していないとわからないくらいの、ほんの数センチだけ、ウルフへと足先を向けるように身体を動かした。
瞬間、ウルフは吼えるのをやめ、セドリックへ駆けて行こうとするその動きがぴたりと止まる。そして、アシアへと身体の向きを変えると、その場に座りアシアを仰いで見、次いでその大きな身体をゆっくりと地面へ伏した。
両前足を伸ばし、顔も地面に着くような形で両前足のその間に細長い顔を埋め、尾は身体に沿うように巻いている。尖った耳も後ろへ伏せられ、ぎょろりとした目だけを動かして、アシアを見上げていた。その状態のまま、ウルフはぴくりとも動かない。その姿は、伏せ、ではなく、ひれ伏す、と表現したほうが良いくらいだった。
何が起こっているのか、セドリックには事態が飲み込めなかった。それは、ウルフを止めようと家の扉から出てきた息子のジョイも同様らしく、ぽかんとした表情になっている。
ただ、当人達は気にすることがなく、アシアはそのウルフに向かい、ゆったりとした動作で片足を地面につけて屈むと、両手を差し出しその頬を触る。その次は、耳付近へ、頭へ、とゆっくりと手を動かし彼を撫でる。アシアに撫でられている間、ウルフは瞼を閉じ、微動だにしない。
「ウルフと言うのですね。」
ディフとともにお世話になりますね、と言いながら、アシアは撫でていた両手で、地面にひれ伏しているウルフの顔を持ち上げた。
顔を持ち上げられ、瞼を開けたウルフはしばらくアシアを見つめていたが、何かに許されたかのように、ゆっくりとその身を起こし、座る。ウルフが身を起こしたのを機に、アシアが再びゆったりとした動作で立ち上がったが、アシアのその行動をウルフは終始視線を逸らすことなく、じっと見ていた。
まるで何かの儀式のようなこの一連の流れに、誰も声を発しない。固唾を飲んで、ただ見守っているだけだった。
ウルフはしばらくアシアを見上げていたが、座っている状態から立ち上がるとセドリックの方向へ身体を向け、今度は先ほどとは違い、ゆっくりとした足取りでセドリックへと向かって行く。
吼えもせず、ただ、歩いて近づいているのだが、それでもセドリックに抱きかかえられているディフはまだ怖いのか、大型犬が近づいて来るのを確認すると、その表情に再び怯えの色が浮かび、セドリックの服を掴んでいる小さな手に力が入っていた。
アシアはそのようなディフの表情を見て取ると、ウルフの主人であるセドリックのもとへゆっくりと近づいていく彼へ、
「ウルフ。」
と、彼の名を呼ぶ。
すると、ウルフはその歩む足取りを直ちに止め、アシアへと振り返る。アシアの顔を仰ぎ見たあと、アシアの足元へ少し駆け足で戻り、再びその横に座った。
その様子は、まるでアシアの手で調教された犬のようだった。アシアの視線、声、動きひとつで、ウルフはアシアの命を汲み取り、行動に移している。飼い主であるセドリックにもできない芸当だ。
そもそもウルフは気性は荒くはないが、その血に狼の血が混じっているせいなのか、プライドが非常に高い。主人だと認めているセドリックの命令は概ね聞くが、それでも意に沿わない事だと、聞こえない振りをしてどこかへ行ってしまう。セドリックの家族に対しては牙を剥くことは当然ないが、彼が認めない人物だと牙を剥く、もしくは先ほどのように威嚇をする。ただそれらの行為は、番犬であれば褒められる行為であり、ウルフが放牧地や畑などのパトロールをしてくれているおかげで、この村は獣害がかなり少なく充分な収穫が得られていた。
そのウルフが、アシアとの儀式のような一連の流れのあと、そのアシアに見事なまでに従順に従っている。それは、アシアを主と認めただからだろうし、認めた要因は彼が導師だからだろうか、とセドリックは思いながら、彼らの一挙一動に目が離せないでいた。
アシアは自分の足元に座るウルフのその頭をひと撫ですると、ディフ、と今度はセドリックに抱きかかえられているディフへ呼び掛け、
「ウルフは君に挨拶がしたいようです。どうしますか?」
と、問いかける。
アシアから問われ、ディフはウルフを見る。セドリックに抱えられているため見下ろす形となり、そこから見える彼は尾を振っており、先ほどとは違い友好的な状態であることは見て取れた。
「アシアが、傍にいてくれますか?」
友好的に見えるが、怖いことは怖い。先ほどの威嚇をしながら迫ってきた恐怖は、記憶に新しい。それでも、信頼しているアシアがそのように勧めてきているのだから、本当にウルフは自分と挨拶がしたいのだろう、とディフは勇気を出して、そのように答えた。
その、ディフの答えに、
「もちろんです。」
と、いつものふわりとした笑顔でアシアは応える。
その笑顔を見たディフの、セドリックの服を掴んでいる手の力が緩んだことにセドリックは気付くと、ディフにしか聞こえないような小さな声で、
「降りるか?」
と訊ねた。
それに小さく頷くディフに、
「俺もついて行こうか?」
と、重ねて訊くと、しばらくの間の後、それにも小さく頷いた。
抱えあげられていたセドリックの腕からディフは降ろされると、セドリックに付き添われながら2メートルほど先、アシアの足元に座っているウルフへ近づく。
一歩近づくたびに、ディフはウルフの様子をうかがい見るが、彼は変わらず尾を振っており、友好的な態度は崩さない。
数歩で歩み寄り、ウルフと対峙した表情の硬いディフの隣にアシアは立つと、ディフの目線に合う高さになるように膝を折り、彼の背にそっと手を添えた。
「怖かったら、今、無理しなくてもいいのですよ。セドリックの家にお世話になっている間に仲良くなればいいのですから。」
ディフは、そう告げてくれるアシアに対して首を横に振る。
ガイの時もそうだった。最初は仲良くなれずにいたところ、アシアがその馬の名を教えてくれたことで、その名が呼べたことで仲良くなれた。
ウルフもそうだ。最初、ディフのことを敵だと認識し、あんなにも威嚇しながら迫ってきていたのが、今や尾を振り友好的だ。これはアシアが先ほど、とりなしてくれたにからに違いなく、ゆえにアシアが、ウルフが挨拶をしたがっている、と言ったのなら、それは本当なのだと、ディフは確信している。
「ガイとのように、ボク、ウルフとも仲良くなりたいから。」
アシアの目を見て、はっきりと答えたディフに、アシアは、そうですね、と微笑むと、
「では、ウルフの目線の高さに合うように、屈みましょう。上から見られるのは、怖いものですから。」
ディフはアシアの言うとおりに、両膝を地面につけ、膝立ちをしてウルフの顔の高さと同じくらいの体勢をとる。
「撫でても、良いそうですよ。」
そう言いながらアシアはディフの手を取り、自分の手と重ねて一緒にウルフの首許をゆっくりと撫でる。最初は、ディフはアシアの手とともに恐る恐るといった体でウルフを撫でていたが、ウルフが気持ち良さそうに銀色の目を眇めたのを機にアシアがその手を外し、気がつけばディフ独りだけで彼の首許を撫でていた。
終始尾を振り、ディフにされるがままのウルフに、ディフの中でいつの間にか恐怖心は薄れていっていた。
彼の銀色の毛皮は、ディフの想像通りごわつきのある少し硬い毛であったけれど、その下は意外にも柔らかく、撫でているディフも手の感触が心地良い。
ウルフはしばらく大人しくディフに撫でられていたが、急に立ち上がるとその鼻先をディフの頬につけ、次に顔から頭にかけてディフの頬に擦り付けてきた。
彼のその急な行動にディフは吃驚し、一瞬固まってしまったが、ウルフが尾を振りながら彼の鼻先を、顔を、ディフの頬に何度も擦り付けるような行為に笑みがこぼれ、自然とウルフの首に両手を回し、彼を抱きしめていた。
彼の挨拶の最後に頬をひと舐めされ、そのくすぐったさにディフは小さく声を立てて、笑った。
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