ニンカと春の風物詩の話

第一話

 春が随分と真っすぐ来る、と思った。


 北国生まれの私にとって、春はとても待ち遠しくてもどかしいものだった。

 柔らかな陽光に空気がこころなしか暖かくなって、ぐるぐるに巻いた襟巻を緩めて歩いた翌日には凍えるような雪が降る。

 ぬかるんだ地面が何度も融けて凍ってを繰り返す。

 野辺の草木は冬枯れのまま、じっとみぞれを被りながら春がじりじりと近づいてくるのを待っている。

 蕪と結球菜キャベツの酢漬けと塩漬け肉の食卓がまだ続くことにげんなりしながら、私は幾日も窓の外のどんよりとした曇り空を見上げていた。


 アクバリクの春は人を待たせない。

 ある日、ふわっと生暖かい南風が吹いたらあとはもう一直線だ。

 かさかさだった地面に柔らかな雨が降り注いで潤うと、そこら中から淡い緑が萌え出てくる。

 朝、窓外を見るたびに山並みの茶色の木々の先端が薄っすらと色づいていくのがわかる。

 襟巻はもう仕舞った。

 ローブのフードも脱いで歩ける。

 気づけばいつしか街路の木々に白や黄色の花々が咲いている。

 風に漂う甘い香り。はらはらと舞う色取り取りの花弁。

 さすがの私も足取りが軽くなろうと言うものだ。


 というわけで、軽くなった足取りに行く先を任せて市街をぶらぶらした結果として真昼間から銀鱗亭ぎんりんていに辿り着いてしまった。

 北門前の広場から小路を少し入ったところにある小さな酒場で、白い漆喰しっくいの壁の前には中身が入っているのかいないのかわからない酒樽が積み上げられている。葉野菜や芋が乗った荷車が奥に止められていて、その手前、半開きになった木戸からは何かを煮込んでいる良い匂いが漂ってきていた。

 リーナさんに連れられて以来の行きつけで、勝手知ったる店であり、私が臆することなく入れる数少ない店だ。そっと木戸を開くと、匂いがずっと強くなってお腹が空腹を訴えてくる。

 店の中は長い卓が三つ、縦、横、縦で中心の配膳台を囲むように置かれていて、まだ早い時間だというのに既にある程度席が埋まっている。長椅子に腰掛けた客たちは2、3人で談笑していたり、一人黙々と食べていたり、物思いにふけりながら葡萄酒を傾けていたりで様々だ。

「あっ、ニンカさん。いらっしゃーい」

 卓の中心で料理を取り分けていた店員のヴェロニカさんが私に気づいて手を止めた。

 耳を隠すくらいの短い黒髪を頭巾に包んだ彼女は銀鱗亭の看板娘で、ほとんど喋らない店主に代わって厨房外の仕事を取り仕切っている。動きやすい服装の上に着けた白い前掛けが眩しい。

「場所は奥でいい?」

 そう言ってヴェロニカさんは店の隅の方へちらっと目をやる。

 目線の先には壁際に小さな卓が設えてある。横に二人並んだら一杯になるような狭さで、ちょっと天板の背が高い。背の低い私にはその高さが難点だけれど、普段あまり使われない席なので気兼ねなく長居できるという利点がある。私のお気に入りの席だ。

「うん、そこで」

 頷くと、これまた私以外に使ってるのを見たことが無い座面の高い丸椅子を持ってきてくれた。

「はーい、どうぞー。今日の煮物は結球菜キャベツと丸葱と腸詰肉ソーセージ壺煮ポトフで、焼き物は羊肉でーす。飲み物は葡萄酒?」

「葡萄酒ー。新樽のやつで」

「出来立ての樽もあるんだけど、どうする?」

 ほほう。

「じゃあ、それ。新しいの。あと、煮物と焼き物。それにパンとチーズと丸葱のピクルス。あ、それと最後にそこの柑橘オレンジ

 中央に設えられた配膳台にはうず高くパンが積まれていて、その横にチーズやらピクルスやらふかした丸芋やら焼いた川魚やらの乗った皿が並んでいる。客は食べたいものを選んでヴェロニカさんに取ってもらう仕組みである。

「はいはーい。すぐ取ってくるから待っててねー」

 ぱたぱたと去っていくヴェロニカさんを見送って、よっこいしょと椅子によじ登り、小脇に抱えた荷袋から読みかけの本を取り出して卓の隅に置いておく。

「はいはーい。まず葡萄酒と壺煮とパンねー」

 陶製のカップになみなみと入った葡萄酒。深めの木皿に綺麗な緑の結球菜が浮かんだ壺煮。少し茶色の強い丸パン。とんとんとんと目の前に並べられていく。

「はーい、焼き物とチーズとピクルスねー」

 とんとんとん。陶製の浅い皿には飴色に焼けた骨付きの羊肉。たっぷりの肉汁と香辛料がまぶしてある。油と脂と香辛料の蠱惑こわく的な匂いが届いてきて、思わず唾を飲み込む。

 最後に手元に木匙とナイフと手拭いを置いて、ヴェロニカさんは「ごゆっくりー」と去っていった。

 さて。

 さてさて。

 本を読みながらの食事も良いものだけれど、まずは何は無くとも目の前で子気味良くじゅうじゅうと言っているこのお肉だ。早く食べてとお皿の上でお肉が言っている。私にはわかる。

 骨の部分を支えにして、握りこぶしくらいの肉塊にそっとナイフを立てる。そのまますっと刃を通せば――斬れる。

 断面は綺麗な紅色。プラタなら「すごいねー。ニンカちゃんの髪の色より鮮やかだよー」なんて言いそうなくらいに。いや、別にお肉と色味を競う気は無いんだけれど。

 切れた肉片にナイフを刺して口に運ぶ。

 熱々のお肉は歯に触れるとほろっとほぐれて、繊維の間に隠れていた肉汁が口いっぱいに広がって、塩気と甘味にピリリとした香辛料の刺激があって、つまるところとても美味しい。

 そして葡萄酒をくいっと傾ける。一口含んで、舌の上で転がすとちょっと驚く。随分と酸味が立っていて渋みが少ない。そして甘い。全体的に軽やかでなんだか若やいだ味だ。その新鮮さが肉汁をさっと洗い流して、後には苺や桑のような心地よい香りが残っている。

 銀鱗亭の葡萄酒はいろんな醸造元の酒を混ぜて提供するのが常だけれど、この味は以前の樽と明確に個性が違う。多分意図してのものだ。

「これ、この出来立ての樽のやつ、面白い味するねぇ」

 ちょうどヴェロニカさんが近くを通ったのでカップを見せてみると、

「あ、新しい樽ね。これ、バラディがね、春の樽なんて名前をつけてるのよね。あんな図体して春の樽だなんて、似合わないことにね」

「春……。春かぁ、あー、なるほど」

 薄い臙脂えんじで、カップの底が見えそうな葡萄酒。言われてみると確かに春を液体にしたらこんな感じになるのかもしれない。店主のバラディさんは髭面のむくつけき大男で、いつもむすっと黙って鍋と睨めっこしている印象だけれど、意外と詩人だ。

 改めてもう一口。

 口に含んだ香りは華やかで、葡萄酒離れしている。

 うん、これは葡萄酒以外に桑あたりの果実酒か、あるいは果汁そのものが混ぜられている気がする。そうでなければこんな味にはならない。

 でも美味しいのでよし。

 続いて木皿に盛られた壺煮に手を付ける。具は腸詰肉と丸葱と結球菜で、壺煮としては至って一般的なのだけれど、酢漬けじゃない結球菜が入っているだけで嬉しい。油が玉になって浮かんだ汁とともに薄く柔らかな緑の葉を木匙で掬えば、これは春の味覚だ。さっぱりとした春の葡萄酒ともよく合う。

 葡萄酒を傾けながら羊肉と壺煮を食べていき、あらかた卓上が落ち着いたころ、私はおもむろに本を卓の真ん中に据えた。

 手元がちょっと暗いので取り出した火打ち石を軽く擦って、羊肉の乗ってた皿に小さな火球をそっと浮かべる。

 残ったチーズとピクルスを脇に寄せ、デザートの柑橘を持ってきてもらう。それと葡萄酒を継ぎ足してもらえば準備万端。そっとページを開く。

 私の顔よりも大きな大判の本は『紋章家系大全』という紋章管理官や貴族家の家政人必携の大著で、著者執筆時に主流だった貴族家の内、分家含めた約200家を選択して、その紋章と派生紋章、さらに簡単な家系の歴史と任官、代表人物やその家にまつわる禁忌や禁句等々が記されている。よくもまあこんなものを書いたなあと言うほどの内容の濃さで、眩暈がするほどの文字の密度だけれど、それがたまらない。

 王室のソンデック家で馬肉が禁忌とされているのは馬丁から家を興した名残とか結構過激なことも書かれているし、アクバリクを治めるカンディッド家と隣接するケイルン家では肉の焼き方で家長同士の決闘になりかけたことがあるとかどうでもいい事項も満載で、読み物として楽しく、かつ非常に実用的という名著である。

 頁の左側に載った紋章図へ目をやって、概ねの領地を書いた地図を見て、へぇーこんなとこねぇーと思いながら系図と歴史を読む。合間に葡萄酒でちょっと口を湿して、ピクルスかチーズを齧る。それからまた細かい文字に目を戻す。

 葡萄酒の4杯目のおかわりで、ヴェロニカさんはそっと水差しを置いていってくれた。

 酔いが少し回って周囲の物の輪郭がふわふわしてくる。こうなると、私は逆に集中力が増す。

 じっと文字に没頭する。これは楽しみであり、勉強だ。

 大貴族が家のために買うか、あるいは官吏が仕事のために借りるような本をわざわざ高額を出して買って読んでいるのは純粋な楽しみ以上に自分を守るためでもある。

 私は魔術士官であり、それなりに魔術が得意であり、しかも使う魔術はとびきり荒事向きの性質をしている。

 そんな私が世を穏便に渡るには、貴族家の勢力、派閥、王家との関係等々、知っておかなければならないことがたくさんある。

 どう身を処すのが正解か、どうすればいざこざに巻き込まれずに済むか。

 本家と分家、北と南、王家と騎士団、継承順位。いさかいいの種は方々に、それこそ無尽蔵にあって、知識だけがそれを可能な限り遠ざけてくれる。

 文字を目で追いながらほぉっとため息が出る。

 ――まったく、世の中には種の無い方がいいものもたくさんある。柑橘だって葡萄だって、そうだ。

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