97 偽りの存在


「……どう?」


 凛莉りりちゃんがわたしの胸に顔を埋めている。


 まあ、胸と言っても凛莉ちゃんほど大きいわけでもないし“埋めている”という表現は正しくないかもしれない。


 胸に当ててる、かな。


 とにかく凛莉ちゃんが普通の愛情表現をして欲しいとか言ってくるから、こんなことをした。


 何かしらのリアクションは欲しい。


「……すーはー」


 なんか息を吸っていた。


「なにしてんの」


「匂い嗅いでる」


「……」


「ああっ、ごめんごめん。離さないでっ」


 変なことを言っていたので引き剥がそうとしたら、しがみついてきた。


 凛莉ちゃんの方こそもっと普通にして欲しい。


「ねえ、涼奈」


 凛莉ちゃんはわたしの胸に向かって話している。


 ブラウスが音を吸って、聞き取りにくい。


「なに」


「今、二人きりだよ」


「……知ってるけど」


「あたしたち恋人だよね」


「そうだけど」


「こういう時って、するんじゃないの?」


「……」


 凛莉ちゃんが言いたい事は何となく分かっている。


 分かってはいるけど。


「勉強でしょ、今日の目的は」


「こんな誘っといて?」


 胸に凛莉ちゃんの吐息がかかる。


 それはしっとりとした熱を持っていて、凛莉ちゃんの感情が見え隠れしている気がする。


「そういうつもりじゃない」


「じゃあ、いつならそういうつもりになるの?」


 そういう気持ちがないわけじゃない。


 でも次する時があるのなら、それはわたしからだと決めている。


 凛莉ちゃんに身を任せると、流されるようにいつまでもその関係に甘えてしまう気がするから。


 だから勇気が出た時に、わたしからすると決めている。


「今日ではないと思う」


「……生殺し」


 凛莉ちゃんは、ぼやきながら顔を離す。


「涼奈は好きなように噛みつく癖に、あたしはお預けだもんなぁ」


 凛莉ちゃんが自分の太ももをさすっている。


 わたしがあげたネックレスと噛みつかれた跡のせいで不自由になる凛莉ちゃん。


 それでいい。


 凛莉ちゃんは自由に動くから、わたしが制限する必要がある。


 たとえ、わたしとの距離を縮めたのがその自由奔放さだとしても。


 もうわたしのモノなのだから、自由でいる必要はない。


「ごめんね」


「……あ、うん。冗談だって」


 わたしが素直に謝ったのが意外だったのか凛莉ちゃんは拍子抜けしたような顔をする。


 凛莉ちゃんの自由を奪うことは悪いと思わないけれど、したいと思ってくれる気持ちに蓋をするのは悪いと思っている。


 それはわたしを求めてくれる欲望だから。


 その思いは嬉しいものだから。





 わたしは凛莉ちゃんの隣から、正面になる定位置に戻って勉強を再開することにする。


「涼奈」


「……なに」


 と、思ったけど凛莉ちゃんがすぐに声を掛けてくる。


 まだ勉強をするつもりはないらしい。


「あたしの名前は?」


「……」


 どうやら、凛莉ちゃんは勉強のしすぎのせいで頭が壊れたみたいだ。


 心配だ。


「記憶喪失?」


「あたしは真面目に聞いてんの」


「真面目な質問じゃない」


「いいから答えなよ」


 ……意味が分からないが、答えろと言うのなら答えることにする。


「凛莉ちゃん」


「ブブーッ、不正解です」


 唇を尖らせて“ブ”を強調してくる。


「本当に頭が壊れたみたいだね、病院いく?」


「本当に違います、ちゃんとあたしの名前を言ってください」


 ずっと何言ってるんだろう、この人。


「凛莉ちゃんでしょ、ほかに何あんの?」


 ……まさか、凛莉ちゃんも転生者とか言い出す気か。


 ヒロインどちらも転生者とか、よくある展開で意外性はないけど。


 望んではいない。


「あたしの名前は“凛莉ちゃん”じゃ、ありません」


「……くだらないこと言おうとしてない?」


「涼奈の名前は“涼奈”でしょ。“涼奈ちゃん”じゃない」


 ……凛莉ちゃんが転生者でないことは安心したけど。


 そんなつまらないことを力説して、どうしたんだろう。


「それが何なの?どっちでも同じでしょ」


「同じじゃない。そろそろ“ちゃん”いらなくない?」


「……そうかな」


「いらないでしょ。恋人同士なんだから呼び捨てで良くない?」


「慣れたから、このままでいいでしょ」


「よくない、微妙に距離を感じる。あたしは呼び捨てなのに、涼奈はそうじゃないって変」


「なら“涼奈ちゃん”って呼びなよ」


 これなら対等で、凛莉ちゃんの言う違和感はないはずだ。


「ちっがう。そうじゃないこと分かってるでしょ」


 分かるような、分からないような……。


「でも、もう凛莉ちゃんに慣れたから。変えなくていい」


「呼び捨てもすぐに慣れるって」


「……いいよ、わたしは凛莉ちゃんで」


 最初の頃ならともかく、ある程度にまでお互いの距離感も落ち着いて来たのに。


 今更、違和感を生む必要はないと思う、


「涼奈はほんとにイジワルだなぁ……」


 凛莉ちゃんが机に突っ伏して腕を投げ出す。


「涼奈が照れ屋なのは分かってるけどさ」


「照れ屋じゃない」


「いつかは言って欲しいけどね」


「……いつかね」


 明言はしないけど、完全否定もしないでおく。


 気が変わったら、名前で呼ぶ日もくるかもしれない。


「そうだ、夏休みはあたしと一緒にいるでしょ?」


 パッと凛莉ちゃんの顔が綻ぶ。


 すぐに表情を変えて、感情の移り変わりが分かりやすい。


「……そう言う凛莉ちゃんの方が忙しいんじゃないの?」


 陽キャの凛莉ちゃんを、その友達たちが放っておくとは思えない。


 さそがし予定がぎっしり埋め尽くされているんだろう。


「安心して、全部キャンセルするから」


「……」


 デジャブだった。


 一緒にいるのは嬉しいけど、全部キャンセル必要はないと思う。


「ね。だから夏休みはあたしとずっと一緒ね」

 

 ……ずっと、か。


 気持ち的にはそれでいいんだけど、進藤くんとのこともある。


 夏休み明けには個別ルートが確定するから、その前に彼の動向を確認する必要があるかもしれない。


「うん、多分大丈夫」


「……多分?」


 やっぱり凛莉ちゃんはそこに引っかかる。


「もしかしたら、用事入るかもしれないでしょ」


「ああ、まあ……そうだよね。そういう時もあるか」


 それは仕方ないと頷いている。


 何だか、さっきから全部曖昧な答えで申し訳ないと思った。







 お互いに集中力は戻らないまま、ダラダラと時間が過ぎた。


『そろそろ帰るね』


 凛莉ちゃんの方から切り出して、玄関まで見送る。


 外はすっかり暗くて、気だるい暑さも少しだけマシになっている。


「……凛莉ちゃん、スカート」


 わたしが噛んだ跡の足を剥き出しにしたままだ。


「うん?ああ、これ……別にいいかなって」


「いいの?学校でもそうする気?」


「うん。“それどうしたの”って聞かれたら“涼奈に噛まれた”って答えるね」


「……それは」


 さすがに、そこまで吹っ切れるとは思ってなかった。


 そんな展開は想定していない。


「ふふっ、うっそー。夜だから見えないと思って出してるだけ、学校では隠すよ」


 わたしが慌てる姿を見たかっただけらしい。


 凛莉ちゃんはほくそ笑む。


「何さ、それ」


「色々仕返し」


 まあ、わたしもイジワルなことしてるから文句は言えない。


「ねえ、涼奈」


 夜の冷たい風が髪をさらう。


 凛莉ちゃんはそれを指で撫で付け、わたしを見やる。


「なに」


「あたしは涼奈のこと好きだよ」


「……」


 突然、何を言ってくるんだこの人。


「だからさ、あたしは涼奈の味方だから。何でも言ってね」


「うん」


「嘘、つかないでね」


「……うん」


 どれもわたしのことを好きでいてくれるからこそだと思うけど。


 凛莉ちゃんの雰囲気があまりに真剣で、わたしも頷いて返すしか出来なかった。


「よかった、じゃあね涼奈」


 バイバイと手を振って凛莉ちゃんと別れる。


 嘘、つかないでね。


 雨月涼奈でありながら雪月真白でもあるわたしは、嘘をついていることになるだろうか?


 釈然としない感情を残したまま、彼女の背中を見送った。

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