ダメ人間

 数ヶ月もの家賃滞納の挙句、夜逃げしてからは行く当ても無くホームレスになっていた、という当の鶴巻にとってはトップシークレット、世間にとっては蝿が一匹叩き潰されて死ぬくらいにどうでも良い事実は営業担当の井ノ瀬によって白日の元に晒された。


 正直に話せ、と詰め寄る広瀬とは目を合わさぬまま、鶴巻はぽつぽつと語り始める。


「正直言うと……俺も随分と悩んだんだ。世話になってた年寄の大家を警察に突き出すのも悪い気がしたしさ、耄碌しているうちの母親と大家が同じくらいだと思うと、申し訳なくて行動に出れなかったんだ。悪いことを悪だと指摘できない、俺の心の弱さがこうなった原因なんだ……」


 井ノ瀬は話の筋が飲み込めずに鶴巻と広瀬へ交互に目を向けると、先日の嘘をすっかり信じ切っている広瀬が怒りを滲ませながら、神妙な面持ちで説明を始める。


「鶴ちゃんはな、アパートのみんなの為に共用部分を掃除するのが日課だったんだ。それを大家の野郎が「管理会社に頼んでいるのだから余計な真似をしてくれるな」と言い始めてな、それからもみんなの為に掃除を続けた鶴ちゃんに嫌がらせを始めやがったんだ。ポストにゴミを突っ込んだり、家賃の滞納もないのに督促状を送りつけたり……まったく、とんだ鬼畜野郎だよ!」

「鶴巻さん、そうなんですか?」


 ここからどうやって心に届く演技をしようか、どんな話の展開に持って行こうかと心の中では腐り切って粘り気のある舌をベーッと出しながら、目には涙さえ浮かべて鶴巻は語りを続ける。


「実際、そうなんだ。あのままあのアパートにいたら警察に通報しなきゃならんかったし、俺はそっと出て行くしかなかった。周りの住人からはさ、出て行かないで一緒に闘いましょうなんて言われたよ、はは。でもなぁ、もうすぐあの世に逝こうとしている大家の爺さんにせめて意地くらい張らせてやらないとさ、俺も気分悪いじゃない? だから、当面悪役を買っていた訳だよ、俺は……。いや、真っ当にやり合ったって大家は頭がボケてるから、まともに出てったらあの爺さん、俺を追い続けて来てたと思うんだ。まぁ、目をつけられた俺が悪いんだな。うん、そういうことだよ」


 まんまと信じ切っている広瀬は案の定と言うべきか、目頭を押さえながら握り拳に力を込め、己の膝に一発食らわせている。

 その横で立ち上がった鶴巻は何やら晴れ晴れとした表情で薄ら涙なぞ浮かべながら腰に手を遣り、夜空を見上げて微笑んだ。


「さぁ……一人やもめの俺は、今夜も何処へ行こうかなぁ……」


 映画の主人公さながら、鶴巻は格好つけてそんなことを言いながらもチラチラと広瀬に目を遣るのであった。しかし、広瀬は無反応のままで、井ノ瀬が眉を八の字にしながら首を傾げる。


「でも……うちの事務所に家賃保証会社からガンガン電話が掛かって来てるのは何でですか? 流石に入金確認はしてるんじゃないですか?」


 せっかく良い所だったのに、ガキが頭回して余計なことを聞くんじゃねぇ! ヒロちゃんなんて呼ばれて喜んでる東北ヤクザゴキブリが俺の根城を用意する気が削がれたらどうしてくれるつもりなんだ、この奴隷商売の派遣会社の駒使いめ。

 心でそう罵りながら、鶴巻は力強く頷いてみせる。


「それはな、大家の勘違いだ。次、電話が来たら「死んだ」って言っといてくれ」

「え……あの、じゃあ辞めたって言っときますよ。死んだ、はやっぱり不味いでしょ」

「そうか。なら、それで頼んだ」

「あのう、そしたら住所はどうしましょうか? 無いってなると流石にうちとしても困っちゃいますから」

「うん、実は数軒アタリをつけていてな、不動産屋と交渉しているんだけど、中々決まらなくてさ」

「そうですか……困ったなぁ。空いてる寮はあるけど、群馬の安中だしなぁ……」


 鶴巻はこの苦境を察した広瀬が快く「うちに来いよ!」と鶴の一声を上げるのをチラチラと横目を遣りながら待っていたものの、広瀬は腕組みしたまま神妙な顔で何やら考え込んでいる様子。東北ヤクザのクソ馬鹿野郎め、もったいぶってねぇで例えインスタントでもいいからさっさと「任侠」を見せて俺に根城を与えねぇか、と鶴巻が心内で毒づいた途端、広瀬は「そうだ!」と大声を出して立ち上がる。


「鶴ちゃん、原発で働くなんてのはどうだい? 家もあるし、三食メシ付きだぞ!」


 何言ってやがるんだこのスカポンタンの脳タリンめが! 原発なんか行ったって、パチンコもなけりゃあ競艇場も何もない、あんなむさ苦しそうな低能の吹き溜まりにこの元・エリートの俺様が行く訳ねぇだろう! と鶴巻はやはり毒づいた。 


 およそ鶴巻ほどの劣悪な社会的ステータスの持ち主ともなれば、最早使ってもらえるだけ御の字というものではあるが、当の本人はそんな意識の欠片すら持ち合わせてはいないのである。


「俺はヒロちゃんみたいに原発でバリバリっていうのは、ちょっと無理かもしれないなぁ」

「無理な事ねぇって。何なら紹介してやっからさ、な?」


 その話に井ノ瀬が割って入って来る。


「ちょっと待って下さいよ。営業担当の僕の前でそれはNGっすよ。あくまでも広瀬さんも鶴巻さんも、今はうちのスタッフなんですから」

「だったらどうすんべなぁ? 鶴ちゃん見殺しにしろってか?」

「……あの、住宅手当出しますから広瀬さんの家に鶴巻さんをしばらく居候させてもらえないですか?」

「うちに? そりゃあ、俺は構わないけど……。職場の大先輩に狭苦しい思いさせるのが、とてもじゃないが申し訳なくてなぁ」


 申し訳ないなら最初っからそう言えよこのタコスケ野郎が! 鶴巻はその思いつつも、揉み手を作ってヘラヘラニヤニヤと広瀬に擦り寄った。


「そしたらヒロちゃん、世話になっていいかな? 一ヵ月……いや、頑張って二週間くらいで出て行くからさ」

「俺は構わないよ。協力出来る部分は、俺も協力すっからさ」

「ありがとう! いやぁ、ヒロちゃんは命の恩人だ! この恩は必ずお返しします、必ず」


 その言葉の通り、鶴巻は後日その恩を広瀬に返すことになる。ただし恩ではなく、仇として。

 こうして、五十五歳ふたりの珍妙な同居生活が始まったのである。


 出社の際は揃って倉庫へやって来るのだが、鶴巻は門の手前になるとわざわざ歩を遅め、振り返る広瀬に実に偉そうにこう指図するのである。


「先、行けよ。毎朝揃って出勤するなんて、ふたりは一緒に住んでるんじゃないか? なんて変な噂立てられたら困るからよ」

「なんだべなぁ、鶴ちゃん。本当のことだっぺよぉ? そんな、いちいち気にするかい?」

「俺が気になるんだよ! いいから先入れよ、ほら!」

「まぁ、いいけどよぉ」


 ほんの些細なことであろうとも、鶴巻は社内で広瀬にマウントを取られそうになることを恐れた。現場経験が豊富な為か、自称元・エリートを自ら吹聴する鶴巻よりも、元・ヤクザの広瀬の方がよほど従業員達のウケが良く、なおかつ作業の覚えも早かった。鶴巻でさえ現場の社員に頼まれない作業を頼まれる機会も増え、鶴巻が社員に声を掛けられる頻度は少なくなっていた。


 現場社員の野田が庫内レイアウト変更の相談を広瀬に持ち掛けると、作業場で野田と広瀬、ふたりの会議が始まった。


「来月頭にさ、赤の四が大量に入って来るんだよね。でも出るのは再来月らしいんだよ」

「そしたらサステナーに大量に入ってる青の五と六をブチ抜いて、外パレ保管にしたらどうっすか? あんまり動かないでしょ、あれ。ピックする機会少ないし、時間もロスにならないと思うんすよ。空いた所に赤の四ブチ込んだら、イケないっすかね?」

「おー、そうだね。大量に入って来るってことは大量に出るんだろうし、パレごと出し入れしちゃえばいいもんな。広瀬さん、流石だねぇ」

「いえ、俺なんか何も考えてねぇっすよ」


 ふたりの会話に割って入って行く理由がない鶴巻であったが、庫内清掃用のモップを手にしたまま会話を盗み聞いていた。


 畜生、なぁにが何も考えてないだ。こんな底辺倉庫仕事など、頭なんか使わないのは当たり前なんだ。それを一端に今まで頭を使ったことがありますよー、なんて澄ましたツラでベラベラと喋り腐りやがって。テメェは頭が使えねぇからヤクザなんかになったんだろうし、考えナシだから喧嘩して前職をクビになったんだろうが。いかにも更生して真面目になりました、なんてフリをしていてもどうせ火種があれば我を忘れて人に暴力を振るうに違いないんだ。クソ馬鹿田舎野郎め、俺を住まわせてやってるからって常に上にいる気でいやがる。あんな小さな八畳一間で住まわせてる、とでも思ってやがんのか、わざわざ偉そうにしやがって。クソバカタレにはどちらが実力者なのか、現実を分からせてやる。


 鶴巻は脂曇りした眼鏡をギラつかせながら、そっとふたりの側を離れて行く。やがて製品の積まれたパレットが並ぶ薄暗い通路へ出ると、「検品者 広瀬」とサインのあるパレットの前で立ち止まり、マスクを下ろすと左手人差し指を鼻の奥に突っ込み、グリグリと回転させ始めた。思い切り引き抜いた指先に毛のついた緑色の塊がついているのを確認すると、それを検品者が広瀬であるはずのペライチの隅にベタリと擦りつけ、何事もなかったようにその場を離れる。


 そして、後は日が暮れるまで延々黙々とモップを掛け続けていたのであった。

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