第9話

 導師という存在は、セドリックは出会ったことがあるかどうかといったレベルではなく、長老からの伝話しでしか聞いたことがない。口伝えをする現長老でさえ、会ったことはないはずだ。むろん何代か前の長老たちも、出会ったことがないだろう。セドリックにとって、だけでなく、大体のどの人間も導師は本当にいるのか分からない、伝説の生き物と同列だった。いや、伝説の生き物というよりも、神に近しい存在だ。

「騙り、じゃなく、本物、なのか?」

 そのような言葉がセドリックの口をついて出たのは仕方がないことだろう。アシアも人たちからの、そのような反応はいつものことなので慣れている。

「先ほども、そう訊かれました。なのでとりあえず、このようなことをして見せました。」

 ふわりと笑って、アシアが軽く手を振ると、セドリックの周りにだけ風が渦巻いた。

 驚き、目を見開いているセドリックへ笑んだままアシアは、今度は少し大きな動作で腕を振る。と、平原に風が渡り、その風によって草花が波打ち大きな音を立てる。

 その現象を目の当たりにして、先ほどの出入国管理所のカウンター向こう、役人たちの間でざわめきが起こっていたのはコレだったのだとセドリックは理解した。

 瞠目したままのセドリックへ、アシアはもう一度軽く手を振ると、今度はセドリックが小川の水を汲みに行こうとして止めて足元に置いた空の容器を、水で満たした。そして、

「スイの実だけでは水分は足りないでしょう。どうぞ。」

 と、勧める。

 それらの間、アシアは終始、笑顔だ。物腰は相変わらず柔らかい。口調も穏やかだ。彼を怖がる要素はどこにもない。

 しかしアシアが、彼が持つ本来の力を発揮することで、この場の雰囲気が一変した。セドリックにも解るほど、空気が変わった。

 異質な者の前に、異質な場所に、この生身の身体が置かれてしまった感覚に陥る。

 セドリックはアシアのその笑顔が突如、怖く思えた。目の前にいるソレは自分達とは違う次元の生き物だ、と本能が囁く。否。生き物といっていいのかさえ、解らない。未知のモノ。

 背筋を今まで味わったことのない汗が、流れ落ちる。

 今まで、どのようにアシアと接していたのか、セドリックはわからなくなった。

 導師は人ではなく、神に近しい者。神の御使い、と小さい頃から代々の長老から、聞かされてきていた。彼らは崇め、奉る存在だと。

 その存在の、彼に対して不敬を働いていなかっただろうか、と振り返るも、残念なことに不敬を働いていた記憶しか思い浮かばない。

 知らずセドリックの手が、指先が、下肢が微かに震えだしていた。

 セドリックのそのような変化に、アシアは心の中で小さなため息をついた。今まで、アシアが導師だと知ると、たいていの人は2パターンの行動となる。

 畏怖し、慄き、一定の距離を置き静かに離れていってしまうか、卑しい考えのもと擦り寄ってくるか、だ。

 導師はたかだか6大エレメントを扱うことができるだけ、の存在でしかなく、その力を持って人に危害を加えるつもりなど毛頭持っていない。ましてや野望を抱いた人たちの国取りの助力をするつもりもない。

 ただ、この箱庭に住まう人たちが心穏やかな幸せな生であるよう、長命であるが故の自身が経験した、人からすれば過去となる昔に起こったあらゆる悲しい出来事を繰り返さないための情報提供と、そこから得られた教訓、知恵を貸すだけの存在だ。

 なのに、人はいつしか導師に対して勝手なイメージを作り上げ、導師だと知ると畏怖し慄き自分の傍から離れ、又は勝手に人の野心のための道具にしようとする。

 果たして、セドリックはどちらの人間だろうか。

「・・・僕が、怖いですか?」

 アシアはそれらを幾度も繰り返し、傷ついてここまで来ているのに、まだ人に対して、セドリックに対して、何かを期待する自分がいたのか、そのような科白が口をついて出ていた。もしかすると導師だと知った上での、あの、人懐こい笑顔がもう一度自分に向けられるのを、どこかで望んでいるのかもしれない。

 アシアからのそのような問いかけに、セドリックは弾かれたように顔を上げた。

 顔を上げたその先にはいつもの笑顔が消え、傷ついたような表情を浮かべている青年が座っていた。

 昨夜からの付き合いでしかないが、そのようなアシアの表情を見たのは初めてだった。セドリックの彼への印象は「にこやか」しかない。その笑顔に胡散臭さは伴っていないといえば嘘になるが、彼は終始、誰に対しても笑みを絶やさなかった。相手がディフであれ、宿屋でたまたま一緒になっただけの行商人であれ、入国管理所の役人に対してでも。もちろん、セドリックに対してでもだ。ディフに対してだけでなく、セドリックへもさり気のない気遣いが常にあった。

 だからアシアへ当初、彼が人身売買の売人ではないかと疑ったときも、彼のディフへの真摯な態度に触れたことにより、たちまちその疑いがセドリックの中から消え失せ、反対に彼らをどうにかあの国から逃がしたいと思ったのではないか。そして、実際に手を貸そうとしたのだ。

 何を見て、何を感じて、何を思うのか。

 どの思いを自分は大切にして、行動に移すのか。

 セドリックは一度目を閉じると深呼吸をする。と同時に、今までの場を支配していた異質な空気が、霧散した気がした。

 そのせいか、背中を伝う嫌な汗が引き、手足の微かな震えは、いつの間にか止まっていた。

 そして、

「導師様にお願いがございます。」

 居住まいを正した。

「何でしょうか?」

 憂いた表情のままアシアは軽く首を傾げる。

 果たして彼は彼自身のいつもの笑顔ではなく、そのような憂い顔でいることに気がついているのだろうか。セドリックは彼にそのような表情をさせてしまった一端が自分にあるような気がして、心が少し痛んだ。

「今までの非礼のお詫びと、もし、許していただけるのであれば、このまま私が村長を務めます我が村へ、お立ち寄り願えないでしょうか。我が村の長老とお会いして頂きたいのです。」

 セドリックの村には代々の長老の伝話しの中で、導師に関する内容の物語がある。セドリックの村には、導師に導かれ開拓したのが村の始まりだといったような逸話があった。

「それにこの後、オウカ国へ向かわれるとお聞きしております。我が村以降オウカ国に向かう先、宿泊できる村までは馬でも1日は要します。たいしたおもてなしはできませんが、お疲れもあることと思います。いちど我が村でお休みいただきたいのです。」

 礼を尽くす。

 当然のことだ。

 相手が導師であれ何であれ、自分と関わりのある者へ、当然行う行為だ。特に、身分の上の者へは恐れではなく、畏れで、敬いで、礼を尽くす。

 それに、先ほどからアシアとセドリックとのやり取りを、キョトンと見ているディフも朝早くからの移動や先ほどの入国管理所での出来事などで、疲れがでていることだろう。この子どもを休ませてやりたかった。

「そう、ですね。」

 アシアはセドリックからのそのような丁寧な申し出に、少し安堵する。彼から返ってきた言葉は自分に対する恐怖でもなく、卑しさのある下心でもなかった。

 アシアは今まで何度も人から失望させられ、そのせいだけでもないが、いつしか、自らが箱庭の住人と関わろうとすることが極端に減った。人嫌いでもないが、人好きでもない所以だ。

 アシアの師であるノアも、人に失望させられたことがアシア以上にあっただろうに、彼女は、人などそのようなものだろう、と、気にする風もない。

 アシアはセドリックに対しては、アシアにしては珍しく声をかけられたときから良い印象を持っていた。でなければ昨夜、夕食に誘ってなどいなかった。

 夕食に誘ってみて、彼に良い印象を持った理由がなんとなく理解できた。彼の周りからは、暖かな気が漂う。実際に夕食を共にして、傍にいて心地が良かった。訳ありな大人と子どもだと気がついていただろうに、おくびにも出さず、アシアへ、特にディフへ優しい眼差しを送っていた。

 だからだろうか。いつからか、セドリックとは本当の良い関係を築きたいと、心の奥底では願っていたようだ。その願い故に、普段ならすることがない「導師」だという身分を、彼に能力を見せ付けるやり方で明かした。

 受け入れてもらえなければそれまでだ、といったいつもの投げやりな思いと、彼なら「アシア」として受け入れてくれるかもしれない、といった淡い希望が交差した中で。

「では、僕からもふたつ、お願い事があります。」

 アシアも居住まいを正し、セドリックと向き合う。

 なんでしょうか、とのアシアを真っ直ぐ捉えたセドリックの水色の強い瞳に、アシアは自然と笑みが浮かんだ。

「僕を呼ぶときは『導師様』ではなく、今まで通り『アシア』と呼んで下さい。」

 導師様、では距離がありすぎる。セドリックとは今までのような距離間でいたい。

 その申し出に、セドリックは少し考えるかのように間を置き、

「・・・アシア、様?」

 と、口にする。

 が、アシアはその呼びかけに即座に首を横に振ると、

「アシア、です。」

 と答える。

 とたん、アシアとセドリックの間から、くすり、と小さな笑い声が漏れ聞こえてきた。

 場に漂っていた僅かな緊張感が、ディフの洩れ落としたその可愛い笑い声で一掃される。

 アシアとセドリックが同時に、その小さな笑い声が発せられた、ふたりの間に座っている子どもを見下ろした。ふたりの視線を浴びたディフは気まずそうに少し身体を小さくすると、ごめんなさい、と謝り、

「ボクがアシアと初めて出会ったときのやり取りに、そっくりだったから。」

 と、思わず笑った理由を答える。

 ディフのその言葉に、アシアもその時のことを思い出し、そうですね、とうなずくと、ふふっ、と微笑い、

「もうひとつのお願い事です。」

 と、セドリックへ向き直りふたつめの要求をする。

「そのような構えた話し方ではなく、今まで通りで僕と接して下さい。」

 ちなみに、と

「僕の言葉使いはこれが普段通りなので、これ以上崩すことができません。でも、セドリックの今のその話し方は、そうではないでしょう?」

 アシアからのふたつの要求に、セドリックはいったん黙した。

 これはいわば、神様に近しい存在とため口で話せ、とのことになる。崇める本体が丁寧語で、自分がため口なんてことは、考えられないことだ。しかも、呼び捨てにしろ、との要求だ。

 セドリックにはアシアの意図が掴めず、答えに窮して思わず彼を見やる。

 そこには、一般的な旅人の服を着た、少しだけ、ほんの少しだけの緊張と期待を込めたような琥珀色の瞳でセドリックを見据える、人となんら変わらない普通の青年が座っていた。

 アシアのその瞳を見てセドリックは俯くと同時に、大きなため息をついた。そして、足元に置いてある、先ほどアシアがその力で水を満たした容器を持ち上げ、その水をごくり、と一口飲む。

 その水は特に何か味がするわけでもなく、香るわけでもなく、飲んだからといって、身体上変化が起こることもなく。ソレは今まで自分が飲んできた水と、なんら変わりがなかった。

「・・・わかった。今まで通り、ってことで。改めてよろしく頼む、アシア。」

 セドリックが顔を上げ、腹を決めてそう言いながら差し出した手を、

「こちらこそ、改めてよろしくお願いしますね。」

 と、受け止めたアシアは、心底ほっとしたような笑顔を浮かべていた。こうやって見ると、普通の青年だ。導師だと告白されなければ気付きもしない。もしかすれば彼らは彼らの持つ気を抑えて人に気付かれることなく普通に、自分たちの日常の中で生活しているのではないか、と思ってしまう。

「じゃ、ディフ。俺とアシアの話し合いは無事終わったから、」

 訳がわからないまでも、休憩以前の雰囲気とはまったく違った大人ふたりのやり取りに、少し心配気に見ていたディフへ、セドリックは彼の膝の上に残っている、先ほどアシアが手渡したままのサンドイッチを指差す。

「アシアのソレ、気にせず食べてしまって良いぞ。ゆっくりで良いからな。」

 それと、と、

「ディフも水分は摂っといた方が良い。」

 と、先ほど自分が口にした、アシアが水で満たした容器をディフへ手渡す。

 ディフはアシアとセドリックを交互に見やると、素直にはいと返事をし、水の入った容器を受け取り、アシアの残したサンドイッチを口にした。

「いい子だ。」

 セドリックはそう言いながらディフの頭を軽く撫でると丸太から立ち上がり、休ませていた馬を御者台とつなぎ始める。

 そして、ディフが食べ終わり、飲み干し終えたのを機に3人は休憩場所を後にして、再び村へと荷馬車を走らせた。

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