化けの皮
いつもと変わらず真っ赤なバンダナを頭に巻いた広瀬と、プライドの高さ故にタイミングをずらした鶴巻が出勤すると、彼らの派遣先であるハート物流の庫内には社員の姿が何処にも見当たらなかった。
社員が出力する指示書がなければ何もすることがない鶴巻と広瀬はモップを手に庫内をうろうろして過ごしていると、現場社員の野田が鬼の形相を浮かべながら現れ、広瀬を呼びつけるとまるで連行するように事務所へと連れて行った。
事務所内では腕組をしながら待ち受けていた社員達と社長が、やって来た広瀬に怪訝な目を向ける。小さく頭を下げた広瀬は状況が芳しくなさそうな事は察したが、事情が分からず困惑していた。
「あのう、俺ぇ何かやりましたかね?」
「広瀬さんね、ちょっとこれ見てもらっていいかい? これ」
そう言って社長が差し出したA4サイズの資料に目を落とすと、先日庫内を掻き集めて出荷したパンフレットの写真が映し出されていて、その中に赤い枠が、さらにその中に緑色の粒が付着しているのが見えた。
「このパレットを作ったのは広瀬さんだいね? 出荷表にサインもあるし、間違いないよね?」
「はい。覚えありますよ、俺ですね」
「その赤い枠ん中! これは何? なんのつもりなの、あんた!」
「いや、待って下さいよ。状況は分からんねぇすけど、いきなり怒鳴ることないじゃないっすか」
「怒鳴るなって言ったってねぇ、ハナクソがついてたんだよ! ハナクソが! それがお客さんの所に納品されちゃったの! どうしてくれんの、これ!」
「いや……俺はそんなことしねぇっすよ。ガキじゃあるまいし」
「だったらなんでハナクソがついてる? え? ハナクソが鼻から飛び出て空飛んで、ピッて勝手にくっついたのか?」
「いやぁ、だって事前検品だって何度もしてるじゃないっすか。出荷前にわざわざつけなきゃ、こんな事にならんでしょう?」
「だからこっちは聞いているんだよ!」
その途端、良くない事だとは分かりながらも頭に一気に血が昇って行くのを広瀬は感じてしまった。
行けねえ、抑えろ。頼むから、抑えろ。そう思う速度の何倍も速く血流は逆流し、頭上目指して昇って行く。そして、呆気なく抑止の感情を追い越してしまうのであった。
「おい! さっきから大人しく聞いてりゃあ随分と勝手抜かしやがって! ある事ねぇ事吹いてると身包み剥がしてボテくり回すぞこの野郎!」
事務机に大きな拳を叩きつけ、ドスの効いた本粋の叫びを突然食らわせたものだから、広瀬を責め立てて追求しようと勇み足でいた社員達、そして社長は余りの迫力の前に借りて来た猫のようにスンと黙り込んでしまった。
社長は咳をひとつして、声を震わせながら呟いた。
「いや、あのお、一応ね、パレットの担当がほら、広瀬さんだったからね、その、報告をしたんだけどね」
「ハナクソつけたのが俺だって証拠あるから呼んだ訳ですよね? じゃあ見せて下さいよ、証拠」
「いや、いやいや。そうは言ってないんだ、うん」
「俺のこと疑ってたじゃないっすか」
「違うんだ、うん。違うの」
「だったら誰がやったか追えば良いじゃないですか。何でやらないんすか? それで勝手に犯人だって決めつけられたらね、誰だって気分良くないっすよ。俺が派遣だからマトにしてるんすか?」
「違うよぉ、そんなこと言ってないじゃない? ね? 気分良くね、みんなで仕事しよう。よし、解散解散!」
「社長さん、寝言はやめて下さいよ。そうはいかないっすよ」
ヤクザに必要なものはイモを引かない粘り強さだと教わり、それが血肉に染み込んでいる広瀬は一歩も引かなかった。状況としても何事もなければそれでヨシ、ともいかず、一同は広瀬の提案によって出荷当日の庫内に設置されている監視カメラの映像を辿ることとなった。
ピッキングしたパンフレットがパレットに載せられ、別棟へ運ばれて行くと他の部材とのセットを終えたパレットが再び庫内に戻って来る。続々と通路に並べられて行くと、問題のパレットがフォークリフトに載って運ばれて来るのが確認出来た。
早送りで見続けていると時折作業をする鶴巻と広瀬が横切るが、その様子には何ら問題がない。
仕事がひとしきり落ち着く頃になると誰の姿も映らなくなり、庫内の照明も落ちた場所にパレットも置かれている為に映像が不鮮明になって行く。
映像を観ながら、社長は禿頭をボリボリと音を立てながら掻いた。
「ありゃあ、もしかしたらハナクソじゃなくて、向こうで何かついたのかもしれないなぁ」
「特に問題はねぇっすね。やっぱ、うちじゃないんじゃないっすか?」
「うん? あれ? ちょっと、一時停止して」
映像の中でモップを持った人影が動いているのが見えると、その人影はカメラを背にして問題のパレットの前で立ち止まる。
何やら動いている様子ではあるが、いかんせん映りが暗い為に何をしているかまでは確認が出来なかったが、その人物のシルエットは誰の目で見ても明らかに鶴巻なのであった。
「これは……鶴ちゃん何してんだ?」
「何ですかね……」
計一時間越えという長過ぎる朝礼終了後に、今度は広瀬と入れ替わりで鶴巻が事務所に呼び出された。
例の資料と映像を社長からセットで見せられたハナクソの付け主である鶴巻は、悪びれる様子を見せないどころか実にわざとらしく大きな声を上げて驚き、見てくれと言わんばかりに社長の前で憤りを爆発させた。
「ハート物流の仕事はいつだって完璧ですよ! こんなね、製品にハナクソが付くなんて、絶対に、ゼッタイに! ありえませんから! 僕はねぇ、悔しいっすよ!」
「いやね、うちもそう思ってるよ? でもね、現についてた訳だよ」
「アレじゃないですか? 向こうさんも単価下げたいからゴネてるんじゃないですかぁ? こんなこと、あり得ないでしょう。つまり、自作自演です。社長、これは問題ですよ」
「いや、うちは単価交渉きちんとやってるよ。うちがギリギリでやってるの、向こうさんだって分かってくれてるから。派遣の鶴ちゃんにはうちと向こうさんの付き合いの長さとかさ、分からないでしょ?」
「社長、今時誰がどこで裏切るなんて分かったもんじゃないですよ。僕が勤め人してた頃はそんなの、しょっ中でしたから」
鶴巻はこの時、脳内からパレットに積まれたパンフレットに自らのハナクソを擦り付けた記憶を完全に消去していたのである。寧ろ、私はハート物流での勤務歴こそ浅いが、今まで培ったエリート街道での経験を活かし、このエリートのエの字も知らないド底辺の無脳猿の集まりである弱小会社を派遣という立場の元、極悪劣少な賃金で外側からコンサルティングしてやっている、くらいの気持ちでいたのである。
広瀬と言い、鶴巻と言い、あーいえばこう言う連中に社長もいよいよ疲弊して来てしまい、頭に来る物を抑えながら次は監視カメラの映像を指差した。
「これは鶴ちゃんだいね? 間違いないやいね?」
「はい、間違いなく僕ですよ」
「この時って何してた?」
「パレットに積まれてたパンフレットが片寄ってたんでね、次にフォークで上げると危ないと思って直してました」
「ええ? それ、片手で出来るもんかなぁ?」
「いや、真っ直ぐじゃないと言う意味ですよ」
「はい?」
「ですから、センスの問題ですよ。受け手側が「片寄ってないなぁ」って思うのは、それまで片寄った物を見た経験があるからなんです! 最初から片寄りがない物が納品としてずっと続けば、片寄ってないなぁ、なんて思わないんですよ」
「鶴ちゃん、悪いけど……何の話をしてるの?」
「これは僕の仕事の流儀ですけどね、良いですか? 何をしていたのかと聞かれたから、今お応えしているんです。つまり、アクシデントは振り返りのないインシデントの結果ですよ。そのインシデントの前には」
「待って待って、インシ、デントって言うのは、ヒヤリハットのこと?」
「昔の癖が抜けないもんで、難しい言葉を使ってしまってすいません。厳密には違いますが、もっとカンタンに言うと事故の前には必ずそれに繋がる問題があるって事なんです。それを潰すのが、僕の仕事の流儀ですから」
「じゃあヒヤリハットって言ってよ。そんなのこっちゃあんたがここに来る何十年も前から積み重ねてやってるんだから」
「いやぁー、違うんだなぁ。企業規模の問題ですかねぇ……じゃあ、論点を下げて、そちらに合わせてお話ししてあげましょう」
「あー、いい。もういいよ、分かった。今日は午後から二便あるから、ピッキング急ぎでお願いね」
「はい! 失礼します!」
散々言い訳めいたことを聞かされた社長は事務員の女を呼びつけると、労苦を乗せた大きな溜息をぶふーっと吐いた。
「聞いてた?」
「はい、何だか大変そうでしたね」
「あいつ、本当面倒くせぇんな。次の更新いつだったっけね?」
「えっと……来月末ですね」
「ナシだな、ナシ。井ノ瀬君に電話してさ、新しい人を探してもらってよ。この際、手足と頭ついてりゃ誰でも良いからってさ」
「はい、分かりました」
「ダメだ、あんな素直さのない五十五歳は」
社長がそう独りごちている頃、倉庫に戻る鶴巻は心の中で罵詈雑言を吐き続けていた。
テメェがわざわざ見せつけてくれたのは正真正銘俺のハナクソだ馬鹿野郎! 向こうも向こうで、どうせ客なんかロクに読みやしねぇクソパンフレットにハナクソがついてたくらいでイチイチガタガタ抜かしやがって。紙の広告なんて今時分流行らねぇからさっさと無くせっていう俺からのアンチテーゼだって事にいち早く気付けクソめらが。どうせこの倉庫の中でしか生きて行けない脳ナシ底辺ゴキブリ共が寄ってたかって、一丁前に犯人探しなんかしやがって! 万が一にでもバレてたまるかってんだ、この薄ら馬鹿共め。痴呆老人みてぇに同じ事しか繰り返してないクソな毎日にスパイシーな刺激を与えてやっただけありがたいと思え! この倉庫で俺様が一番偉いのは、間違いない!
そうやって意気揚々と現場へ戻ると、広瀬は「面倒なことになったいねぇ」と声を掛けて来たが、社員の野田に関しては一瞥さえくれなかった。
その事に小さな怒りを覚えた鶴巻は、野田がその日フォークリフトの仕事を終えると無人の座席にそっと近付き、中年のベタ臭い唾を吐き捨てたのであった。
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