2. A.D. 1C.ガンダーラ

「ブッダ様の像を造りたいと願うのであります」


 彼等かくの如く申したり。


 世尊を像造らんと欲す――?

 何の故にか――?


 ここ、ガンダーラにて修行したるに、かくの如き問い或は願い寄せらるること多し。

 されど、釈尊五蘊に捕わるるべからずとのたまいし他、色を述べたもう事無し。

 また、仏法僧の三宝、孰れもその像に定めし形も無し。

 或は世尊並びに十大弟子、或は先のジャータカ代々、或は後のマハーカーシヤパ尊者に続く五百羅漢、その孰れも敢えて像を造る事なし。

 唯仏法を礼賛し、戒を保ち、以て衆生を化道したもうのみ。

 しかれども、ギリシア人やペルシア人の多く、釈尊の像を欲すること甚だし。

 かの者等来る地、その神像を建てる事大いに盛んなり。

 されど我が教主釈尊、神に非ず。

 或はカピラヴァストゥ、或はブッダガヤー、或はサールナート、或はクシーナーガル、或はマガタ国、その孰れも神像建てる倣い無し。

 同じ人の身にあってかくも異なるもの、教化善導すべきや?

 不審甚大なり。


 そも、釈尊は涅槃入道し給うが故に、色も無く、或はその姿三界を離れて久しく五百歳にならんとす。

 一切の垢を離れ、解脱したもう。

 そこに一切の姿無く、見る事も適わず、また思議も能わぬ。

 その尊師の姿を像造たらんと欲するその由や如何に?

 蓋し、このごろ寄進されたるストゥーパに釈迦牟尼仏の一生、或は前世のジャータカの姿彫られたる事増えたり。されど、それら一切本尊に非ず、ただ宝塔を荘厳するのみ。

 それら一切宝玉に等しく、各々石工、匠による身の供養、功徳善根の為なり。

 しかるに、かの者共曰く、釈迦像を以て本尊となし、それに祈らんと欲す、と。

 それ、仏法に適うものか?

 不審甚大なり。


 そも、世尊説き賜いしは五蘊六道を離れ、この娑婆サハー世間より離れ、三界を離れ、唯一切の因果因縁を正見せよとの旨と覚ゆ。

 六根六識一切はただ一心の顕れ。

 色への頓着を離れ、世間への頓着を離れ、唯一心を定め、禅譲三昧に入り、一切世間を正見する内に涅槃寂静に入ると宣いしと覚ゆ。

 そこに一切の色形、有無も在らず。

 一遍の音声さえ残さず。

 豈、釈尊をして法の他三十二相一切を残さず。焉んぞ凡夫をや。

 しかれば世尊、敢えてその御姿を像造ること宣べたもう事も無し。

 また、それ論ずる事の埒外なり。

 不審甚大なり。


 かくの如き事、つらつらと思議し、僧伽藍ソンギャーラーマにてストゥーパに合掌礼讃を以て右繞三匝うにょうさんそう(崇敬対象を中心に右回りに三周する礼)す。


 この宝塔納まりし大伽藍、荘厳甚大なり。

 僧園の栄えるも甚だしく、経、律、論の交わさらるも深甚なり。

 論の交わさらるも東は漢土の儒家、西はアレクサンドリアの哲学者フィロソフォスに至るまで、広大深遠に語りたり。

 以て経の磨かるること利剣が如し。


 ブッダ様の像を造りたいと願うのであります――


 かの者共の顔と声とが浮かび来る。

 我らシャモン、東西の賢人に法論するに囚われ、かえりてかの在家の者等に何を説きえるや?

 これら宝物を供養して尚、六趣に惑い、なお世尊の姿を見んと欲するあの者等に――

 衆生を化道する事能わざれば、それ食法餓鬼にあらずや?

 袈裟を巻き戒を保つとも、才能ある畜生に堕したらんや?


 端座す。


 そも、世尊その法を説かんと欲するに、その始め如何なるや?

 鹿苑のその姿、如何なるや?

 世尊始めにその悟りを述べたもうに、その対合衆に鹿を得たり。

 始めに法説き賜いしは畜心なり。

 されど、かの畜生等、その心を良く受け、却りてシャモン、バラモン等外道の人程それに反したり。かの六師外道正にこれなり。

 これら抗したるシャモン、バラモンも、後には釈尊に帰依しその弟子となる。

 これ即ち、畜生と人とに心の差別の無き事を示したもうか。

 而してこれより敷き衍べるに、地獄乃至天界、三世十方森羅万象一切衆生、無量無辺その一切に差別なく、皆等しく、唯縁に依って顕わると思惟すべきか。

 一切世間、五蘊の因縁に冥するならば、即ち一切の縁起も亦五蘊六識に顕れると信ずべきや?

 しからばその一心、何に定めて観るべきや?


 世尊と我ら衆生、等しく差別なしと一心を定むべきか――?


 それ、我慢偏執にあらずや?

 凡夫と釈尊とが等しいと、それ、慢心にあらずや?

 されど、釈尊説き賜うもの、その心を探り、思議するにこれなり――

 豈直ちに信ずべきや?


 そも、世尊、何の故にその法を説き賜うか?

 ブッダガヤー、菩提樹のその下で成道し給いしとき、ブラフマーとインドラとに請われて猶、難を受くるは必定と畏れ、述べるに逡巡したまいしその法を、何を以てか衆生に説かんと決したらんや?


 如是我聞エーヴァム・マヤー・シュルタム——


 諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得しめんと欲するが故に世に出現したまう——

 衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に世に出現したまう――

 衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に世に出現したまう――

 衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に世に出現したまう――


 しからば――

 仏の一切本地因縁、凡夫の身に具足すべきや――?

 しからば――

 仏の相、性、体、力、作、因、縁、果、報、その本末等しく凡夫の身に顕るべきや――?


 そも、釈尊、何の故にか仏に成り給うか――?

 それ、シッダールタ王子のその身に仏の法を顕すが故に仏と成り給う。

 菩薩の道を行じ、窮めんが為に仏と成り給う。

 ならば、人の身を通じ、仏性を顕すにそれは仏と成り得るや?


 是――


 そも、釈尊、何の故にか仏に成り給うか――?

 それ、シッダールタ王子の己心に仏の法を観るが故に仏と成り給う。

 菩薩の道を観じ、窮めんが為に仏と成り給う。

 ならば、人の心を観じ、仏性を観ずるにそれは仏と成り得るや?


 是――


 そも、釈尊、何の故にか仏に成り給うか――?

 それ、シッダールタ王子の他に仏の法を礼讃するが故に仏と成り給う。

 菩薩の道を支え、窮めんと礼讃する故に仏と成り給う。

 ならば、人の心の仏を礼讃し、仏性を礼讃するにそれは仏と成り得るや?


 是――


 仏法僧、全て人の身に具足して円満なり――

 円満なり――


 そも、釈尊入滅され給うより先に成道し給う。

 生身しょうじんのまま仏知見を開き給い、智慧と慈悲とを顕して衆生を教化し給う。

 三身そのまま、その身のまま、生死しょうじを超え給う。

 生老病死、四苦八苦を超え、菩薩の道を行じ給う。

 豈、これ涅槃寂静に非ずや?


 ならば――

 己心の仏性を顕し参らすれば、この娑婆世間そのまま寂光。

 一切万人これを成せば、この穢土三界、そのまま浄土仏界。

 それら一切、己身の五蘊に納まれり。


 ならば――

 釈迦仏の像を通じて鏡となし、己心の仏性を観じ、その身をして菩薩の道を精進するならば――

 それ、本尊として仏法に違背無し——


 我ら出家の僧尼のみならず、在家の男女もまたこれにて成道の術を得るべきや――

 来る処の如何、行業の如何、気根の如何、衆生一切差別なし――

 皆成仏道の道開かれたり——


 ブッダ様の像を造りたいと願うのであります――


 あの者等の顔が、目が、浮かび来る。

 袈裟を着て畜心に堕ち、食法餓鬼と果てる者あり。

 畜生を屠すを生業にするも、その内に菩薩の心を顕す者もあり。

 何れが釈尊の御心に適うか――

 在野の苦と迷いと懊惑との内に寂光をしろしめんと精進する者共——


 それ、世尊の心に適うなり。

 我が不審晴れたり。


 いざや造らん。

 仏の像をば。


 世尊は何の故に世に出現したまうか――

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