68 傷と跡 side:日奈星凛莉


 朝、寝間着から制服に着替えていると姿見の自分がふと気になった。


 下着姿の胸元に目が行く。


 肌はいつも通りで、特別変わったことは何もない。


 そう、何もない。


「治っちゃったなー」


 胸元に手を這わせ、綺麗に戻っている自分の肌を確かめる。


 少し前まで、そこには痛々しい赤い跡が残っていた。


 涼奈すずなに思い切り噛まれた跡だ。


 遠慮なしに噛んでくる涼奈の力加減は、本当に千切れるんじゃないかと思うくらいに痛い。


 それだけ噛まれれば跡が残るのは当然で、その跡を残しては涼奈は満足そうにしていた。


「まったく、どういう精神状態なんだろうねアレ」


 でも思い出すと、つい笑ってしまう。


 噛んでくる時の涼奈はすごく必死だ。


 涼奈は口下手であまり自分のことを話したがらないから、ああいう時に感情が溢れるんだろう。


 何かを一生懸命あたしに訴えかけてくる姿は、かわいいなと思っていた。


「……ま、本当に痛いからもうちょっと加減して欲しいんだけどね」


 ブラウスを羽織り、元通りになった胸を隠す。


 音楽室で噛かまれたのもだいぶ前の話。


 時間が経てば傷は治る。


 それは当たり前のことで、治ってくれなきゃ困る。


 左右に噛まれたことがあるんだから、その両方に跡が残っていたんじゃ友達に見られた時にどう説明したらいいのか分かったもんじゃない。


 ベストを被り、服の中に納まってしまった髪を掻き出す。


 ……でも。


 ちょっとだけ、ほんの少しだけ名残惜しいとも思っている。


 それは、涼奈が残したものを失うことになるから。







 リビングに向かう。


 エプロンを羽織り、台所に立って朝食とお弁当の用意をする。


「……あ、そう言えば、涼奈お弁当いらないって言ってたな」


 スマホにメッセージが届いていた。


 涼奈から送ってきてくれたのはこれが初めてで嬉しかった。


『ごめん。体育祭の準備があるので朝一緒に行けない、あとお昼も忙しいからお弁当もいらない』


 でも内容があまり嬉しくない。


 涼奈は体育委員らしく、その事実に本人も最近気づいたようだった。


『……げっ。わたし体育委員なの?ウソでしょ、ふざけんなよ雨月涼奈……。いや、ルート管理のためにはもしかして好都合……?』


 とかよく分からないことを口走っていたこともあった気がする。


 そして急にこのメッセージだ。


 内容は何をするか書かれているようで、その詳細は一切触れられていない。


 普段は大人しくしているのに、突然何かに駆り立てられたように動き出すのが涼奈の特徴だ。


 また一人で何をしているんだろうかと、気になってしまう。


「はあ……」


 そして、思わずため息が漏れる。


 いつの間にか、自分だけのためにお弁当を用意するのが億劫になっている事に気付いた。


 何か買ってしまおうかと悩んだけど涼奈には食生活に対して気にするよう注意しているのに、あたしが疎かになっては示しがつかない。


 ちゃんとお弁当を作ることにする。


「いたっ……」


 すると、包丁で少しだけ指先を切ってしまった。


 集中力が足りていないと、こういうミスをする。


 涼奈に食べさせるお弁当じゃないと、こんなにも気乗りしないものなのかと自分でも驚いた。


 傷は薄皮程度で、水で流すと血もすぐに止まった。


 赤い傷が一筋入っているが目立つようなものでもない。


 大事には至らず良かったと安堵して、あたしは料理を続けた。



        ◇◇◇



 昼休み。


 あたしは隣のクラスの男子に呼び出されて、校舎裏に向かう。


日奈星ひなせ一人で来てくれ』


 と言われて言う通りに来たけど、正直嫌な予感しかしていない。


 待ち合わせ場所に着くと、その男子はどこか落ち着きのない態度であたしに感謝を述べると他愛のない日常会話を始めた。


 関りがある人でもなかったし、様子が明らかにおかしいので会話は弾まない。


 あたしはこの空気を何度か経験しているので、そろそろ本題に入ることを予想していた。


「――日奈星、ずっとお前のこと好きだったんだ。俺と付き合ってくれ」


 案の定というか、悪い予感というものは当たる。


 その男子は真剣な表情で頭を下げた。


 本気なのは何となく伝わる。


 でも答えは決まっている。


「ごめん、付き合うとかは考えられないかな」


「……」


 何度か同じようなやり取りを繰り返したことがある


 断られる方が傷つくことは百も承知だけど、断る方だってツラい。


 少なからず好意を持ってくれている相手なのだから、出来るなら傷付けるようなことはしたくない。


 だからと言ってウソもつけない。


 恋愛感情とは繊細で、脆いものだと思う。


 この何とも言えない空気が嫌で、あたしはなるべく男子には積極的に関わらないようにしている。


「……それじゃ、あたし行くから」


 学校で話しづらくなる人がまた増えたな、と思いながらあたしは踵を返した。


「待ってくれ」


 男の子に呼び止められて、あたしは足を止める。


「なに?」


「理由は、何かあるのか?」


「理由……?」


「好きな人、いたりとか」


 ……それを言えば、この人も納得してくれるだろうか。


 それが少しでも救いになるのなら。


 勇気を出して告白してくれたのだから、あたしもそれに応えてあげるべきだと思った。


「いるよ」


「……そうか」


 男子は言葉と重い空気を一緒に吐き出した。


「悪かったな、時間とらせて」


「いいよ、気にしないで」


「そいつとは上手く行ってるのか?」


 ……涼奈と上手くいっているのか。


 どうだろう、仲良くはなっていると思うけど。


 そういう仲になれているのかと聞かれれば、微妙かもしれない。


 普通のカップルは胸を噛んだりしない気もするし。


 そもそも周りに女子同士のカップルもいないから、普通の基準もよく分からないけど。


「どうだろ、まだよく分かんないかも」


 答えは曖昧になった。


「そっか……日奈星も頑張れよ」


「うん、ありがと」


 あたしはひらひらと手を振って、その場から去る。


 指先の傷はまだ赤い。







「それで凛莉りり、どうだったのよ?」


 教室に戻ると、興味津々といった様子でかえでが聞いてきた。


 どうせすぐに広まるであろう噂だから、あたしはさっさと白状する。


「断ったよ」


「あははっ、相変わらずだね」


 話を聞きつけた女友達も集まってくる。


「これで何人目?」


「その人、上級生からも告白されるくらいモテてるのに。断るとかレベルたかー」


 友達は、あたしの恋愛話で盛り上がる。


 凛莉は理想が高いだの、もっといい人がいるだの、その人の過去の恋愛話だの、部活では全国レベルで結果を出してるだの、とにかく色々言われた。


 あたしのことを思ってくれているのか、ただ話のきっかけに過ぎないのか。


 よく分からないけど、昼休みはそれで潰れた。


 それだけ話題があたし中心であっても、指先の傷には誰も触れない。







 放課後。


 涼奈の体育委員の仕事はすぐ終わると聞いていたので、待つことにした。


 思えば今日一日、涼奈とは会話をしていない。


 涼奈は体育委員で忙しくて、接するタイミングがなかった。


 帰りくらいは一緒にいよう。


 そう決めて教室で一人、涼奈の席に座って窓から夕焼け空を眺める。


 いつだったか、こんな茜色に染まる教室で涼奈が落ち込んでいた事があった。


 その時、あたしは涼奈の頭を撫でた。


 サラサラと流れる黒髪と、涼奈の体温があたたさは今でも覚えている。


 あの時の涼奈はもっと内向的で、あたしとの距離も遠かった。


「……でも、近づいてるって言えるのかな」


 そうしようと努力したつもりだけど、涼奈との距離はどこまで近づいたのだろう。


 友達だとしても楓と同じくらい?


 遠いのか、近いのか?


 基準はないから、判断しようがない。


 ――ガラッ


 教室のドアが開いた。


「ごめん凛莉ちゃん。思ったより長引いちゃった」


 涼奈だった。


 急いできてくれたのか、息が少し上がっている。


 それだけでも嬉しかったりする。


「ううん大丈夫だよ。涼奈もおつかれ」


「ねー。どーでもいいこと決めるのにダラダラダラダラ……って、凛莉ちゃん何でわたしの席に座ってんの?」


「あー、うん、ヒマつぶし。外の景色見るのにはここのがいいじゃん?」


 あたしは窓の外を指差す。


「へえ……」


 待っている間少しでも涼奈を感じていたかったから、なんて言ったらどんな反応するだろ。


 聞く勇気はないけど。


「って、凛莉ちゃん。その指どうしたの?」


「指……?」


 涼奈はあたしが外を差していた指を凝視している。


「傷、あるじゃん」


「あ、ああ……朝、お弁当作ってる時に、ちょっとね」


「うわっ、大変じゃん」


 全然浅い傷だし、血もすぐ止まったし、何でもないんだけど……。


 それでも涼奈はわたしの手を持って、その指先を見つめる。


「絆創膏なんて持ってないしなぁ……。痛くないの?」


 自然に塞がるような傷だし、痛みもないから、何でもない。


「ちょっと痛い」


 でも、あたしの口はそれとは真逆のことを言っていた。


「うーん。保健室?これって保健室案件?」


「いや、朝の傷だからそこまでしなくても……」


「そっか、じゃあ」


 涼奈は傷口に触れないようにしながら指先全体を撫でる。


「痛いの痛いの、とんでけー……」


 なんて、かなり久しぶりに聞くおまじないを唱えていた。


「ふふっ……」


「え、何で笑ってるの?」


 そうか。


 涼奈は気付いてくれるんだね。


 あたしのことを好きだと言ってきた男の子より、心配してくれる女友達より。


 こんな小さな傷を、涼奈は心配してくれるんだ。


「ううん。涼奈は優しいなって」


「いや、これくらい当たり前でしょ」


 そんなことないのに。


 そんな優しさを当たり前だと言ってくれる涼奈が、今は嬉しい。

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