春を告げる小さな音
七海 司
空色の杯に音楽を注ぐ
お昼休みを迎えた教室には音が溢れ、徐々に雑然としていく。
ガガっと引かれたイスの足と木製の床が擦れる音。
立て付けの悪い引き戸がガタガタと悲鳴をあげる音。それ以上に学習の義務から解放された生徒達の弾んだ声がよく響く。
そんな教室で僕も雑音を一つ生み出す。カバンから取り出した菓子パンの袋をカシャカシャと破き、ソースの香りを袋から解放する。
「お昼を一緒にって約束、してたよね?」
コンビニで買ってきたラム肉入りのUFO焼きそばパンに注がれていた視線を外し、顔をあげるとそこには幼馴染の顔があった。短く切り揃えられ、光の加減で薄い茶色にも見える細く滑らかな髪が揺れている。垂れ下がった困り眉で見つめられると何もしていないのに悪いことをしてしまったような罪悪感にかられてしまう。
「約束、して、たよね?」
彼女のただでさえ下がっている眉が不安からどんどん下がっていく。
可愛いのでずっと見ていたい。そんな思いを隠すために外していた不織布のマスクを付け直した。
「うん。してたしてた。ウォーミングアップしたら行こうかと」
「お昼を食べるのになんでアップがいるのさ」
彼女の大きな目の目尻が下がっている。僕のくだらない冗談のような言い訳を笑って受け止めてくれるのが嬉しくもあり心地よい。
「そんなことよりも私、できちゃったの」
困ったように眉尻が下がった顔で言われると何か深刻なことではないかと勘繰ってしまう。それは他のクラスメイトも同様だったようだ。
その証拠に教室から音が消えた。あれだけ煩かったのに今は誰1人音を立てない。ピンと張り詰めた弦のように誰もが無言になり、ひっそりと耳をそば立てている。
無音のざわざわが雰囲気として僕の耳に入り込んでくる。
「主語を入れてくれ。頼む」
「もう、作曲ができたら聴いてくれるって約束したでしょ。あと出来次第ではもっちり白ネコちゃんケーキ奢ってくれるって」
教室中でほっと息が吐かれる音が聞こえた。緊張の糸は緩みもとの雑然とした教室に戻っていった。そんなクラスの雰囲気に気づかず彼女は、身を乗り出してくまちゃんケーキを強調してくる。そんなに食べたいのだろうか。
「では、拝聴します」
「くるしゅうない」
彼女はスマホのロック画面で190822と僕の誕生日を打ち込んでいく。中学からずっと変わることのない彼女のパスコード。
操作が終わったのか控えめにスマホが差し出された。どうやら再生は自分でタップしろと言うことらしい。
人差し指の爪とディスプレイがぶつかりカッと低い音を出した。が、彼女の作った曲は聞こえない。スライダーは動いているから再生されているのは間違いない。
7秒。
タイムスライダーは右端まで行ってしまった。
「周りの音に負けちゃってるね」
「し、仕方ないでしょ。恥ずかしいから小さめの音にしたんだから。それにそれ以上長くは私の心臓が耐えられないから」
手を忙しなく動かし、あわあわしながら弁明された。心なしかマスクの隙間から見える彼女の頬が先ほどよりも血色が良く、可愛らしく染まっている。
「なら、場所を変えようか。静かなところ知っているから」
――――
非常階段。
普段鍵が閉まっていると思い込まれているためか誰も来ない秘密の場所。
ヒュウっと冷んやりとした風が僕たちを撫でて、寒く青い空へと抜けていく。それとは対照的に日差しは春のようであり、温かくすらある。
ぶるっと震えた寒がりな彼女にマフラーをかけてあげる。
「ありがと。これ」
そう言って差し出されたのはBluetoothが主流な今の時代には珍しい、コードがついた蒼いペンギン色のイヤホンだった。彼女の普段使いのイヤホンとは別物だ。
どうやら使えと言うことらしい。だが、なぜ片方しか渡してくれないのだろうか。
「早く。左耳用だから。あと新品だからキレイよ」
彼女の口数が減り、なぜかぶっきらぼうになっていく。冷気に当てられたのか心なしか彼女の頬が赤い。
そっぽ向いて渡されたそれを言われるままに左耳に装着する。
彼女は僕の正面に立ち髪をかき分けるようにしてもう一方のイヤホンを右耳につけた。
なんだこの状態は。
顔が近い。コードが短く体を寄せなければならない。彼女の髪からフローラルな香りがする。顔が近い。寒いはずなのに暑い。拍動がうるさい。額とおでこが微かにぶつかるも離れてはくれない。真正面から彼女の目を見つめることになる。
「さ、再生するね」
彼女作曲の音楽が聞こえるが、聞こえない。
僕の心臓の音が邪魔で何一つ聞こえない。耳の中を流れる血液がゴウゴウと騒ぎ立てている。心が暴れ回り聴く余裕がない。煩悩を払うために脳内再生した除夜の鐘が響き、世界から音楽すらもかき消していく。
【私は君が好き】
左耳にささやくような彼女の声が甘く響く。それは楽曲の最後に録音された彼女の
「どう?」
彼女はイヤホンをしたまま不安げに上目遣いで聞いてくる。
「曲はドキドキしすぎて聞こえなかった。今も心臓がバクバク言ってる。確かに7秒以上は耐えられなかったと思う。でも最後は……ううん。何でもない、しっかり言葉をまとめてから伝えるね」
僕の反応を見た彼女の目尻が下がり、マスク越しでも分かるくらいに口角が上がって彼女に花が咲いた。
その反動でイヤホンジャックからピンが抜けて、7秒の音楽が乾いた冬の空に溶けていく。
ピンが抜けるのと同時に彼女のお腹から出たきゅるきゅる音がスマホから再生された音楽を上書きしていった。
照れ隠しにバシバシと僕の肩を叩かく度に髪の毛が跳ねて、真っ赤な耳が見え隠れしている。
「し、白ネコちゃんケーキを食べに行くのはデートだからね」
感想はまだ言っていないのだが、奢るのは確定らしい。そしてデートも決まってしまった。ならば、デートは2月4日彼女の誕生日。それまでに気の利いた言葉を考えておこう。
誕プレに用意した空色の
僕の心には確かに届いていた。イヤホンを通じて聞こえてきたのは、雪解けのように人知れず告げる春の音色だった。
外れたイヤホンの代わりに僕たちはぎゅっと手を繋ぎ非常階段を後にした。
春を告げる小さな音 七海 司 @7namamitukasa3
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