第4話
「ディフ、僕たちはこれからオウカ国へ向かいます。」
実は師のお使いの途中の寄り道だったんです、とアシアはゆったりとした動作で身支度を整えながら少しも悪びれた様子もなく、ふわりとした笑顔を浮かべる。ディフもアシアが身支度を始めたそれに倣い、昨日アシアが行商からディフのために仕入れてきた旅人用の服に着替え始めた。
ディフは毎日、アシアが宿屋の主人から貰ってくるお湯で身体を拭き、長かった髪はアシアに短く切ってもらい、アシアに買われる前の薄汚れた感とは違いこざっぱりとしていた。顔色は彼を引き取った時から比べると、ここ3日ほどで幾分かマシになっている。るい痩状態はさすがに変わらないが、立っているのがやっとから、少しくらいの体力は戻っているようだ。
これなら少しずつ旅を進めてもいいだろう、とアシアは判断したのだった。
実のところ、できれば早くこの街から、この国からアシアは離れたかった。その理由はディフを買ったことについて、役人の耳にいつ入るか分からないといったリスクがあったこと。またそれだけではなく特に、この国全体を覆っている澱みがアシアの身体上、精神上にまとわりつき始めたからだ。
この国は、じきに持たなくなる。
そのような空気が日々、濃くなってきていた。
この国のよろしくない状況の流れを受けてアシアは感覚を研ぎ澄ませてみたが、この国には『箱庭』の管理人の気配はつかめなかった。もし居たとしても、なりを潜めて状況を傍観しているのか。あるいはこの澱みを嫌い、すでにどこか違う国へ移り住んだのかもしれない。
とはいえ、たとえ『箱庭』の管理人が居たとしても、この国の施政者が彼らの言葉に耳を傾けない限り、何ができるわけでもなく、何が変わるわけでもないのだが。
そう、自分たち『導師』は過去の積み重なってきた歴史を、身をもって知っているだけであり、そこから指南できる程度で、何かを変えるなどといった大それたことなど、本当はできない。何もできない存在に等しいのだから。そのように考えている故、アシアは自分の存在意義にいつまで経っても迷いがあるのだ。
『箱庭の管理人』はこの世界、箱庭に住まう人々から『導師』と呼ばれる存在だ。自分たちのことを『箱庭の管理人』と呼称するのは『導師』仲間しかいない。いわば揶揄する表現だった。
導師はこの世を構成する「火、地、風、水、光、闇」を知り、扱うことができた。故に人々からは精霊と契約を結んでいる、と見えているようだった。
実のところ扱っているだけであり、精霊と契約など結んでいない。あえて契約を結ぶ、と表現するのであれば、契約主は精霊ではなく『箱庭』の創造主となる。
選ばれし者、と言えば聞こえがいいが、体のいい管理人だ、とアシアは思っている。
『箱庭』の理から外れた魂を持つ存在。それが、人々が畏怖する『導師』といった存在だった。
畏怖される理由には、6大エレメントを扱うことができるだけではなく、老いることがない、ということが多分にある。
アシアは一見27、8歳くらいに見える青年だが、誕生は100年以上前だ。生まれて100年を越えたあたりから自分がいったい何歳になったのか、についてはどうでも良くなったので、確実な年齢はすでに分からなくなっていた。
アシアの師に至っては、何百歳になるのだろうか見当もつかない。何度か訊ねたことはあったが、返事は返ってきたことがない。彼女もきっとどこかの段階で、数えることに厭きたに違いない。
「アシア?」
いつの間にか身支度の手を止めてしまっていたアシアに、ディフが何か手伝うことはないか、と申し出た。
「あぁ、大丈夫ですよ。ディフはもう、準備ができたんですね。」
ありがとうございます、とアシアは礼の言葉を述べると、ディフの身体全体を改めて観察する。
アシアの前に立っている彼の状態は、出逢った時のようなふらつきは見られない。その状況から体力はある程度戻ってはいるだろうが、決して万全ではないだろう。ここから遥か東へのオウカ国へ、急ぐ旅路をするにはまだ難しそうに思えた。
風の力を使えばオウカ国まで直線距離となり、3週間程度の旅程となるが、導師でもないディフに風は使えない。となれば、それよりも何倍もの距離となる陸路を、選択するしかないのだが。
「・・・馬、にしましょうか。」
馬は平気ですか?とディフからすれば今までの会話と何の脈絡のない、突然の話題であるにもかかわらず、
「平気です。」
と、彼の口からは疑問を挟むことなく、打てば響くような返事が返ってくる。
ディフがアシアのもとに来たエピソードが人身売買であったにしても、アシアは彼を自分のした働きにさせるためにあの男に金銭を払ったわけではない。現段階ではあの男に言った通り、彼の養親という立ち位置でいるつもりだ。アシアは彼の保護者ではあるけれども、アシアとディフは主従関係ではなく、対等な立場だと思っている。
それなのに、彼はアシアの言葉に素直に従う。素直すぎるほど、にだ。
返ってくる言葉も、肯定しかない。
肯定か否定か。その二択しかできない生活環境だったのか。もしかすると二択ではなく、肯定だけの一択だったのかもしれない。
確かに、知り合ってまだ3日目の関係だ。遠慮も多分にあるだろう。それを差し引いても、やはり彼は常に従の立場を選んでしまっている。今までの生活から、そのように慣らされてしまったのか。
年齢よりも小さいのは身体だけでなく、その心もだ。抑え付けられ、栄養も与えられず萎縮し待っている、心。
不測の事態だったとはいえ、アシアが彼を拾ったのだ。自分の手のひらに受け止めた、幼い生命。養親になると決めた限りは、自分が萎縮してしまっているその心を少しずつ育てなければ、と思う。そのためにはまずは、彼の拠り所となる存在にならなければ、彼の本当の思いをその口から聞くことはできないだろう。
ディフ、とアシアは屈んでディフと目線を合わしその手を取る。
「嫌なら嫌、駄目なら駄目、と言ってください。否か応か、判断がつかなければきちんと疑問に思ったことを口に出してください。」
ゆっくりと、言い含めるように。
「僕はあなたからの問いかけに、真摯に向き合って答えることを約束します。そしてその答えからあなたが考え、あなた自身が納得した返事をしてください。否定や疑問は悪い言葉ではなく、それはあなた自身を守る言葉でもあるのですから。」
叱責と受け止められないように、静かにアシアは言葉を紡ぐ。
彼の、視線を逸らすことなく向けてきたその深い藍色の瞳は、アシアの言葉に少し揺らぎはするが、怯えの色は見られなかった。
アシアの真意は伝わったのか。
今までのようなディフからの即答はなく、二人の間に沈黙が落ちる。
ディフはいったん視線を足元に落とし何かを逡巡する様子が見られたが、その視線をアシアに戻すと、
「ボク、アシアの言っていることが、あまり、わからなくて。」
ごめんなさい、と再び視線を足元に落とした。
ディフからのその発言に、あぁ、ちゃんとわかってくれている、と。そして自分は少しは彼から信頼に値する存在だと認識されているのだ、とアシアの瞳に柔らかな笑みが自然と浮かんだ。
今朝までの彼なら、アシアを主として捉えたままの彼なら、アシアのこの諭す言葉に「わかりました」といった類の返事がすぐに返ってきたはずだ。それがアシアの助言した通りに自分でいったんは考え、謝るようなことでもないのに謝罪付きではあるが、自分の言葉で返してきた。
アシアはディフの手を握っていた自身の両手を離し、
「いいえ。僕のほうこそ、難しく言いましたね。でも、」
そっと、彼の頬に触れる。頬に触れられ顔を上げたディフに、
「ディフはちゃんと、僕の意図を汲み取ってくれていますよ。僕の言葉に一生懸命考えてくれて、自分の思ったことをきちんと返してくれて嬉しかったです。」
アシアに対して信頼が芽生えてきていたとしても、否定の言葉を口にするのは勇気がいったことだろう。自分が発したそのひと言で、また見捨てられてしまったら、といった恐怖が本人の自覚がなくても根底には根付いているだろうに。
「これからオウカ国まで、長い長い旅路になります。その分、時間もたっぷりあります。たくさん、話をしましょうね。僕はディフのことが知りたいですし、僕のこともディフに知って欲しいのです。」
陸路を馬での移動だと半年以上はかかる。ディフのために、と考えると、色々な場所に立ち寄り、さまざまな事柄にふれる方が良い。そうなれば、1年くらいかけての旅程になる。
とは言え、アシアが持っている知識を彼に伝えるには時間的には足りないくらいだ。オウカ国に着くまでに最低限、人としてひとりで生きていくだけの知識はせめて伝えたい。
行く先々でそこに住む人たち、すれ違う人たちとの交流を得るなどといった内容を考えると、本来ならアシアは絶対に嫌がる旅路だ。そのような選択を少なくともここ100年の間、選んだためしがない。それくらい、箱庭の人々と触れ合うことを苦手としていた。
が。
はい、と半分泣きそうな表情のディフを見ると、それが彼にとって一番良い方策だと思えた。
この両手に掬った、小さくて冷え切ってしまっている彼の生命を、少しずつ時間をかけて暖めていこう。彼が『箱庭』の管理人候補であるにしろ、ないにしろ。
アシアの中に、ディフとなら暖かな旅路になりそうな、そのような気持ちの良い予感が湧いていた。
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