大人の子供
夜逃げをきっかけに新人ホームレスになった鶴巻であったが、後輩として派遣先に配属された広瀬と出会ったことで、画策通りその夜は彼の家へ転がり込むことに成功した。
だが、その晩を明かしてしまえば次の寄辺を持たない鶴巻は何としてもその晩から、広瀬の暮らす八畳一間のワンルームを根城・願わくば占拠する必要に迫られていた。
昼休みの間に派遣先の近隣でアパートを即日契約しようと携帯電話から申し込んでいたものの、過去五回もの夜逃げを繰り返している為に保証会社による与信審査に落ちてしまっていたのであった。
「いやぁ、同じ年の鶴ちゃんと出会えて俺はツイているよ」
東北出身の広瀬は毎晩欠かさぬ晩酌の焼酎で顔を真っ赤に染めながら、何度も猫背で焼酎を啜るようにして飲み飲みする鶴巻の背中を叩いていた。
背中に衝撃が加わる度、鶴巻は心の中で「汚いヤクザ野郎め、俺の背中に気やすく触るんじゃねぇ」と思ったものの、顔には出さずにヘラヘラと薄笑いを浮かべるだけなのであった。
ここを根城にする為にはまず、広瀬の情に訴えてみるしかない。その上で必要な情報を集めようと、鶴巻は酔いに任せて躍起になり始める。
「ヒロちゃん、子供はいないの?」
「俺かい? いやぁー、そんなこと聞いても酒のツマミにもならねぇし、つまんねぇっぺよ」」
「聞きたいんだよぉ。俺はね、別れたとはいえね、息子を大学に入れてやったんだよ?」
「へぇ。そりゃあ、鶴ちゃんは満点パパだいなぁ」
息子が高校二年の頃に離婚した後は養育費をただの一円も納めず、すべてギャンブルに溶かした挙句、奨学金を頼りに大学へ入った息子への失態を棚に上げ、鶴巻は広瀬をせっつき出す。
「なぁ、ヒロちゃんって奥さんはいたの?」
「いやぁ、いいべな。そんな話は」
「じゃあ最近はどうなのよ、コッチの方は?」
前のめりになった鶴巻は右手の小指を立て、下卑た忍び笑いを漏らす。広瀬は頭を振りながら、小指を立てた鶴巻の手を抑える。
「俺ぁ別に、女漁りしにこっちに来た訳じゃねぇから」
「溜まってんでしょー? 五十分一万円ポッキリの店知ってるからさぁ。今度連れてってやるよ、な? それでどうなの、ヤッテる?」
「いやいや、俺ぁそんなんいいよ」
「我慢しなさんなよー? ヒロちゃんだってよぉ、五十過ぎても男だろぉ? まだ勃つんだろ?」
「おい!」
広瀬は唐突に鶴巻を怒鳴りつけると、吞みかけていたコップを置いて鶴巻の胸倉を掴んで締め上げた。
「てめぇ、さっきから何のつもりだ? 黙って聞いてりゃ余計な詮索ばっかりしやがって。俺ぁな、昼間も言ったけど元々ヤクザもんだったんだ。こちとらあんたと違って真っ当な生き方なんてしてねぇんだ」
「と、友達になろうじゃないか。な?」
「だったら余計なこと聞ぐの、ヤメロ。ガキじゃねぇんだ、一度言えば分かっぺな」
「悪かったよ……ごめん」
「まぁ、呑みなおそうで。な?」
そう言って鶴巻を締め上げていた手を離すと、広瀬は実に人の良さそうに微笑んで見せた。
畜生、人を恫喝するしか能のないゴロツキの癖に、ノコノコと埼玉に出張って来やがって。大人しく東北で水呑百姓でもやってりゃ良いものを。せっかくこの俺がさして興味もないテメェの人生に対してあれこれ質問してやっているのに、格好つけてタブーにしやがって。一体何様のつもりなんだ、この野郎。
そう思いながらも何も抵抗が出来ない鶴巻は、四リッターペットボトルに入った薬臭い甲類焼酎をコップにドボドボ注ぎ、水さえも入れずグイっと煽るのであった。
その晩が過ぎて一週間が経っても、人に頭を下げることが出来ない鶴巻は結局はズルズルと広瀬宅を根城にする為の説得を引き伸ばしにしてしまい、行く当てもなく倉庫近くの公園で夜を明かすのであった。
毎日の勤務後、鶴巻は日当八千円の内の五千円を日払い分として前借りしていたのだが、勤務終わりに日払い分の五千円を手にすると、すぐにパチンコ屋へ足が向いてしまうのだ。
煙草と深夜のスーパーにて半額の焼きそば弁当と焼酎を買うわずかな金のみを残し、髭剃り一本買う余裕もなく日々を過ごしている為、日を追うごとに鶴巻の顔中に真っ青で不衛生な無精髭が覆う始末。おまけに、風呂に入らない為に据えた匂いまで辺りに撒き散らし始めていた。
昼休み、派遣先の社長直々に呼び出された鶴巻は欠けた前歯を見せながら愛想笑いを浮かべ、コソ泥のように腰を曲げて応接間へと入って行く。
目頭を抑えながら、社長が「まぁ座ってよ」と催促すると、テーブルの上にお茶の一つもないことに鶴巻は思わず舌打ちを漏らしそうになる。
「鶴ちゃんさぁ、あんたいくつだっけね?」
「ええ。今年で五十五になります」
「そっかぁ、鶴ちゃんは俺の三コも上だったんだなぁ」
三コ「も」だと、おまえも俺も同じオヤジに変わりはねぇじゃねぇか。この思わせぶりのすっとこどっこいの禿頭めが。一丁前に社長ヅラしやがって。そう鶴巻は思ったものの、話はこうであった。
昨今の小汚い鶴巻の風貌に他の棟で作業をしているパート連中から苦情が寄せられていたのである。
「怖いとか、汚いとかよぉ、顔合わせて一緒に働いてる訳じゃねぇんだから勘弁してやってくれって言ったんだけどよぉ……そのな、この前セットしてもらった銀行のペライチに脂がくっついてテカテカしてるって聞いたもんだからさ。それだとほら、検品で弾かれちゃう訳だよ」
「脂ですか? いやぁ……ちょっと、自分は。元々脂はあんまり出ないですしぃ、作業中は必ず軍手もしてますしぃ、脂の原因は広瀬さんかもしれないですねぇ。深刻ですね、これは」
勿論、知った上での嘘八百である。
連日パチンコで散財を繰り返していた鶴巻は日用品を買う金の余裕さえ無く、あっても明滅を繰り返す台の中へすべてを注ぎ込む悪癖の為、財布の中には常に数百円しか存在せず、新しい軍手ひとつ買うことさえ惜しみ、指先の破れた一組百円の軍手を使い続けていたのであった。その指先で額に浮かんだ汗を拭い、中年脂の浮かぶ顔中を触るものだから、指示書通りに倉庫内で掻き集めたパンフレット用のペライチには彼の脂が所々に染みついていたのだ。
社長は腕組みをしてからソファに深く座り直すと、贅肉のついた顎を引きながら、ジッと鶴巻を睨みつけて急に冷たい声になった。
「鶴ちゃん、たとえ同郷のよしみだとしても、出荷する製品のことを軽く考えているなら次の契約更新はないよ?」
「ですから、その……広瀬さんには良く言っておきますんで……監督はまぁ、私みたいなものですし」
「鶴ちゃんさぁ、軍手に穴空いてない? ちょっと見せてよ」
この野郎、知った上で呼びやがったのか。分かっている癖に正面切って物を言えない辺り、いかにも陰湿で根暗な越後の血を感じさせやがる。
鶴巻は咳払いを一つすると、聞こえていなかったフリをした。
「えっ、運転が何ですか? すいません、もう一度良いですか?」
「……いいや。まぁ、次から気を付けてよ。あと、おばはん連中が「鶴巻さんはホームレスなんじゃないか」って噂してっけど、流石にそりゃねぇだろってことで否定しておいたから、万が一変なこと言われても気にしないでな」
「ホームレスだなんて、そりゃ、ヒドイっすよー! そりゃ、いくら小汚く見えるオヤジだからって、いくら何でもそりゃヒドイっすよー!」
「ははは、んな訳ねぇよなぁ? おばはん達、暇だから。くだらない噂話くらいしか楽しみねぇんだわ」
「困っちゃいますねー、まったく。まいったなぁ」
「いくらうちだってよ、ホームレスなんか雇わねぇっつーの! ははは!」
「本当ですよねぇ? まいったなぁ!」
まいったなぁ、等といかにもマトモ人間を装って言いつつも、ズバリ当てられてしまった「ホームレス」の噂話に流石の鶴巻は肝を冷やしていた。噂などではなく、実際にホームレスの彼はこのまま正々堂々その事実を認めてしまおうか、それとも一発二発顔面に食らうのを覚悟で、何としてでも広瀬の家へ転がり込むか思案し始める。
転がり込むにしても鶴巻のビジョンの中には広瀬との「家賃の折半」という至極最低限で真っ当な条件等毛頭なく、ハナから酒を主にした食費と煙草銭以外のすべての生活費を広瀬の慈悲心に頼るつもりであった。
広瀬にとっては何のメリットもなさそうなこの悪条件であったが、鶴巻の中では任侠道に生きる者は自らの命よりも義理と人情を重んじるべきであり、それを成さないヤクザ者は例え引退後であろうともただのゴロツキ、社会に蔓延る反社ゴキブリ、つまり広瀬は自分を助けることが本来本望なのだと思い込むようにした挙げ句、一方的に決めつけたのである。
鶴巻はその日の勤務後も、日払い分の五千円を持って来る派遣会社の営業がやって来るのを倉庫外のベンチで煙草を燻らしながら待っていた。
すると、隣に腰を下ろした広瀬がわざとらしくクンクンと、鶴巻の臭いを嗅ぎ出した。
「うわぁ、やっぱ鶴ちゃん臭ぇなぁ!」
「臭いってなんだよ。ヒロちゃん、いきなり失礼だぞ!」
「じゃあ聞くけど。あんた、なんでいつもボストンバックで通勤してる?」
「これは、あれだよ、物がいっぱい入って便利だからだよ」
「毎日毎日、五千円の日払いもらって……情けなくならねぇかい?」
「今は何かと入用なんだよ、仕方ないだろ」
「もう正直に言えや、なぁ?」
「何がだよう、何もないよ! 別に何も! 勝手に変な想像するのやめてくれるか!?」
「じゃあ、この前は俺ん家泊めてやったんだ。今夜は鶴ちゃん家に俺を泊めてくれ。な?」
「ダメ。それはダメ、絶対に不可能。無理」
「なんでよぉ? 俺は快く受け入れてやったっぺなぁ。大家と話し合って、無事に戻れたんだっぺ?」
広瀬のアパートへ転がり込んだ翌日から、鶴巻は広瀬に「大家との話し合いがついて、実は解約は免れた」と見栄を切って嘘をついていた。
じりじりと「ホームレス」である実態に迫ろうとする広瀬の雰囲気に、心が堪らずに苛立つ。
畜生。一々訛り腐りやがって、この低脳ヤクザめ。妙に頭を回して下手な駆け引きなんぞして来やがって。にやにやダラダラと俺を貶めるのが楽しくて仕方ないと言ったツラをしてやがる。カタギのフリをしていても、これがヤクザの本性なんだ。本当に言いたいことはいつまでも言わず、ネチネチダラダラ責めて、俺にケツの穴をひん剥いて見せるような辱めを与えるつもりなんだ。だったら、撒いてやる。俺の生活の実態が、こんな東北ヤクザにバレてたまるもんか……。
脂で汚れた曇り眼鏡を掛け直し、次の一手をどう返そうか考えていた矢先、一台の車が駐車場に入って来た。しばらくすると革靴の音が闇の奥から響いて来て、派遣会社の若手社員、井ノ瀬が五千円入りの茶封筒を手にやって来るのが見えた。
井ノ瀬は茶封筒をひらひらさせながら、開口一番こう言った。
「鶴瀬さーん、家どうしちゃったの?」
「家? あの、俺の家がどうかしたの?」
「どうかじゃないよー! 保証会社からの電話、事務所にめっちゃ掛かって来ててさぁ」
よりによって、こんなタイミングでそんな話するんじゃねぇ! 鶴巻は咄嗟に怒りが込み上げたものの、まだ井ノ瀬の手中にある五千円入りの茶封筒に目を向け、グッと堪えてから息を吐くと同時に嘘を吐く。
「入金はしてるから、何かの間違いだろ」
「俺もそう思ってさぁ、一応鶴巻さんの家を見に行ったんだけどね」
「ふーん、そうなの? 別に異常なかっただろ?」
「これ、鶴巻さんの荷物なんじゃないの? そうでしょ?」
井ノ瀬のスマートフォンに映し出されたのはアパートの共用部に引っ張り出された数多くの鶴巻の私物であった。
煎餅布団、扇風機、冷蔵庫に中古のエロDVDまで、数多くの生活の爪痕が画面にはバッチリと映し出されていたのであった。積まれた書籍、その横に無造作に捨てられている書類の中からはハッキリと「鶴巻正利」の名前が確認出来る。
嘘があっさりとバレてしまったショックのあまり、鶴巻の額には次から次へと脂汗が滲み出す。
「おいおい、鶴ちゃん。こりゃどういうことだい?」
広瀬に怒鳴りつけられやしないか恐る恐るその顔を眺めた鶴巻であったが、予想外にも広瀬はいかにも不安げな顔色を浮かべて心配している様子を見せていた。
一方、まだ若年者の井ノ瀬は追い出しの荷物がよほど珍しかったようで、二人に向けて「ほら、ほら」等と言いながらスマートフォンで撮影した写真を実に楽し気に見せつけるのであった。
「鶴ちゃん、こうなったらもう全部洗いざらい正直に、話してくれるな?」
広瀬の言葉に唇を噛み締めながら、鶴巻は小さく頷いた。噛んだ唇からは、鉄の味がした。
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