第7話
国境を越えたからといって景色が特段変わることはなく、越える前も越えた後も街道沿いに木々が生い茂る風景が続くだけだ。ただ、この国境を抜ける前と違うのは、ここには道沿いに疲れ切った人々がなす術もなく座り込んでいるようなことがないことと、国境を越えるための長い行列がないこと。入国審査を通った者たちはやれやれといった感で、この場にとどまることなく三々五々に、自分達が目指す街に続く道へと去って行っている。
「旅のご無事を、お祈りいたします。」
と、上官自ら最敬礼でアシアたちの荷馬車を見送ってくれたのは、つい先刻のことだ。
「ありがとうございます。」
それに対してアシアはいつもの笑顔で応えていたが、セドリックは状況がつかめないこともあり、それに応える余裕もなくただ馬に鞭打ち荷馬車を出発させていた。
この森の中続く街道は、王都へ続く主要道路になる。この森の中の道をまっすぐ突き抜けると平原が広がっており、さらに平原の向こうのいくつもの森を何週間もかけて抜けて、ようやく王都にたどり着く。
荷馬車はしばらく続くこの森の街道を進む。誰も、何も話さない。聞こえてくるのは、リズミカルな蹄の音と鳥の囁き声、時折風が揺らす葉擦れの音だ。
そのせいか、セドリックは昨日の出来事へと思考が遡っていった。
昨日、セドリックはアシアがあの宿の扉を開けた時点で、アシアのことが気になっていた。
かと言って彼に何が、があるわけではなかった。背丈も高いほうだと思うが飛び抜けて高いわけでもなく、体つきも中肉中背で、衣服も一般的な旅人の服装であり、その辺りの者たちに紛れてしまえる特長のない格好にもかかわらず、自分の視線が知らず彼を追っていた。
彼の姿を追うことで当然ながら、ディフの姿も目に入ってくる。ディフこそ、子どもらしからぬ手足が細く酷く痩せていて、一見、この国の中央から逃げてきた難民の子かと思うくらいだった。しかし、難民の親子が宿に泊まれる金銭があるはずがなく、子どもの衣装も襤褸ではなく薄汚れてはいるが一般的な旅人用の服だ。そのアンバランスさも目を引いた理由のひとつだった。
隣国では子どもの人身売買が白日の下、横行している。
特に、王宮のある城下町で。
その話をセドリックが自分の村で耳にしたのは、1ヶ月ほど前だ。
水害と日照りで作物が育たず国民が飢えだしているが、施政者はそれには目も向けず自分たちの利に走っているらしい、と、隣国を通って村に来た行商人が気の毒そうにそう言っていた。
自分たちの村も含めこの近隣も隣国同様不作だったが、自分の村は何かの時のための貯えをしており、また領主からは今回の税の徴収が控えられたこと、貯えがなく貧しい村には領主と国が備蓄を放出したことなどから、自分の村だけでなく近隣の村々も飢えを知ることなく今までとおりの生活が続けられていた。
しかし国を治める者が違えば、国民はこんなにも苦難を強いられるのか。
自分の娘が嫁いで行った隣国の村が気になり、その村と自分の村とは代々、嫁いできたり嫁いだりといった親類縁者の関係が細々と続いていたこともあって、村長を任されているセドリックが村を代表して、いくばくかの食料を持って訪ねて行った隣国の状況は、酷いものだった。
以前からの悪政によりじわじわと体力が削られていったところの、飢饉だ。貧困に転がるのはあっという間だったようだ。それでも娘が嫁いだ村は村長がしっかりしていたため、また不作も中央と比べるとまだマシな方だったため、村民が飢餓にまで落ちることなく、訪ねた時はぎりぎりの、最低限の生活はできていた。
中央へ近いほど、餓死者が出ているらしいと、支援物資を荷馬車から降ろすときにこの村人からもセドリックは話を聞いた。そして、口減らしのために親が子どもを売っている、とも。
それは、仕方がないことなのだろう。悲しいことではあるが子どもを売らざるを得ない親を、この状況下で誰も責めることはできない。
そこまで落ちることがなかったこの村は、ただ単に幸運だったのだ。少し違えば、この村もそのようなことに陥っていた可能性は十分にある。
ただ、売られた子どもの行く末を思うと、心が痛んだ。心ある貴族に奉公人として買われれば良いが、そもそもこの国の貴族自体、貴族としての矜持を少なくとも先代の国王に仕えている時から利権に目が眩み、どこかへ捨ててしまっている。この国のそのような貴族に買われても飼い殺される可能性は高く、かといって通りすがりの行商人などといった他国から来た大人に買われても、どのような扱いを受けるか分からない。
それこそ、その子どもの持つ、運、次第だ。
そして子どもを売ったからといって、親が貧困から逃れられるわけでもない。今のこの国の運営ならばさらに貧困は深まり、彼らは生きていく道を探し求めてこの国から逃げる難民となるだろう。
ただ隣国に逃げても、その国で生活する基盤がそもそもない。そうであれば苦しい生活が待っているだけなのだが。
だからといって、セドリック自身に何ができるわけでもない。せいぜい、自分の村にある備蓄を分けることの賛同を村民から得ることと、このように運んでいくことで、交流のある村ひとつ分の飢えを、ほんの少しだけ潤すくらいだ。
そのような彼らの噂話にやりきれない思いを抱えながら、娘宅からの帰り道に立ち寄ったいつもの宿屋で、セドリックはアシアとディフを見つけた。子どもの痩せ具合に釣り合わない、宿屋の代金を支払うことができる中肉中背の同行者の大人。彼らを見て頭に浮かんだのは『人身売買』の4文字。気づけばセドリックは声をかけてしまっていた。
声をかけて、瞬時に後悔した。
もし、彼らが本当に『売人』と『商品』だと知ったところでどうするのか。そうであったとしても、自分にその子どもに対して何かできるわけではない。子どもを買うとしても資金がないし、たとえ資金があったとしても、赤の他人のその子どもが成人するまで責任が持てるか、というところもある。子どもは家畜とは違う。しかもそもそも人身売買は禁止されている。
自分は貴族とは違い、ただの農民だ。役人に見つかればどのような理由があろうとも、重い罪に問われるのは自明の理だ。
それなのに声をかけてしまい、かけられた大人がフードを剥いだその下からは、その子どもとは似てもいない白金色の髪と琥珀色の瞳を持つ青年が現れた。
完全に、アタリ、だと思った。
故に、咄嗟に口から出た「親子か?」といった問い。
その問いに否定の答えが返ってくると身構えたが、それに反して返ってきた答えは肯だった。セドリックにとっては予想外だったその答えを聞き、次に頭に浮かんだのはこのふたりは『売人』と『商品』ではなくて、『買った大人』と『買われた子ども』なのだろうか、だった。
が、「親子か?」の問いにためらうことなく首肯した大人と、その大人の反応に嬉しそうに、はにかんだ笑みを浮かべた子どもの態度から、セドリックはそのようには受け取れなかった。とは言え、見た目の姿かたちからはとても血のつながった親子には見えないのも事実だ。
試しに青年と話してみると、口調は丁寧であり、物腰も柔らかく、それらから育ちの良さがうかがわれた。セドリックの強引さにも不快さを表情に出さなかったどころか、笑顔を向けてきた。
しかし笑顔で返してきた彼は実は食わせ者なのではないか、とセドリックの直感が働いた。その笑顔は、実は拒否の意味なのではないか、と。現にセドリックの問いかけに答えはなく、返ってきたのは柔らかな笑顔だけだった。
これはやはりこのふたりは彼が言う親子ではなく、たぶん『買った大人』と『買われた子ども』の関係なのだろう、とセドリックは確信した。
人身売買は道義的に反することだ。売られた子どもに権利なんか有りはしない。商品となった時点で、子どもを護ってくれる大人はいないに等しい。
しかし、子どもの持つ『運』が良ければ、実の親といるよりも良い環境下で育ててもらえることだってあり得る。この時世に実の親といることが必ずしも幸せとも限らない。
セドリックには、子どもが青年を見る瞳には怯えや恐怖は無く、信頼の色が浮かんでいるように見えた。また、青年が子どもを見る瞳には情があるように思えた。多少のぎこちなさがあるのは、出会って間もないからではないだろうか。
しかしこの国も、自分が住む国も、人身売買はご法度だ。見つかれば重い罪に問われる。役人に見つかり、取り上げられた子どもの行き先はどの国も、養護施設だ。オウカ国やライカ国のような組織や制度がしっかりと確立されている国ならば信用が置けるが、他のほとんどの国は制度の確立は無く、その国の貴族たちの形だけの慈善事業でしかない。施設入所は死を意味するところも少なくはない。この国は、特に酷い。
この国はすでに難民が出始め、隣国へ逃げるその数も日々増えてきている。セドリックが娘の住む村へ支援物資を運ぶ際に通った出入国管理所は、セドリックの住む国側は軽武装した役人の配置を増員させており、入国者を選別していた。もし、この国の貴族でもなさそうな青年が役人から疑われ捕まったのなら、この子どもはどうなるのか。
そこまでの考えに至った時点で、すでにセドリックの身体は動いていた。笑んでセドリックとの会話を強制終了した青年の隣に空いている椅子を持って行き許可無く座り、ふたりを隣国まで送り届ける提案が口をついて出ていた。
この青年が本当に信に値するのか。子どもはこの青年のもとが一番良い選択なのか、正直言って迷いはあったが、考えるより先に行動に移してしまっていた自分へ、呆れた表情を浮かべた妻のエイダの、いつもの叱責の言葉が浮かんできたが。
今までの人生で、肝心なときの直感が外れたことは無い。その経験則からセドリックは青年へ強引に交渉を進めた結果、出入国管理所でのこの顛末だ。
「こちらの方向で大丈夫ですか?」
車輪が小石に乗り上げたのか、かたん、と小さく荷馬車が揺れた振動と、アシアから声をかけられたのとで、セドリックは現実に引き戻された。
気づけばいつの間にか荷馬車は主要道路から枝別れした、少し細めの道に入っていた。セドリックが指示しなくとも、何度も通った村へ続く道を馬は覚えており、勝手にそちらに向かっている。
「大丈夫だ。俺の村に続く道だ。」
セドリックの答えに、そうなんですね、と返してきたアシアは、セドリックをはさんだ向こう側に座るディフを気にかけている様子がうかがえる。
ディフはアシアが戻ってきた時には明らかに安堵の表情を浮かべていたが、だからと言ってアシアに何か声をかけることはなく、現時点まで無言だ。不安気な表情こそ消えていたが、いまだに膝の上に置かれた両手は、ぎゅっと固く握られたままだ。
そのようなディフの様子に対してアシアは気にしているようだが、どう接してよいのかあぐねている感がありありと見られる。
彼らふたりの様子にどうしようかと、セドリックが思案し始めたその時、
「わぁ。」
と、今まで無言だったディフが小さく感嘆の声を上げた。
突然、目の前に広がった、地平線の向こうまで続く平原。
森を抜けたのだ。
遥か向こうに見える1本の大木が、村に入る目印になる。村人が村から出かけた帰りに、誰もがいったんそこで休憩する場所だった。
馬も朝から走らせ続けており、疲れているだろう。
陽も中天をとうに過ぎた。
宿屋の店主が、夕べの残り物だ、と3人分の軽食を持たせてくれている。
それに先ほどの、出入国管理所の役人たちのアシアへの対応。上官にいざなわれ、カウンター奥のテーブルを挟んで上官と向かい合って座っていたアシアは、特に緊張した感も無く、どちらかと言えば上官のほうが緊張しているように見えた。アシアを先導し、荷馬車へ連れ戻してきた上官の額に、玉のような汗がにじみ出ていたのがその証拠に思える。
しかも上官を含め役人たちはアシアを尋問する風でもなく、時折ざわめきのような声も漏れ聞こえ、その雰囲気からカウンター向こうで何が行われていたのか、何が起こっているのかセドリックには想像できなかった。
あの場所で何があったのかを訊ねてみても、アシアが素直に答えてくれるとも思えないが、アシアを連れて行かれてしまった心細さから微かに震えていたディフを、セドリックはアシアが荷馬車に戻ってくるまでずっと宥めていたのだから、訊くくらいは許されるだろう。アシアが何者なのかも含めて。
「あの大木の下で休憩にしようか、アシア。ディフも腹、減っただろ?」
セドリックはアシアにそう提案しながら自分を挟んでアシアとは反対に座っている、ディフの黒髪を撫でようと手を伸ばしかけ、ふと今朝の彼の怯えを思い出した。
アレは大人から一度や二度ではなく、日常的に叩かれていたか、殴られてきた経験があるからではないだろうか。そう思い、今度は伸ばした手をディフの前からではなく、後頭部に手を回しその黒髪をくしゃり、と撫でた。
はい、と小さくうなずくディフの声に、そうですね、といったアシアの声が重なった。
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