夕刻に死す

大枝 岳志

クズ

 大きな博打で失敗したのはこれでもう何度目であろうか。鳴り響くモーター音を真横に、紙屑となった舟券を手に項垂れたまま、気が付けば次のレースが始まっていた。


 とぼとぼと背中を落としながら五時間を掛けて競艇場から埼玉中央部に在る自室へ歩いて辿り着いた五十五歳の鶴巻は、ポケットの中で鳴り続ける家賃督促の電話を無視しながら夜逃げの準備に勤しんだ。

 毎月嫌でも請求される家賃など督促を受けようが毛頭払うつもりはなかったが、派遣労働で稼いだ金は全て舟券に突っ込んでしまっていたのであった。


 百円ショップで買った小さな鏡に映る、中年脂で汚れた古臭い黒縁眼鏡を着用する無精髭まみれの痩せこけて顎の突き出た中年男こそ、れっきとした今の鶴巻自身の姿なのだが、彼の脳内では常に自身の姿は第一線でバリバリと仕事をこなしていた三十代のままなのである。

 故に、彼のプライドはバベルの塔のように高いのであった。


 夜逃げは彼此これでもう、五度目になる。一度目の時はまだ妻と子供がいたが、その前夜、当然のように離婚届を突き付けられた。その頃にはもう息子が高校二年に上がる歳だったので、鶴巻は大学入学を望む一人息子のことを「金がないならどうせ高卒で働くだろう」と一方的に思い込み、離婚後の養育費に関してはただのビタ一文も払うことはなかった。


 高校を出てから奨学金制度を使って晴れて大学生入学を果たした息子からは電話口でひとこと、「親父、死ね」と言われたきり、もう数年も交流が途絶えていた。


 皮が剥がれ落ちた焦茶色のボストンバッグに着替えを詰め、ドブネズミのようにこそこそと夜中にアパートを抜け出すと、いっそこのまま死んでしまおうかという気にもなった。

 しかし、負け込んでいたボートの金が頭にふと過ると、死んでいる場合ではない! とせっかく死に掛けた命も息を吹き返す。


 鶴巻は国立大学出で、かつては半ば公人として前線で働いていた過去がプライドとなり、やがては足枷となり、自身を縛りつける鎖と成り果て、己の生き方を存分に苦しめ続けていた。


 ギャンブル狂いは仕事のストレスから若い頃にパチンコにハマり出したのが発端で、ボート、競馬、競輪、オート、賭け麻雀、裏スロット、裏カジノへとあれよあれよという間にのめり込んでいった。

 あちこちでこさえた莫大な借金は会社の金を横領する事で賄っており、それがバレて刑事告訴はしない代わりに即刻懲戒免職処分となり、そして返済義務を課せられた。


 当時住んでいた自宅は抵当に入れられ、アパート暮らしを余儀なくされた。それでも妻子は鶴巻の更生を信じて苦楽を共にする覚悟であったが、鶴巻本人にその覚悟は微塵もなかったのである。

 会社を放り出された後は生活が立ち行かなくなり、アパートに移り住んだもののすぐに家賃が払えなくなった。夜逃げを決めた夜、不貞腐れていた鶴巻は妻にこんな言葉を掛けた。


「たまにはガツンと焼肉でも食いたいなぁ」

「なら、あなたがもっと稼げるように私達が応援しないとね」

「応援じゃ金にならないだろ? もう、そういう家族の上辺の言葉だの絆だの、いい加減吐きそうなんだ。大体にして、俺にばっかり稼がせる母さんにも問題があると思うんだ。なぁ、母さん。いっそ、熟女でも雇ってもらえる風俗に勤めてみてはどうかな? 俺は街に出て、母さんでも雇ってくれる風俗店を探して来るから」

「…………」

「そんなしなびた身体、俺ぁ抱くのはごめんだけど、しばらく働いてない母さんでもセックスくらいは出来るだろ? 風変わりな趣味の男達もわんさかいるっていうから、探して来てあげるよ。俺はね、本気で言っているんだよ?」

「あなた……」

「俺が今まで働いてたんだから、バトンタッチといこうじゃないか。夫婦なんだから、当然だろう?」


 そして、離婚となった。


 人生を見事に転げ落ち、もう元には戻れない場所にまで来てしまった。そうなると俄然「やり直そう」などと云う無茶な夢や妄想など抱かなくなり、日払い目当てで派遣で働きながら、食って寝てスッて糞小便と黄ばんだ精液を吐き出すだけを延々繰り返す、まるで人間ロボットのような生活を送るようになった。


 アパートを夜逃げした翌日、夜通し歩き続けて朝を迎えた鶴巻は焦茶のボストンバックを引っ提げ、ここしばらく派遣で入っている紙製品を扱う「ハート物流」という派遣先の倉庫現場へとやって来た。

 鼠の額ほどのロッカーにはボストンバックが入らず、事務所で預かってもらえないか頼み込むと、頭の禿げあがった小太りの社長はふたつ返事で鶴巻の申し出を引き受けた。


「ボストンなんか持っちゃって、鶴ちゃんどうしたの?」

「ええ、あの……明日から三日間休みなんで、帰省しようと思いまして」

「へぇ、鶴ちゃんの故郷(クニ)はどこだい?」

「新潟です」


 正面切ってそんな嘘を堂々と吐くが、鶴巻の良心は何も痛まず、何ら追及は受けないだろうと高を括っていた。しかし、新潟ですと答えた瞬間、社長の顔がパッと晴れ、満面の笑みで鶴巻を今にも抱き締めんばかりにこう言い放つ。


「ええっ! 俺もだよ! 新潟のどこ!?」


 しまった、と鶴巻は思った。彼の出身地は埼玉県北部で、新潟には縁もゆかりもなかったのだ。ただバタ臭い田舎なら帰省先の地名など何処でも良いと思い、適当に言ってみたのがかえって厄介なことになってしまった。鶴巻は社長が突然、心筋梗塞か脳梗塞でも起こして即刻倒れてくれないものかと心から願ったのである。

 目を床に伏せ、口を尖らせて鶴巻は答える。


「あのー……柏崎です」

「じゃあ近いじゃない! 俺、小千谷だもの!」

「あぁ、そうですね。小さい頃遊びに行きました」

「ええ? 柏崎なのに? 普通はさ、逆じゃないの?」

「意外と多いんですよ、小千谷まで自転車で遊び行ったり、ええ……」

「ふーん。まぁ、今度ゆっくりクニの話でもしようよ! ね!」

「ええ……はは、楽しみです」


 この、田舎者のクソバカ社長。俺はオジヤだの雑炊だのなんて場所、聞いたこともねぇんだ。テメェが埼玉なんぞに出て来ないでクソ田舎で雪下ろしでもしてやがれば俺が恥を掻きそうにならずに済んだのに、畜生。


 と、プライドばかりが無駄に高い鶴巻はそうやって自分の失策を社長に擦り付け、悪態をつきながら現場へ向かう。


 いつもは倉庫内でたった一人、指示書をもとに銀行や企業のパンフレット用のペライチを集めて回るのだが、この日は少しばかり様子が違った。 


 倉庫へ行くと、頭に真っ赤なバンダナを巻いた大男が庫内をフラフラと歩いていたのである。そのガタイの良さから彼をドライバーと思い込んだ鶴巻はすぐに声を掛けた。


「ドライバーさん、事務所なら右手奥ですよ」

「あー! どうもぉ、自分は今日からここに派遣されて来ました、広瀬ってもんです!」

「あぁ、派遣の……」


 この日、現場にやって来たのは偶然にも鶴巻と同じ五十五歳の広瀬という大男であった。以前は造園屋に勤めていたが喧嘩が原因でクビになり、その後は原発で作業員として働いていたものの、仕事が満期を迎えた為、こちらへ越して来て今は新しい就職先を探している最中なのだという。


 同じ派遣会社ということもあり、自分の方が上の立場だと踏んだ鶴巻は、この男に対し打算的な要素が働き出す。休憩時間になると、なけなしの金で缶コーヒーを買い与えてやり、「まぁ飲んでよ」などと、もっともらしく先輩風を吹かし出す。


「へぇー、原発仕事ねぇ。あれ、広瀬さんの出身はこの辺りなんですか?」

「いやぁ、俺ぁ元々福島県なんですよ。原発仕事は地元に貢献出来たっつーことが、何よりも一番嬉しかったっすね」

「そうですか。いやー、同じ歳なのにチャレンジングで若々しくて羨ましいですよ」

「んなことねぇっすよ、フラフラ生きてるだけで偉いことは何一つしてませんし、悪ぃことならいっぺーしてきましたけど」

「ははぁ……あれですか、昔は相当ヤンチャしてたんですか?」

「お恥ずかしいなぁ。いやぁ、ヤンチャが過ぎて昔はヤクザしてました」


 その瞬間、鶴巻は思わずコーヒーを噴き出しそうになったものの、グッと堪えた。この大男こそが、藁にも縋る時の藁なのだ。万が一でも機嫌を損ねてしまったら、今夜も夜通し歩き続ける羽目になる。


「ヤクザですかぁ、いやぁ、オトコの憧れだなぁ。広瀬さんは実に人生経験が豊富で、羨ましいですよ」


 そんなことをのうのうと抜かしながらも、無意識の内にマウントを取られたくないがばかりに、胸中では「このゴロツキ野郎めが。土人ばっかの畑田舎から埼玉に来たってな、テメェが辿り着いたのは工業団地以外なんら取り柄もクソもない、ただの片田舎だ。これだから首都圏に夢を見る田舎者は好きになれないんだ。俺なんかな、昔は国と組んでプロジェクトを指揮していたエリートだったんだぞ。テメェみてぇなゴロツキ底辺とは遺伝子が違うんだ。何が偉くないだ、当たり前だ馬鹿野郎。この反社ゴキブリめが」などと、悪態をつきまくっていた。


 そんな胸中を察するはずもなく、広瀬は年齢の割にやけに健康的で白い歯をカッと輝かせながら笑った。


「いやいや、ヤクザなんてね、あんなもんただの人生の汚点です。真っ当に生きている人が一番偉いんですから」


 だからそれは当たり前だクソ馬鹿野郎、という言葉を飲み込み、鶴巻はいかにも感心した演技をしてみせる。


「ほー、悟るほどの経験をなされているんですねぇ。そうですかぁ。あのぉ、やはり人を助けるっていうのは任侠の基本なんですかね? ほら、映画なんかでよく見るじゃないですか」

「任侠ですかぁ、うーん……憧れてましたけどねぇ。実際はあんなカッコイイもんじゃねぇっすよ。過ぎちゃあまた来る義理事の金を作る為に毎日必死でしたからねぇ、映画のヤクザみたいになりたかったですけどね」


 なんだ、このバンダナデクノボウ。結局は頭が悪く、ヤンチャしてただのチンピラをやっていただけで、人を助けるボランティア精神は持ち合わせていないのか。

 そう思いつつも、鶴巻は下から下からの姿勢を意識しつつ、こんな申し出をしてみる。


「あのぉ……実はお願いがありまして……」

「ええ、何でも言ってください。それともあれですか、俺、何か仕事でミスでもしてましたか?」

「いえ、仕事は本当に立派です。こんなに覚えの早い新人は初めてです」

「いやぁ、ベテランさんにそんなこと言ってもらえると照れるじゃないっすかぁ!」


 広瀬は甚く喜んでいる様子であるが、鶴巻はこの現場に派遣されるようになってから僅か一ヵ月。「こんなに覚えの早い新人は初めて」等と言っておきながら、それまで後輩などただの一人も入って来てはいなかった。

 こいつはチョロイだろう。そう感じた鶴巻は間髪入れずに申し出た。


「あの……今晩、泊めてくれませんか?」


 そう願い出た途端、鶴巻の予想通り、広瀬の顔に怪しげな雲が掛かり始める。しかし押し切ってしまえばこちらのものだと、心の中で舌を出す。


「えっ、あの……うちにですか?」

「はい」

「そいつぁ……どんな事情で?」

「ええ……実は私、アパートの大家と意見の相違があってですね……私は住人の皆さんが気持ちよく生活出来るように、毎朝共用部を掃除するのが日課だったんです。たまに住人の皆さんにはお礼なんかも言われたりしてね。それに大家さんはかなりの高齢だったんで、少しは役に立てるかなぁと思ってのことだったんです。家賃は入れていても、やはり住まわせて頂いているという恩義はありますから。けれど、大家さんは「管理会社が掃除をするからアンタはしなくて良い」と激怒しまして……理由を聞いたら「金を払ってやってもらってるんだから、勝手に掃除をされたらその分がマイナスになる」なんていうもんですから……あぁいうのは金の亡者っていうんですか? それで私、怖くなってしまいまして。それでも日課になっていたのでたまに、本当にたまに朝の掃除はしていたんです。そしたら今度はその大家さんから嫌がらせを受けるようになりまして……ポストにゴミを入れられたり、金を払っているのに督促状が送られて来たり、これはイケないと思い……泣く泣く解約してアパートを飛び出して来た始末なんです」


 これらの出来事は全て話しながら考え出した鶴巻オリジナルの創作話ではあるのだが、そうとは知らない広瀬は肩を震わせながら握っていたスチール製の空き缶をいとも簡単に握り潰し、激昂した。


「なんですかそのフザけた野郎は! 鶴巻さん、ソイツぶっ飛ばしに行きましょうよ! 俺、やってやりますよ!」

「いやいや、そんな……コトを荒立てるつもりはなくて」

「そんなナメられるような態度取るからいけないんすよ! 俺、相手がジジイだろうが何だろうが、そんなフザけた野郎は容赦なくぶっ飛ばしてやりますよ!」


 鶴巻は心の中で出したばかりの舌が乾き切らない内に引っ込め、軌道修正を図ろうとする。元ヤクザとはいえ、こんなに面倒臭い話になろうとは思ってもいなかったのだ。


「広瀬さん。あの、ここで出会ったのも何かの縁ですし、これから先のことを考えて行動しないと、ね?」

「すいません……つい、ドタマに血の気が昇っちまって。泊まるっつーのは、先輩の頼みっすからドーンと引き受けますよ。野暮は聞かないんで、今夜はうちに泊まって下さいよ」

「おぉ、ありがとう! 恩に着ますよ!」

「あ、タメ口でいいっすよ。俺と鶴巻さん同じ歳だしね、ここで会ったのも本当に何かの縁ですよ。五分でいきましょうや」

「あぁ、ありがとう」

「よろしく、鶴ちゃん!」

「あぁ、ヒロちゃん、よろしくな」


 固く握手を交わしながらも、鶴巻は「なんで先輩の俺が後輩のテメェと五分にならなきゃいけねーんだ、クソ馬鹿垂れ」と不満を漏らしそうになっていた。


 こうして鶴巻の思惑通り、その晩は広瀬の家へ宿泊することになったのだが、この時鶴巻はその後に待っている大地獄にまるで気が付いておらず、それが自分が招いた結果によるものだと、思いもしなかったのであった。

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