第三話

 寝台の上に身を起こしてぼーっとしている。鎧戸よろいどの隙間から差した陽は淡く、まだ朝の早い時間なのがわかる。

 毛布を肩にかけて石積みが剥き出しの壁を眺めながら、昨夜の夢をしばらく反芻はんすうしていた。

 目覚めたばかりの時は早鐘はやがねを打っていた胸も、もう落ち着いている。涙でぐしゃぐしゃだった顔も拭った。

 夢の中で私は炎の腕を伸ばして色々なものを掴んでいた。私の掌の中で掴まれたものが暴れる生々しい感触があって、それからふっと動きを止める瞬間の何かが失われる喪失感があった。私は手当たり次第に色々なものを燃やした。本当に、色々なものを。

 私は両の手のひらを開いてじっと見下ろす。感覚は鮮明に残っている。ぎゅっぎゅっと握っては開いてを繰り返してから、その手でぱんぱんと二度両の頬を挟んだ。

 問題無い。声を出さずに呟いた。

 大丈夫。

 ――うん、私はまだ大丈夫だ。



 昨日の雨は止んでいて、空には雲の名残も残っていなかった。鎧戸を開けた窓の向こうには、鉄のように黒ずんだ市壁の上、雨に洗われてまた一段と緑を濃くした山々が並んでいる。

 今日は市内を流れる堀川ほりかわの底さらいするということでお呼びがかかっている。これは保安ギルドの仕事でもあるけれど、どちらかと言えば市の行事といった側面が強い。勿論、肉体労働担当ではない。川底に溜まっていた泥まみれの枯れ木や落ち葉をすぐに燃やせるのは私の炎くらいなので、言わば後始末担当である。

 私の家からくだんの川はとても近い。

 私の今の住まいは市街の北西、市壁に沿って立つ無骨な石造りの四角い建物である。以前はここにも門があって、この建物は衛兵の詰所だったところらしい。市街が南へ拡張された時に、門は埋められたものの詰所の建物だけが残ったそうだ。二階建てで、一階も二階も真四角のまるで倉庫のような間取り。かまども暖炉もない代わりに、一階の窓には立派な鉄格子が嵌っているし、両開きの扉には私の腿くらいの太さのかんぬきまでついている。ちょっとした籠城戦くらいならこなせそうな風情だ。

 燃えにくくて、燃えても周りに迷惑がかからなくて、水が近くにあるところ、という私の希望をカイラさんに伝えたら、この素敵な住居をあてがってくれた。これは皮肉ではなく、静けさも、飾りの無さも、石がみっちりと詰まって並んでいる重々しさも、どれも本当に気に入っている。

 二階の扉はささくれもそのままに木を鉄枠で束ねただけの無骨さで、蝶番ちょうつがいは開けてごとにぎぃぎぃと重々しく鳴る。頑丈なのはいいけれど、鍵がずっしり重いのは少し困る。キコはこの扉を開ける度に「ニンカの家、まじで牢獄だよね」と言うが失礼な話だ。せめて砦っぽいとか城塞みたいとか言って欲しい。

 その無骨な扉を開けて石造りの急な階段に足を踏み出せば、眼下を右から左へ流れる濁った水路が見える。これがまさに堀川の、ちょうど街の西側から流れ込んできたところにあたる。

 堀川はその名の通り、元はアクバリク市街の壁に沿って掘られたお堀だった。

 市の東を流れるヴァークシュ川から水を引き、三日月のように市街をぐるっと周る形に水を通してからまた元の川に水を戻すという風に作られており、以前はまるっとその三日月の内にアクバリク市全体を収めていた。

 その後市街は南に拡張されていき、三日月の下半分は市の内側に入ってしまって、それ以来、この堀川は市のやや北よりを北西から東南へ向かってゆるゆると流れている、ということだそうな。

 見下ろす川の水は底が見えそうなくらいに少ない。上流のヴァークシュ川からの取水を堰き止めているのだろう。

 とんとんとんと階段を下って石畳の道に降り立てば、川下の方で人がせっせと動いている姿が見えた。私の家の前の川面は川底から舞い上がった泥で茶色く濁った水に覆われていて、これは既に作業を済ませたあとだ。

 堀川は元がお堀だっただけに、川幅は狭いけれど深さがある。路面の高さから川底まではだいたい私が二人と半分くらい。川岸は大きな石積みが割と雑に組み合わされていて、水の引いた今は底近くまでぬらぬらした石積みが露出している。

 これだけ深さがあると川底のゴミを路上に持ち上げるのも一苦労だけれど、幸いなことに堀川には何カ所かに川底まで降りられる階段が設けられている。その階段の場所まで上流のゴミを押し流して、そこからえっちらおっちら担いで登る、というのが底浚いの要領だ。

 そういえば、以前キコに「お堀なのにあちらこちらに階段があったらすぐ上がって来られるんじゃないの?」と聞いたら「いやいやいや、これは後付けでしょ。さすがにそんなにアホじゃないでしょ」と言っていたけれど、石の質感とか風合いを見るに昔からそこにあったとしか思えない。きっとおおらかな時代だったのだろう。

 目を下流の方へ向ければ、ちょっと歩いたところに最初の階段があって、並んで配置された人が下から上がってくる木の枝や根っこ、あるいは籠いっぱいの落ち葉や、なんだかよくわからないぶよぶよした半透明のかたまりなどをどんどん受け渡しては空地へ積み上げていた。

 壮年、青年、老年、取り取りの男性が皆上半身裸に下半身は襤褸布ぼろぬのを巻きつけた格好で働いている。濡れるし、水は綺麗とは言えないしでどうしても裸に近い恰好になってしまうのだろう。好きな人はこういうのを見るとたまらないのかもしれないけれど、私はただでさえよく知らない男性が一杯いるだけで萎縮してしまう方なのに、その上こんな赤らめた肌を惜しげもなく晒した恰好をされてしまったらもうなすすべもない。ただただ声をかけられたりしませんようにと祈りながら、小脇に抱えた荷袋の紐をぎゅっと握って道の端っこを通り抜けようとする。――のだが、困ったことに私は顔だけは売れているし、そもそもちっこい背と長い灰紅色かいこうしょくの髪がどうやっても目立ってしまう。

「お、ニンカちゃん! 早速燃やしに来てくれた?」

「あれ、ニンカちゃん来てるの?」

「やー、おはよう! いい天気だね 絶好のどぶ掃除日和だよ!」

「おおっ、ニンカさん! そいやっ! そいやっ!」

 一人が私に気づくと次々に繋がって、見覚えのある裸男、無い裸男からどんどん声がかけられる。

 こうなると私はダメだ。『にへへへ……』状態化し、愛想笑いで硬直することになる。というか、最後の人はもはや挨拶でもなんでもないし、なんなら威嚇しにきてるのでは感すらある。

 引き攣った笑顔を浮かべながら立ち尽くしていると、階段の方から裸の巨漢がのっしのっしと上がってきた。

「やあ、ニンカさん、ここはもうちょっとかかるから、後でまた来てくれ。それと、キコやプラタなら多分下の橋に居るだろう。そこが炊き出しだから」

 低い落ち着いた声。濃い鬚と細い目。銀鱗亭ぎんりんていのバラディさんだ。

 かたまってる私を助けてくれたのか、別にそういう意図はないのかはむっつりとした無表情から読み取ることはできないけれど、とても有難い。

「あっ、そうなんですね……。行ってみます。ありがとうございますー」

 ぺこりと頭を下げてから、さも用があるかのように小走りでその場を離脱した。背後に「また後でな!」とか「そいやっ! そいやっ!」とかの声が届いてくる。保安ギルドの仕事でもあるし、ご指名でもあるから出ないわけにはいかないのだけれど、こういう人の集まる行事ごとはまったくもって不得手で困る。

 このまま川沿いを歩いているとまた同じことの繰り返しになるので、通りを一本入って、北の市街地の中を通り抜けることにした。

 北市街は拡張前からの古い町並みで、玄関口の南の賑わいから離れて閑静だ。市壁が狭かったころの名残で建物が上に長く、どれも3階、4階建てくらいはあって、煉瓦と太い木の柱を斜めに組み合わせた造りも共通している。それらの間を縫うように伸びる石畳の道は狭く、馬車はとてもじゃないけれど通れないし、荷車だってぎりぎりだ。

 朝早いわけでもなく、お昼時でもない。中途半端な時間に人通りは少なく、どこからかかつかつと鉄を打つ音や、織機がぎこぎこと唸る音が聞こえてくる。

 見上げる空は狭い。

 洗濯物をかけるためか、向かい合った建物の窓と窓を結んだ紐がぷらんと垂れ下がっていて、その窓枠に据え付けられた植木鉢からは小さな薄紫のつぼみがいくつも顔を覗かせている。古い街並みだけあって、そこかしこにしっとりと馴染んだ生活感が溢れていた。

 この辺りの雰囲気は王都の旧市街に似ていて、ちょっと好きだったりする。

 そのままぷらぷら歩いていくと幅の広い通りにぶつかった。南広場から真っすぐ伸びてくる中央通りだ。ここを右に曲がれば上の橋で、渡ってすぐの小さい広場には保安ギルドの事務所がある。

 バラディさんが言っていた下の橋はさらに市街を南東へ進んだところで、市場のすぐ近くにある。プラタの洗濯屋もそのそばの川沿いにあって、堀川の水を引いて洗濯に使っていたりする。ちょっとこの水濁ってない?と思うし、さっき見かけたぶよぶよみたいな変な生き物混ざってたりしない?とも思うけれど、まぁ下水は流れてないらしいから良いのだろう。私も基本的に洗濯物はプラタに任せていて、今のところ白い服が緑色になってたりとか変な匂いがついてたりとかぶよぶよになっていたりとかはしていない。

 中央通りを過ぎて、まだまだ細い路地を行く。

 堀川がどんどん右側へ、南東の方へ曲がっていくにつれて、川向こうとの景色の差が大きくなる。向こうは市場が近くて、道が広い。家並みは大小新旧さまざまな建物が入り混じっていて、不揃いな櫛の歯のように見える。一方、こちら側は旧市街の稠密ちゅうみつに並んだ家々が相変わらず続いている。狭い道、小さい扉、庇の上でくつろぐしましまの猫、隅で眠たげにうずくまっている白い犬と黒い犬。斜めの陽は背の高い家々に遮られて路面まで届かず、道は影の中に薄ぼんやりと沈んでいる。街並みがこの調子なのだから、犬だって眠くもなろうというものだ。

 少し歩いた先でまた大きな通りに出た。荷車や一頭曳きの小さな馬車が行き交う活気のある道。これは市場から伸びている東通り。左右に商家や職人の家が並び、中央通りよりもごちゃごちゃしているのはこの道が東門に続いているからで、その東門の外にはヴァークシュ川に作られた小さな船着き場がある。

 船着き場といってもヴァークシュ川のこのあたりはかなりの上流部にあたり、流れは早く、浅い。喫水きっすいの浅い小型の船が馬に曳かれてようやく上って来られるくらい。アクバリクが中心都市になれない所以ゆえんでもある。とはいえ、貴重な水運の出入り口には人が集まる。おかげで東通りは市街でも繁華な通りだ。ちなみに、アクバリク市街には中央通りと東通りはあっても西通りは無い。

 この東通りを右に折れていけば、バラディさんの言っていた下の橋に行き当たる。

 橋の向こうに小さな空地があって、記憶が確かならそこが炊き出しの場所になっているはず、とうろ覚えだったけれど、東通りに出たところで川縁かわべりから賑やかでかしましい声が響いてきたので何も迷うことは無かった。声のする方、堀川の対岸の空き地には仮設のかまどがいくつか作られて、その上に乗せられたばかでかい鍋からはもくもくと湯気が上がっている。まだまだ冷たい水の中へ入ってゴミ拾いをやっている男性陣をねぎらうための料理がせっせと作られていた。

 調理場では忙しなく女性陣が行き交っている。台の上で具材を切る人、鍋に何かを注ぎ足している人、大きなヘラでかき混ぜている人、かまどの火をいじっている人、等々。勿論、調理に参加せずにその横で輪になって話している人たちも居る。なんなら家の中で使うような背もたれつきの椅子を出してきて日向ぼっこをしている人も居る。

 キコやプラタの姿は見えないけれど、キコのお母さんやプラタのお母さんはすぐにわかった。キコのお母さんは橄欖オリーブ色の髪を背中に流して、路上から空き地を眺めている。腕を組んでいるのが様になっていて貫禄がある。なるほど、キコもそのうちこんな風になりそうな気もする。

 プラタのお母さんは調理組だ。白い前掛け姿で鍋の一つに張り付いて大きなヘラをぐるぐる回している。プラタにそっくりすぎるので、腰まである髪の長さとちょっとした全体の雰囲気の違いくらいでしか見分けられない。

 私は橋の上で欄干にもたれながらそれらを眺めていた。

 男性がたくさん居るところは苦手だけれど、じゃあ女性だったらいいのかというとそういうわけでもなく、単純に私は人がたくさん居るところが不得手である。最初からこうだったのか、あるいは、いつしかこうなっていたのか――それは覚えていない。

「あれ、ニンカ? 早くない? どしたの?」

「ニンカちゃん、おはよー」

 物思いに沈んでいたところに、背後から聞き覚えのある声が届いてきた。

 ぱっと振り返れば、馴染みの顔が二つ。

 土色のシャツに膝丈のタイツと長靴のキコ。いつも通り濃い苔色の短い髪を後ろできゅっと結んでいる。

 プラタはふわっと裾の広がった黒いスカートで、シャツの上には母親と同じように白の前掛け。

 二人とも何枚も重ねた木椀を両手に抱えている。配膳用の器を取りに行った帰りなのだろう、他にも同じように椀を抱えた人が空地へ入っていく。

「ふたりとも、おはよぉ。私だって、たまには早起きするんだよ?」

 にっと笑って見せる私に、キコははぁっとため息をついてから、

「いや、『早くない?』とは言ったけどさ、ニンカにしてはってだけで、早起きってわけじゃないからね?」

 それはうすうす気づいていた。

 ぷらぷらしてる内に陽はだいぶ高くなってきて、もうそろそろお昼時と言ってもいい頃合いだ。

「ニンカちゃん、どうせ朝も食べてないだろうし、ここで食べちゃえばいいんじゃない? スープだけじゃなくてパンもあるよー」

「あれって私が食べていいの?」

「いいよーいいよー、勿論だよー。じゃあ貰ってきちゃうね」

 お椀を抱えたままぱたぱたと小走りになるプラタ。

「あ、ちょっとプラタ、待ってよ」

 それを追いかけるキコ。キコのお母さんがそんな慌ただしい二人を見てちょっと怪訝な顔をしている。

 二人はすぐに戻ってきた。キコが湯気の立つお椀を二つ両手に持っていて、プラタはパン三つを抱えた上に、小さなチーズと木べらのようなものを乗せている。どうやら木匙の代わりらしい。

 通り沿いは人が多いので場所を移し、細い路地に入ったところにあった小さな段差に三人並んで腰かけた。

「はい、ニンカとプラタ」

 キコからお椀を受け取る。プラタはポケットから取り出した布を地面に敷いて、その上にパンとチーズの切れ端を並べた。

「ありがと、……って二つ? あれ、キコは?」

「いや、私はそんなにお腹空いてないから、いいよ」

 ぱたぱたと手を振るキコ。プラタは私と同じように椀を受け取りながら含み笑いをしている。

「キコはねー。これ嫌いなんだよねー。はい、ニンカちゃん、これで具を掬ってね」

「ありがと、プラタ。このスープってそんな好き嫌いするようなもんなの?」

「……まぁ、ニンカも食べればわかるよ」

 パンを割りながら渋い顔をしているキコ。

 お椀の中身は薄い焦げ茶の汁に様々な具材が入っている。燻製肉ベーコンと蕪と蕪の葉っぱはすぐにわかった。もっと淡い色の葉っぱとか、細く切られた根菜とか、丸葱とか、それ以外にもいろいろ入ってるみたいで随分と具沢山だ。

 ふむ、と首を傾げる。美味しそうに見えるけどなぁ、これ。

 ともかくもちょっと汁を啜ってみよう、と椀に口を近づけたときに不意打ちを受けた。

 ――あれ……これ、かなり独特の香気がしますね?

 良く言えばとても複雑で香ばしい匂い。悪く言うと、大失敗したチーズと発酵しすぎた魚の酢漬けの汁とダメになったパンをぐちゃぐちゃに混ぜて煮詰めたような臭いというかなんというか、ともかく表現に困る感じの香りだ。

 プラタから受け取った木べらを椀に刺して、ちょっとかき混ぜてみる。よく見ると焦げ茶色の汁には微細なつぶつぶが入っていて、どうやら臭いの元はそれらしい。

「あのー、プラタ? これ、何入っているの?」

「んふふー。秘密。匂いは独特だけど、味は悪くないと思うよー」

 プラタは粗末な木べらで具を器用に掬ってぱくぱく食べている。一方、キコはいやいやいやと首を盛大に振っている。

 キコの反応は気になるけれど、私としてもご飯を粗末にする気は無いし、匂いだけで敬遠して食べないのは失礼である。

 意を決してえいやっと木べらを椀に刺して具を掬い上げてみれば、それはなにやら綺麗に透き通ってぷるぷるとした親指くらいの大きさの四角い形状の……食べ物?

 ――え、ちょっとプラタ?これ、ほんとに何が入ってるの?

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