108 少しだけ変わったこと


 今日は終業式。


 かつてのわたしは、さしたる感情もなくこの時間を過ごしてきた。


 いや、凛莉りりと離れたままの雨月涼奈わたしだったら、落ち込んで今まで以上に苦痛な時間になったと思う。


 でも、そうしないでいられるのは――


真白ましろ


 いつもの繁華街の待ち合わせ場所、凛莉がわたしの名前を呼ぶ。


 ついこの間まで当たり前だったのに、一緒に登校しなかった時間があるだけで随分と懐かしいように感じる。


 戻ってきた日常と、一つだけ変わったことがわたしの心を躍らせる。


「なんだか、改めて呼ばれると不思議な感じするね」


「なにが?」


「名前、久しぶりに呼ばれたから」


 凛莉はわたしの名前を呼んでくれるようになった。


 この世界でずっと借り物だった名前だけど、彼女だけが本当のわたしの名前を呼んでくれる。


 それは、気恥ずかしさもあるけれど、喜びもあった。


「真白が本当の名前なんでしょ?」


「うん、凛莉が信じてくれるならね」


「いやぁ……正直、改めて考えてみてもピンとこないけどさぁ」


 困ったように笑う凛莉は、正直者だと思う。


 今も彼女の中では、この世界が恋愛ゲームの世界であることを信じてくれているわけではないだろう。


「でも、真白が嘘言ってるわけじゃないのも分かっちゃうんだよねぇ。変な感じ」


 それでも、ほんの少しでも信じようとしてくれているのだから。


 それでいいんだと思う。


 この世界がどうとかは、わたしたちにとってはそこまで重要な話ではない。


 それよりも今、気になるのは……。


「凛莉、ネックレスつけないの?スカートもいつも通りだし」


 彼女のブラウスのボタンはかつてのように空いたままで、スカートの丈も短いままだ。


 凛莉はそれについて一瞬、“うっ……”と呻き声のようなものを上げたけど、すぐに平静を装う。


「考えたんだけど、真白から貰ったもの学校で取り上げられたくないし。ブラウスのボタン閉めるのも、スカート長くするのも、こんな暑い時期に機能的じゃないでしょ?」


 ネックレスの件は、わたしも取り上げられたくないからいいけど。


 ブラウスとスカートの件は物申したい。


「服に機能性とか言わないんじゃなかったっけ?」


 わたしの私服でスウェットの機能性について語った時、凛莉が反論してきた言葉だ。


「あたしは言わないけど、真白が言ってたから」


 なるほど、わたしの言葉を使えば納得すると思ったわけだ。


 でも、そういった小さなことを覚えてくれるのも嬉しかったりする。


 時間を積み重ねていくと、こうして仲が深まるんだなと思える。


「まあ、いいけどね」


「えっ、マジ」


 逆に驚いたような声を上げる凛莉。


 自分でも不思議だったけど、以前のわたしより凛莉に対して寛容になれている気がする。


 それはきっと、わたしのことを知ってくれて、それでも一緒にいてくれる凛莉に自信が持てたからなのかもしれない。


「その方が凛莉っぽいしね」


「え、えへへ……?だよね、やっぱりそうだよね」


 全てを打ち明けても一緒にいられる関係が、わたしの孤独感を埋めてくれているのを感じている。


「行こうか」


「だるいけど、すぐ終わるし頑張るかぁー」


 気だるくて、暑い夏。


 それでも凛莉と一緒なら、笑って過ごせる。



        ◇◇◇



 終業式は形式ばったもので、特に何をするでもなく時間が過ぎていく。


 金織かなおりさんが壇上で挨拶しているのだけはちゃんと聞いたけれど、他のことは上の空。


 ぼけっとしている内に終わってしまって、気付けば順々に在校生が体育館を後にする。


 わたしもその流れに沿う。


 渡り廊下を歩くと夏の陽ざしが急に窓から差し込んだ。


 眩しいなと思って目を細めると、トントンと背中を叩かれる。


「え……?」


 何かなと思って振り返ると、ツインテールの髪が揺れていた。


雨月涼奈あまつきすずな、ちょっと付き合いなさいよ」


「ここなちゃん?どうしたの?」


「ここだと人が多いから、ちょっと場所変えるわよ。時間はとらせないわ」


 教室に戻っても先生が来るまでは少し時間があるだろうし。


 HRしか残ってないし。


 特別問題はないだろう。


 ここなちゃんに付いて行って、長蛇の列から抜け出した。







 着いたのは中庭だった。


 久しぶりに来たけれど、すっかり緑が生い茂り、据えられた木も青緑の葉になっている。


「あんた、とうとうお兄ちゃんに別れ話を持ち出したらしいわね」


 ここなちゃんは間髪入れずに本題に入った。


 進藤くんから話を聞いたのだろう。


「別れ話なんて大層なものじゃないけどね、元々付き合ってるわけじゃないんだし」


「それ以上の関係みたいなところもあったじゃない。昔からの縁で甲斐甲斐しくお兄ちゃんの面倒を診てたんだから」


「まあ、そうかもしれないけど……。でもそれは春ごろにやめてたし」


 その結果、ここなちゃんも進藤くんへの態度が変わってしまったのは誤算だったけれど。


「それは知ってたけど、でもちゃんと言葉にして伝えてはいなかったでしょ」


「そうだね、それはしてなかった」


 その中途半端な態度が全てを狂わせていたんだと分かって、わたしは自分の態度を明らかにした。


 そうしないと凛莉と向き合うことが出来なかったからだ。


「お兄ちゃん、あんたのこと気に入ってたし。昔からの腐れ縁だからって友達以上恋人未満的な扱いしてたみたいだけど、それでもあんたに好きな人が出来たって聞いた時はちょっと複雑だったみたいよ」


「そう……なんだ」


 そんな雰囲気は全然感じなかったけど、それでもやっぱり芽生えていた気持ちはどこかにあったのだろう。


「自分でも気づいてなかったみたいね。側にいてくれる人が当たり前じゃないって、あんたが離れてようやく気付いたのよ」


「でも、それはここなちゃんも同じでしょ?」


 雨月涼奈に対抗心を燃やし、甲斐甲斐しく世話を焼く妹。


 それが進藤ここなというキャラクターだった。


 その彼女が春頃から態度を変えたのだから、喪失感を感じるのであれば、ここなちゃんの時からあったはずだ。


「まあ……そうなんだけどね。でもやっぱりここなは妹だから、ずっと関係は続いて行くからね。良くも悪くもそれが血のつながりってやつよ」


「なるほど……」


「まあ、でも結局それも良かったと思ってるわ。何でも頼りっぱなしのお兄ちゃんが、ようやく自分で動き出すきっかけになるような気がしてるから」


「そっか、それなら良かったのかな」


 手を差し伸べてくれる人はいるけれど、それでもどこかで自分で動き出さなきゃいけないタイミングがきっとくる。


 そうしないと、いつか関係性に歪が出来てしまう時がくる。


 それはわたしの体験だ。


「それで、日奈星凛莉ひなせりりとは上手くいってるわけ?」


「……っ!?」


 なぜ、それを知っている?


 進藤くんには言ってないし。


 金織さんと二葉ふたば先輩には知られているけれど、それでも告げ口をする二人ではないし……。


 もしかして、もう学校では周知の事実だったり……?


「あんたのこと見れてば分かるわよ。ここなだってあんたとはお兄ちゃんと同じくらいの腐れ縁なんだから」


「あ、そうですか……そうですよね」


「まあ、いいんじゃないの。昔からお兄ちゃんに異常にしがみついてたあんたがこうして新しい人を見つけたんだから。その方が健全よ」


「ええ、まあ……おかげさまで」


 もう何と返していいか分からない。


「最初は何であんなギャルなんかと思ってたんだけど、あんたの変わりよう見たら偏見だったのかもね」


「……少しは変われたのかな、わたし」


「変わったのは変わったんじゃない?良いか悪いかは知らないけど」


「悪いパターンもあるのか」


「悪く言えば前ほどの物腰の柔らかさとか、当たり障りのない感じは減ったかもね。自己主張が強くなってる気はするし」


「それって、けっこう悪い変化なんじゃ……」


 わたしは雨月涼奈じゃないから、その子とのギャップもあるような気はするけれど。


 それにしたって、いい変化ではない。


「でも、そんなことは些細なことよ。気にする必要ないわ」


「そうかなぁ……」


 そう言われると気になる性分なんだけど……。


「そうよ。とりあえず今のあんたは、前よりずっと幸せそうなんだから」


「……え」


 そんなに見透かされるほど分かりやすいのかと思うと、恥ずかしいんだけど。


「そそっ、そんなことっ、ないと思うんだけどなっ」


「分かりやすく慌てないでよ、見てるこっちが面倒くさいわ」


 ごめんなさい……。


 わたしが落ち着くのを待っている内に、ここなちゃんは何度溜め息を吐いただろう。


「だから、いいんじゃない。大事なのって幸せかどうかでしょ」


 そうして、ここなちゃんはぐっと両手を上げて背を伸ばす。


 言いたいことは吐き出した、とくるりと背を向けて中庭を後にしようとする。


「ここなも少しだけ、あんたのこと見習わないとね」


 わたしのどこを見習うのかは謎だったけど、そうしてここなちゃんとは別れた。


 太陽が熱くて、わたしも教室に戻る。


 夏休みは、もう目前だった。

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