第二話

 少し卓の周りが暗くなってきたと思ったら、すぐにぽつぽつと軒を打つ微かな音が聞こえてきた。

 ――あー、雨かぁ……。めんどくさいなぁ。

 そう思った瞬間に、視線が文字に定まらなくなる。雨音と共に周囲の話し声や食器のぶつかる音が耳に入って来るようになって、ふっつりと集中が途切れてしまった。

 ぐっと両手を上に突き出して伸びをする。

 水差しからカップに水を注いで一口。ふぅっと大きなため息。

 だいぶ根を詰めて読んでいたので、さすがに疲れがある。首を左右に振るとぱきぱきと気持ちいい音が鳴った。

 そんな油断したところに、

「相変わらずよくわからない本をよくもまぁ熱心に読むものだね」

 突然背後から聞こえてきた声で首の骨が折れそうなくらいに仰け反る羽目になった。

 慌てて振り返ると、褐色のまっすぐな髪を無造作に垂らした女性が一人、私の背後にあたる卓に座ってこっちを見ている。三白眼気味の尖った目で口元がにやにやしているのでとても人相が悪く見えるし、黒革のいかつい外套ジャケットと細身の体にぴったりとした柘榴ざくろ色の短いチュニックとタイツ、そして外套と同じ黒革の長靴という出で立ちはとても市井しせいの一般人には見えないし、そもそも腰には短剣と呼ぶにはいささか長い刃物がぶら下がっている。帯剣は貴族の特権にして、義務だ。

「カイラさん……戻ってたんですか」

「ちょっとこっちに用事があってね。野暮用だよ」

 そう言って、口の端を上げて笑う。

 カイラさん――カイラ・カンディッドは恰好からわかる通り市井の一般人ではない。カンディッド家はこのアクバリクを含む近隣諸都市を治める貴族家で、彼女は主家の次女であり、王国軍魔術士官であり、王立士官学校の教官であり、そのほか色々を兼務したり名義を載せたりしつつ、アクバリク保安ギルドの長官という立場にもある。

 つまるところ、以前の恩師であり、今の上司であり、私は士官学校時代からずっとこの人のお世話になりっぱなしで頭がまったく上がらない、ということだ。

 私は読みしの本を閉じて、カイラさんの方へ向き直った。

 座面の高い椅子のおかげで、対面すると見下ろす格好になるのがちょっと居心地が悪いけれど仕方ない。

「それで、わざわざこんなところまで来たということは、何かあるんですよね? ……というか、よくここがわかりましたね」

「家にも狩猟ギルドにも洗濯屋にも居なかったからリーナに聞いたら、いくつか候補を上げてくれてね。その一個目が正解だったってわけ」

 狩猟ギルドはキコのところで、洗濯屋はプラタだ。

 まあ、そもそも私の行動範囲なんて高が知れているので、人探しの対象としてはひどく簡単な部類だったかもしれない。

「で、さっきも言った通り野暮用のついでだから、君に強いて何かある、というわけではないよ。単なる連絡事項だから安心してほしい」

 本当ですかぁ?と言いたくなる。

「なんだその目は。そんなに信頼されてなかったなんて心外だよ。傷つくなぁ」

「だって、カイラさんの話って良い話のが少ないじゃないですか。大抵重い話か暗い話か深刻な話ですし」

「それは私が悪いんじゃなくて世の中が悪いんだよ。とばっちりだ。私だって楽しい話や頭の悪い話の方が好きだぞ。特に後者」

 本当ですかぁ?と言いたくなる。特に後者のあたり。

「だからその目はやめなさい」

「で、今日はどんな話なんです?」

「ふむ……、まあ明るく楽しい話ってわけじゃないな。残念ながら」

 言葉を切って、カイラさんは卓に置いてあったカップを口に運ぶ。運んで、ちょっと驚いたように尖った目を広げる。

「おお? 意外といけるな、これ」

「あ、それ新しい樽のやつですか?」

「ああ、勧められてね。いや、驚いた。こんな味とは思わなんだ」

「ですよね。驚きですよね。店では春の樽って呼んでるらしいですけど、さわやかな酸味に割としっかりとした甘味があって、確かに春っぽい味で。これ、私も気に入りました」

 なんだか嬉しくてつい力説してしまう。そんな私を見てカイラさんが笑った。いつもの皮肉そうな笑みじゃなくて、油断したような緩んだ笑い方だ。

「あぁ……、君がそうやって食事を楽しめてるのは、良いね。うん、それは良い」

 そんな笑顔でしみじみ呟かれると反応に困ってしまう。

「な、な、なんですか、それ。急に……。やめてくださいよ。私は大丈夫ですから……」

「言っておくが、私は君の大丈夫こそ全く信用していないからな。……まぁ、でも、うん、ちょっとは信じてあげてもいい気になったか」

 カイラさんは随分と満足そうで、私は妙にこそばゆい。

「さて、となるとこのままいい気分で帰りたいところだけれど、そうもいかないか。とりあえず業務連絡だ」

「はい」

 口調の雰囲気が変わったのに合わせて、私も椅子の上ですっと背筋を伸ばす。

「大演習は今年も中止が決まった。……まあわかってたことだが、改めて正式な決定ということだ」

「ええと、これで3年、ですか……?」

「そう、3年だな。最後が4年前だ」

 大演習は王国軍と騎士団とが合同で行う軍事訓練で、通常は隔年の夏期に王国内の各地で開催される。最後の実施が4年前、それは北方の戦争が起こった年だ。そしてそこからずっと中止で、今に至る。

「大演習って、こっちだとオーク退治をしてたんですよね? これだけ中止が続くと、なにか影響はあるんですかね……」

「わからない。……わからないが、少なくとも実施されていた時のオークの討伐数はそれなりの数字だった。ひょっとすると溢れてくる可能性はある」

 アクバリクを含む王国南東部では、大演習は単なる軍事訓練ではない。

 アクバリクが接する中央山塊の東部は人の手の入らない未開の地で、オークの棲み処だ。

 オーク討伐は版図拡大と共に王国の重要事項であり、事実版図内ではほぼ完全に駆逐されている。そして予防措置としての遠征活動がここ、南東部の大演習ということだ。以前は二千を超える人数を動員してアクバリク北部の峠を越え、未開の地に陣を作って一月以上の時間をかけて大規模な討伐を実施していたという。

 もし今年開催ということになれば私もおそらく百人長くらいの扱いで参加する羽目になっていたかもしれないけれど、幸か不幸か、私がアクバリクに来てから大演習が行われたことは無い。

「森林管理官や木工ギルド、狩猟ギルドあたりには注意喚起が行くはずだ。……君もわかっているとは思うが、連中は獣じゃない。騙す。決して少人数で相手にしようとするな」

「……はい」

「ま、これはあくまでも可能性の話だ。連中が増えたところで峠を越えてくるかはわからない。ただ、想定は必要だ」

 私は黙って頷く。

 カイラさんはまた一口、カップを傾ける。

「それと……」

 そう言ってから顎に手を当てて、少し考えるような仕草をした。

「それと?」

「ふむ……これは、現時点で君に直接関係のある話ではないんだが。さて、どうしたものかな……」

 珍しいことに、ちょっと言い淀んでいる。

 私も首を傾げる。

「それは……将来的には関係するってことですか?」

「将来、か。正直なとこ関係して欲しくはないんだが、そうもいかないだろうな」

 少し遠い目をするカイラさん。

 ほんのわずかな逡巡の後に、一度左右に首を振ってから話し出した。

「北の話だ。スヒナ王女が空位だった王国軍北方面軍団の団長に就任した。ついこの前の話だな」

「……へ?」

 はて、スヒナ王女、と急に言われても困る。

 私の知り合いに王女様は居ないし、王女という肩書の後に続くのが軍団長というのもよくわからなくて混乱する。

「今後、ボーグフィットの城に入られるそうだ」

「はぁ。ボーグフィット、ですか」

 これは懐かしい名前だ。王国の版図の最北に位置する都市。私の故郷の近く。

 行ったことも、歩いたことも、泊まったこともある。

 石畳の敷き詰められた道が伸び、曲面の多い城壁に白い雪が纏わりついた姿はいかにも北の堅牢な城塞といった風情だった。そして、4年前の戦争で苛烈な攻撃に合い、一度陥落した激戦地でもある。

「あの、よく話が見えないんですけど、どういうことです? ボーグフィットって、あれ? 領主様は? ウェルラモ・ボーグフィット様」

「ウェルラモ卿はとうに引退しているよ。ボーグフィット家は領地剥奪、というより、再占領時に王国軍が入ってそのまま直轄領にしてしまったってとこかな。だからずっと領主不在だったところに、今度スヒナ王女が北方面軍の軍団長として入ることになった、ということだ」

 陥落した北の都市を再び王国が取り戻したとき、私はその場に居た。

 焦げて煙を吐く城門の上で兵士たちが勝鬨を上げ、寒さも忘れて服を脱ぎ捨てて騒いでいた。あるいは、積もった雪に腰掛け無言で嗚咽おえつをこらえて居る男も居た。焼け落ちた城内の民家の前でひざまずいている女も居た。そこに、領主様は居なかったのだろうか。

 ――よく覚えていない。

「そうか、領主様はもう、居ないんですね」

 親交があったわけではない。

 特別に慕っていたというわけでもない。

 せいぜいが祭礼の時にそのお顔をちらりと見るであったり、巡行の列に手を振るくらいで、領主様というのは私にとって隣家で咲いた白木蓮はくもくれんや、仕立て屋の軒先にある手の届かないドレスやらと大差のない存在だった。

 それでも、居ないと聞くと一抹の寂しさがある。私の知る故郷がまた一つ失われたような、そんな感覚に襲われる。

「……それで、スヒナ王女というのは?」

 尋ねると、カイラさんは片方の眉をくいっと上げた。

「第三王女は君も何度か顔を見たことがあるはずだけどね」

「顔は、今さっき思い出しました。式典には結構駆り出されましたから」

 士官学校時代、私は何故か叙勲やら褒章授与やらの席に参加することが多かった。王族や高位貴族に混じって花束を抱えて会場をうろうろしたり、黙って突っ立っていたりする役目だ。あの頃は事の重大さを何も考えていなかったので割と平然としていたけれど、今思い出すとお腹がキリキリする。

 ――そういえば、先輩や同期らは軍装で外周に並んでいたのに、なんで私だけ貴族の子女が着るようなドレス姿で花束を抱えていたのか。

「……ところでカイラさん、今、ふと思ったんですけど」

「ん、なんだい」

「私、式典で花束を贈呈する役が多かったですよね」

「そう、だったかな?」

 ちょっと首を傾げるカイラさん。なんだかわざとらしく見えるのは私の思い過ごしだろうか。

「そうです。で、毎回すごい凝った格好で、襟や袖や裾にレースがたくさんついたブラウスとか、滑らかな天鵞絨ベルベットのドレスとか、フリルがたっぷりのブラウスと同じ意匠のスカートの上下とか」

「ふむ、よく覚えているね」

「別に近衛の軍装か、儀仗兵ぎじょうへいの格好でいいはずなのに、私だけこれって、今思うと完全に着せ替え人形にされてましたよね」

「……さて、あの頃の式典の衣装は誰が選んでいたのかな」

「男性は知らないですけど、女性はカイラさん……ですよね? というか私に着付けてたの、いつもカイラさんでした」

「ふむ、なるほど。本当によく覚えているね」

 鷹揚おうように頷くカイラさん。全く悪びれていない。

「もう、あの頃の私は何も考えてなかったから良かったですけど、今振り返ると冷や汗ものですよ? 私の礼儀作法の評価、知ってましたよね?」

 士官学校には礼儀作法の講義がある。士官は即ち貴族であり、貴族の仕事の中心は社交なのだから当然のことだ。そして私は礼儀やら作法やらには全く興味を感じない質なので、当然のごとく落ちこぼれていた。

 まあ、そもそも落ちこぼれて居なかった科目の方が圧倒的に少ないのだけれど。

「あんな教室で教わる礼儀なんて実際には何の役にも立たないさ。私はちゃんと適任だと思って君を抜擢したんだよ。それに、ほら、たまには着飾るのも悪くなかったろう? 君も満足、私も大いに満足で、実に良いことだよ」

 この人、教官なのに講義を全否定してます。

「それにニンカは素材がいいからね。いや、あれは楽しかったな。文句も言わずに着てくれるし。なんなら今もその実用一辺倒なローブを引っぺがして王都の『一角獣の夢』に連れてってまさにゆめふわな服を仕立ててやりたいとさえ思っている」

 挙句、完全に開き直っています。

 ――というか、ゆめふわ?今、ゆめふわって言った?……いや、怖いから触れないでおこう。

「あ、はい……わかりました。わかりましたから、もういいです。私はこのローブで十分です……」

「いやいや、君は何もわかっていないな。私がその気になれば保安ギルドの正装としてフリルとレースをふんだんにあしらった制服を採用することだってできるんだぞ?」

 口元でにやっと笑いながら恐ろしいことを言い出すカイラさん。

「いやいやいや、なんですかそれ、横暴ですよ。横暴」

「何を言う。私がギルドの長なんだからこのくらいの権限はあるだろう。まあ、リーナが来なくなるだろうからやらないけどね」

「あぁ、……まぁ、そうでしょうね」

 リーナさんがそういう服に喜んで袖を通す姿というのは想像し難い。

「とりあえず、そうだな。ニンカが今度王都へ行くときには私も同行しよう。ふふ、楽しみだな」

 勝手に決めて邪悪そうな笑みを浮かべるカイラさん。

「はぁ、良いですけど、どうせ王都に行く用事なんて無いですし」

「用事なんてのは作ればいくらでもできるものさ」

 カイラさんはそう言って立ち上がる。

「私の随行員なんて一番簡単な名目だ。さて、……バラディ! 美味しかったよ。ヴェロニカ、お代はここに置いておくね。ああ、いいよ、バラディ、厨房に居てくれ。出て来なくていい。じゃ、馬車を待たせてあるんでね、行くよ」

 奥に向かって声をかけ、銀貨を一枚卓の上に放ってカイラさんは颯爽と歩き出した。最後に入り口で振り返って私に手を振って、

「ニンカ、またね。今度はゆっくりご飯を食べよう」

「はい、カイラさん。また」

 私もぺこりと頭を下げて見送った。

 同じように頭を下げていたヴェロニカさんが卓に置いてあった銀貨をつまんで苦笑いをする。

「貰いすぎだよねー。まあカイラ様だから何にも言えないけどね。ニンカさんの分もこれで十分だから、お代は要らないよ」

 ここはカイラさんの厚意に甘えることにしよう。

 本を荷袋に仕舞って、袋の口をしっかりと締める。

「じゃ、ヴェロニカさん、ご馳走様でした。バラディさんにも美味しかったって伝えておいてください」

「はいはーい。また来てねー」

 ヴェロニカさんの声を背に店を出た。

 外はしとしとと細い雨が静かに振り続けている。私は荷袋をぬらさないように抱えてローブのフードを深く被った。水を弾くローブだからこのくらいの雨なら全く問題が無い。なんだかここ最近色々言われてるけど、やっぱりこれは優れものだ。

 ――そういえば結局スヒナ王女のことを聞きそびれたけれど、……まぁいいか。

 柔らかくて生ぬるい雨の中を精一杯の早足で歩きながら、私はそんなことを思った。



 その夜、カイラさんと懐かしい地名の話をしたからだろう、本当に久しぶりに――小さな村が焼け落ちる夢を見た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る