第六話

 作戦を綿密に話し合う必要があるため部屋で食事をしたいこと、出発前なので酒類は要らないことを伝えたところ、サリックス・ドーフィット氏は快く了解してくれた。

 運ばれてきた食事はパンとチーズ、香草を散らした燻製肉ベーコン丸葱たまねぎの炒め物、腸詰肉ソーセージ丸芋おいもの煮物、小さい川魚と葉野菜の酢和え。それと、これは自慢の一品ですと最後に出てきたのはリーフベリーのプディング。

 食事はどれも驚くほど美味しかった。辺鄙へんぴな場所にあってもさすがに貴族の家だけあって、使ってる食材は素朴でも決して田舎料理ではない。味付けがしっかりしてるし、煮物も炒め物も香辛料の使い方に工夫がある。自慢というだけあってプディングは特に良くできていて、卵と砂糖をたっぷり使った甘味にキコは目を細めていた。

 食後に温かいお茶をいただいて、のんびり時間を過ごす。色味の強い紅茶だ。これもまた貴族的。キコは添えられていたキイチゴのジャムをたっぷり入れてまたしてもご満悦である。

「しまったなー。こんな待遇で泊まれるんなら、までして急いで巣穴を探さなくても良かったかも」

 キコはすっかり胃袋を掴まれてこんなことを言っている。プラタも満更では無いようで、紅茶のカップを両手に抱えながらうんうん頷いている。

 確かに、リーナさんは期待できないと言っていたけれど全然そんなことは無く、食事はアクバリク市で半端な物を食べるよりはよっぽど美味しい。それに、椅子といいテーブルといい手の込んだ造りのもので、部屋は簡素だけれど粗末なわけではない。調度はどれも品が良く、灯した火の温かい光に照らされるとなんとも居心地の良い空間である。私も雑嚢ざつのうから読みかけの本を取り出してまったりとする。

 ――まあ、どんなに食事と部屋の居心地が良くても、長期滞在は私の胃が持たないから無理なのだけれど。


「頃合いかな。そろそろ支度しようか」

 窓から身を乗り出して外を見ていたキコが部屋の中を振り向いて言った。

 私は読んでいた本を閉じ、プラタは繕い物の手を止める。

 部屋の空気はひたすら弛緩しかんしている。とてもこれからゴブリン退治に出発するようには見えないけれど、私たちはいつもこんな感じだ。

 それに、支度といっても準備するものは少ない。私は杖があればいいし、他の二人に至っては正直着の身着のままでも問題無いくらいではある。

 寝台の上に脱ぎ散らかしてあったローブを纏って、革のベルトで腰に短剣を吊るす。私はそれで準備完了。

 キコは「ま、使わないだろうけどね」と言いながら短弓を腰の後ろにぶら下げて、矢筒を背負う。

 プラタは壁に立てかけてあった背負子しょいこを持ってきた。

「はい、じゃあニンカちゃん、乗って乗ってー」

 私の前にどすんと置いて催促するが、さすがに部屋の中から乗って出て行くのは恥ずかしい。というか、自分の足でろくに歩かないとかこいつどんなに偉いんだよと思われそうな気がする。

「プラタ、それ使うにしても、もうちょっと後にしない? ほら、なんていうの? 私にも体裁ってのが一応あるし……」

「はえー、ニンカちゃんそういうの気にしてたんだー」

 それは驚き、みたいな反応をされてちょっと傷つく。

 ――うん、そうだよ、気にはしてるんだよ。気づかれないくらいささやかかも知れないけど。


 廊下を渡って応接室を抜ける。玄関前の広間にはドーフィット氏はおらず、おじさんが一人、燭台の下で台帳を広げてなにやら書き物をしていた。

「ご出発ですか?」

「ええ。……遅くとも、夜明け前には戻りますので」

 私が代表して答える。

 おじさんは頷いて立ち上がり、扉のかんぬきを引き抜いた。

 ぎっぎっと重々しく軋んで、両開きの扉が開く。

「戻りましたら、外の鐘を鳴らしてください」

 どうやらこのおじさんは寝ずの番らしい。大変なことだ。

 外に一歩踏み出すと冷たい夜気に包まれた。吹き抜ける風には冬の気配があって、まだ春が浅いことを思い出させる。

 背後で扉が閉まって、再び閂がかけられる音がする。

 集落はひっそりと静まりかえっていた。離れた隣家の灯している明かりが窓の隙間から少しだけこぼれているのが見える。昇った月の光は周囲をほの青く浮かび上がらせているけれど、見上げる山並みは真っ黒で、ただ星空の切れ目だけがそこに山が聳えていることを示している。

 私は両の手を少し擦り合わせてからポケットに突っ込んで、火打石を取り出した。ちっちと擦った火打石から散った火花を一つ"掴ん"で、ぽっと頭上に浮かべる。浮かべた火をさらに"引き絞る"と色合いが赤から黄色に変わって光量も増える。明かりにはこのくらいの加減がちょうど良い。キコはちょっと眩しそうに手を額にかざした。

「それじゃ、行こう」

 キコが言って、前を歩き始める。頭上に火を浮かべた私が続き、後ろにプラタ。いつもの並び順で進む。

 歩き出してすぐに牧草地の踏み分け道に入った。先刻私たちが下ってきた道だが、今は印象が全く違う。見上げる先には月の光の届かない鬱蒼とした森が黒々と広がっている。

 かすかな虫の声が響く。遠くを流れているはずの小川のせせらぎが妙に近く聞こえてくる。

 坂道を少し登ったところで後ろからちょんちょんと肩を叩かれた。振り返ると、プラタが「はい」と背負子を降ろしてどうぞどうぞと手で促す。

 乗っかるのを少し躊躇ためらっていると、キコが私の背をぽんと軽く叩いた。

「乗った方がいいよ。この先そこそこ昇り降りがあるし。……魔力は使わないでしょ?」

「ん……」

「いいんだよー、ニンカちゃん、遠慮しなくて。私なんてこのために来てるようなもんなんだからー」

 にっと笑顔を見せるプラタ。

 そこまで言われたら、しょうがない。

「うん、ありがとね、プラタ」

「はいはい、お任せあれー」

 プラタと背を合わせるようにして腰を掛け、革帯ベルトで身体を固定する。プラタが「よっ」と一声かければ視点がぐっと持ち上がった。合わせて私の炎も随分と上の方に浮かぶようになる。

「ニンカ、炎、気を付けてね。山火事は洒落にならないからね」

 言われて火球の位置を少し下げる。私の肩の横あたり、熱くならない程度の距離に留めた。

「じゃ、進むよ」

 キコの声が背中の方から聞こえる。

 プラタが「おー」と答え、ざくざくと足下の草を踏みながら歩き始める。私の身体もその音に合わせて揺れていく。

 二人は足取り軽く牧草地の斜面を超え、雑木林の中に入っていった。だだっ広い草むらから下草の生い茂る森林へ、背後から流れてくる景色の変化を、私は足をぷらぷらさせながら眺めている。

 木が多くなってきたので火球の位置には気を配る必要があった。しかも私の目線は進行方向とは逆を向いているので余計に神経を使う。

 実のところ好意に甘えている身としてははなはだ恐縮ながら、こうして背に乗せられて運ばれるというのはそれほど快適なものではない。プラタがいくら気を使っていても木の枝や葉っぱは私の頭を掠めるし、予期せぬ揺れ方にちょっと気持ち悪くなったりもするし、自分だけが一人で背後の景色を見続けるというのは結構怖い。ましてや、ここは夜の森の中だ。暗闇に沈んだ木々の合間に、何か見えてはいけないものが見えてしまったらどうしよう、何か恐ろしい存在に私だけが気づいてしまったらどうしよう、という気持ちになる。たとえば、ほら、今そこの頭上の木の上で赤く光っている二つの小さな点とか。

 ――いやいや怖くはない。あんな小さな点なのだから、その持ち主の身体も相応に小さいはずだ。というかどうせフクロウだ。なにしろそこら中からほーっほーって声がする。

 そう自分に言い聞かせても、どうしようもなくじんわりと不安は湧いてくる。

 私は背後に手を伸ばして、触れた布地をきゅっと掴んだ。きっとプラタの腰のあたりだろう。その掴んだ手がすぐに別の手のひらに包まれる。プラタ、気づくの早すぎなのでは、と思う。

「キコー、あとどれくらい?」

「もうちょっとかかる。まだ半分くらい」

「だって、ニンカちゃん。ごめんね、もうしばらくそこに乗っててね」

 プラタの手が私の手を一度ぎゅっと握って、離れる。

「……うん、大丈夫」

 私も掴んでいた布地を離した。

 赤い点もいつしか見えなくなっていた。


 キコとプラタは歩みを止めない。休憩も挟まない。

 ちょっとした傾斜の道を登り、時々雑木林の中にぽっかりとできた広場のような場所に出る。またすぐに林の中に入って、今度は緩やかな下り坂。通り過ぎていく木々に時折黄色い布切れが結び付けてあるのは、多分キコのつけた目印だろう。

 下り坂からまた登り始めたところで、せせらぎの音が聞こえだした。その音が徐々に近づいてくる。

 急に二人が立ち止まった。

「プラタ、足、気を付けてね」

「ん」

 沢にぶつかったのだろう、視界が開けて再び夜空が見える。頭上の冷え冷えとした色の月はそろそろ天頂にかかろうとしていた。

 慎重な足取りでプラタが流れを渡って、また景色が暗い木々の中に埋もれていく。

「もうそろそろだよ」

「だってー、ニンカちゃん」

 キコとプラタの声。ここまで私を担いで山道を昇り降りしてきたのだから当然だけど、さすがにプラタもちょっと息が上がっている。

 それから少し歩いたところの窪地で二人は歩みを止めた。

「ここでいいかな。プラタはニンカを降ろして。ニンカ、一度火を消してもらっていい?」

「はいなー。……はい、ニンカちゃん、足下気を付けてねー」

 プラタが返事をして、ゆっくりと屈む。私は革帯を外して立ち上がる。久しぶりの地面の感触にちょっと安堵する。

「じゃ、消すよぉ」

「いいよ」

 キコの返事に、浮かべていた火球を"閉じる"。

 ふっと最後の一瞬に明かりが強く広がって、その後は目の前のキコの姿も見えなくなる。文字通りの真っ暗闇だ。

 何も見えない真っ暗闇に目を凝らすと、そんな闇の中から徐々に木々の輪郭や葉影を透かす星空の明かりが浮かび上がってくる。さっきまでの暖色とは違う、青ざめた夜の景色が広がる。

「目は慣れた? ここからは明かり無しで行くよ」

 キコの潜めた声。

「はいー」

 プラタも同じように囁き声で返事をする。

 ――さっきまでここで普通の声で喋って無かったっけ?

 まぁ、暗くなると声を潜めたくなる気持ちはわかるので黙っている。

「はい、ニンカちゃん、杖」

「あっ、うん、ありがと」

 プラタから2本の杖を受け取ってそれぞれ両の手に持つ。重く冷たい金属の感触を手のひらに感じて少し気が引き締まった。

「じゃ、こっち。暗いからね。木の根っことか足に引っかけないようにね」

 キコが再び歩き出す。

 窪地を登りきって少し歩いた先が雑木林の切れ目になっていた。その奥、狭い草地を挟んだ向こうは山肌が急な岩壁として立ち上がっていて、月の光にほんのり青白く照らされている。

「んーっと、あれ?」

 すぐ後ろからプラタの声。

「あれ」

 キコが頷く。

 ――え、どれ?

 二人の向いているであろう方向をじっと見ても、俄かには判別がつかない。

「ニンカ、あそこ、あそこ」

 キコが私の横に顔を寄せて、指で示してくれる。

 聳える山肌の壁面は見上げるほど高い。その下、私たちから見て左手奥の方。キコの指の先に目を凝らすと、月の光の届かない黒々としたうろが口を開けているのが私にも分かった。

「あれかー」

「あれだよ」

 それじゃあ、ここからは私の出番だ。

 杖を一度握りなおして、軽く2本の杖の先端を合わせる。かちかち鳴らすと、手元の暗がりの中にいくつか小さな火花が散った。

「頼んだよ、ニンカ」

 寄り添うキコの手が私の頭をくしゃっと撫でる。

 私は無言で頷いた。

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