106 本当のこと


 教室を出る。


 廊下の曲がり角を去って行く影が見えた。


 スカートが翻り、蹴り出した足しか見えなかったけど。


 それだけで凛莉りりちゃんだということはすぐに分かった。


 どうしてあんなに急いでいるのか。


 まるでわたしから逃げているようだった。


 わたしも駆け出して、その後を追う。







 玄関まで下りると、凛莉ちゃんは靴を履き替えていた。


 その動作のおかげで、何とか追いつくことが出来た。


「凛莉ちゃんっ!?」


「――っ」


 声を跳ね上げると、凛莉ちゃんは反射的にわたしのことを見る。


 その表情は驚いてるいるような、悲しんでいるような、怒っているような。


 どれともはっきりしない複雑な感情を孕んでいるようだった。


「待って、わたし話したいことがっ」


「……」


 けれど、凛莉ちゃんは一瞬わたしのことを見ただけで。


 外履きに履き替え終わった凛莉ちゃんは迷うことなく玄関を後にする。


 何も言わず、わたしから逃げるように駆けて行く。


「ちょっと、なんで……」


 また拒絶された……?


 この前みたいに、捕まえても振り払われるだけかも。


 もう話なんて聞いてくれる気はないのかもしれない。


「でも、まだ伝えてないからっ……」


 それでも、もうわたしは諦めない。


 伝えるだけ伝えて、それでダメなら仕方ない。


 それをしない限りは終われない。


 話を聞いてもらえるまで、わたしは凛莉ちゃんを必ず捕まえる。


 だけど、凛莉ちゃんの足は速い。


 このままわたしも靴を履き替えていたら、埋まった距離もすぐに引き離される。


 だから……。


「凛莉ちゃんっ、待ってよ!」


 だから、わたしは上履きのまま追いかけた。


「――っ!?」


 こんなに間髪空けず背中に声が掛かると思っていなかったんだと思う。


 凛莉ちゃんは弾かれるように振り返って、わたしの姿を凝視していた。


 それでも、凛莉ちゃんの足は止まらない。


 縮まりそうになった距離は瞬く間に遠のいていく。


 どうして?


 話しくらい聞いてくれたっていいのに。


 校舎を出ると、その背中はさらに離れていく。


 凛莉ちゃんの足はどんどん伸びやかに跳ねていって。


 わたしはの足は棒のようにガタガタ、肺も酸素を求めて過活動を起こしていた。


 はあはあ、と絶え間ない呼吸音が自分でうるさい。


 このままじゃ、絶対に追いつかない。


 凛莉ちゃんが足を止めてくれない事には、どうにもなりそうにない。


 ――なら、どうやって凛莉ちゃんに振り向いてもらう?


 声は確実に届いていて、わたしを見ているし、理由だって知っている。


 ちゃんと認識した上で、凛莉ちゃんの意思はわたしへの無視を選んでいる。


 だから、止まってくれない。


 そんな人の呼び止め方なんて……。


「な、まえ……」


 もしかすると。


 凛莉ちゃんは、わたしの望みを聞き入れること自体が嫌なのかもしれない。


 それなら、わたしが凛莉ちゃんの望みを一つ叶えてあげれば振り向いてくれるだろうか。 


 話しくらいなら聞いてもいいと思ってくれるだろうか。


 わたしが、ずっと頑なに拒否してきたことを受け入れたら。


 凛莉ちゃんも少しだけ、わたしのことを受け入れてくれるだろうか。


 そんな想いを乗せて、わたしは活動終了を訴えている肺に酸素を無理矢理に送り込む。


 心臓の拍動は早まっていく一方だけれど、今はそんなこと後回し。


 とにかく、わたしの話を聞いてもらう為の一縷の望みに懸けて。


 吸い込んだ空気を、目一杯に吐き出す。




「――凛莉りり!!」




 なんてことはない。


 ただの呼び捨て。


 それでも彼女が望んで、わたしが拒み続けたこと。


 その距離を縮めることで、わたしとの距離も縮めて欲しかった。


「……なん、で」


 想いは届いたのか。


 彼女の足はぴたりと止まっている。


 その背中に追いついて、膝に手を置く。


 息も絶え絶え、体はボロボロ。


 それでも、やっと追いついた。


「――なんで、いまさらあたしの名前を呼ぶわけ?」


「……それは、ね」


 息を整える。


 折っていた膝を伸ばし、顔を上げる。


 彼女の訝しがる目の曇りを、真っすぐに見つめ視線を交わす。


 わたしの話を聞いて欲しいだけで、急に名前を呼んだだけじゃない。


 ただ、嫌だったから今まで名前を呼ばなかったわけでもない。


 わたしには、わたしなりの理由があって。


 今ならその理由を打ち明けることで、彼女と向き合えると思ったから。


 わたしはこうして立っている。


「凛莉、わたしね……」


 かつて彼女が言っていた。


 “名前で呼び合おうよ”


 “距離っていうのはね。自分から歩み寄らないと縮まらないんだよ”


 彼女はいつでもそうして、わたしとの距離を縮めようとしてきた。


 それでも、わたしはいくら“涼奈”と呼ばれても、彼女を“凛莉ちゃん”と呼ぶことを貫き通した。


 これがわたしにとっては、正当な距離感だと思っていたからだ。


 彼女はきっと、対等じゃないと思っていはずだ。


 でも、そうじゃない。


 だって、そうでしょ。


 ずっと何もかも、わたしにとっては本当じゃなかったんだから。




「わたしの名前は雪月真白ゆきつきましろって言うの」




 だから凛莉には、わたしのことを真白と呼んで欲しかった。


 それが本当のわたしだから。


 この世界では雨月涼奈あまつきすずなだとしても、凛莉にだけは本当の雪月真白わたしを知って欲しい。


 そうして初めて、わたしと凛莉は対等に名前を呼び合える関係になれると思うから。


 

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