治療は消毒に始まり、消毒に終わる。
小夜の指示を受けたルッツは、早々に村人達に薬や衛生用品を配り終えた。
そして、次に小夜が取った行動は更なるペストの
(此処でこれ以上の感染拡大を食い止めるのよ⋯⋯!)
村で一番の広さを誇る寄合所だったその建物は、さながら小さな病院に様変わりする。一通りの準備を終え、一息ついた頃には既に空が白み始めていた。
「なあ聖女様、次はどうすンだ?」
助手の証として小夜から与えられた白のケーシー(半袖の医療用ユニフォーム)に袖を通したルッツは期待を込めた視線で小夜を見つめる。火急の事態の為に徹夜を強いてしまったが、どうやら彼の元気は有り余っているようだ。
「次は⋯⋯いよいよ杖を使うわ!」
「!!」
小夜の言葉を聴いたルッツは途端にさあっと青ざめる。恐らく、練習と称して小夜に杖を刺された時の事を思い出しているのだろう。
「ほ、本当にアレをやるのか⋯⋯?」
「当たり前じゃないの。本番では杖に聖薬を入れて身体に注入するのよ」
「!?」
あまりの衝撃にルッツは言葉が出ないようだった。
「練習と違って杖だけ刺しても意味が無いのよ。ルッツ、貴方にも手伝って貰うから覚悟してね」
「おっ、俺にはそんな
「私達の手には人命がかかっているの。出来る出来ないじゃない、やるのよ!!」
「⋯⋯わ、分かった」
小夜の気迫に押され気味のルッツ。彼は可哀想な程に血の気を失った顔で紫色の唇を開き、
(まさか此処まで怯えるとは思っていなかったわ⋯⋯もしかしたらトラウマを植え付けてしまったのかも)
ルッツの病的なまでの反応を見た小夜は反省する。しかし、ルッツには申し訳ないが今は彼の心のケアまでしている余裕は無かった。
(この世界の人達にとっては注射器なんて未知の物だものね。本番では出来るだけ注射から気を逸らすようにルッツに協力して貰おう)
ただでさえ異世界人として遠巻きにされているのだ。これ以上、村人達に小夜への恐怖心を
「さあ、急いで! 何としても一度目の投薬を今日中に終わらせる必要があるわ!」
小夜はルッツの手を取り歩き出す。
陽が登ったばかりとはいえ、小夜自身初めての処置にどれだけ時間がかかるか予想出来なかった。そのため、一刻も早く取り掛かりたい小夜は早足で1人目の患者の元へと向かうのであった。
✳︎✳︎✳︎
(⋯⋯遂に、この時が来たのね)
エタノールで手指を念入りに消毒した小夜はマスク越しにごくりと唾を呑み、簡易机の上に置かれた薬剤と器具へと手を伸ばす。
ストレプトマイシン硫酸塩は粉末状である為、1
出来上がった白色の薬液を空気を入れたシリンジで吸い上げた後は針を変え、空気を残さないように先端まで薬剤をつめる。(これをAir抜きと言う)
そうすれば、後は患者に注入するのみだ。
(私の見立て通りだと、この村で流行しているのはペストの中では比較的軽症である
小夜が手にしているストレプトマイシン硫酸塩——成人には1日1g、週2~3日又ははじめの1~3カ月は毎日、その後週2日投与を行い、60歳以上の高齢者には1回0.5~0.75g、小児には適宜減量投与する。
また、急性腎不全やアナフィラキシー等の重大な副作用が有る為、患者の容態を見ながら慎重に投与を行う必要がある。
「始めるわよ、ルッツ」
小夜はフェイスシールド越しに目配せする。
「お、おう⋯⋯」
1人目はこの村では一番病が進行している若い女性だ。痩せた細い身体には
「⋯⋯」
「⋯⋯」
何処からか息を呑む音が聴こえる。それが
「肩を出して」
小夜の指示を受けたルッツは大きく頷き、
ルッツの仕事は大きく分けて2つ。小夜が処置だけに集中出来る様に簡単な補助をする事と無闇に患者の不安を煽らない為に注射から気を逸らす事だ。
エタノール綿で拭き、練習通りに肩峰から指3本分の場所に狙いを定めピンと皮膚を伸ばす。
(人体は表皮、真皮、皮下組織、筋肉の順に構成されているわ。この薬液は皮下組織に入ると
チラリとルッツの様子を窺うと、彼は女性から小夜の姿を
(初めは強引にだったけど、ルッツは身元も知れない私を信じてくれているのよね。何としても彼の信頼に報いたい)
ルッツの真剣な眼差しを見るとギュウッと胸が締め付けられる心地がした。
それから小夜は感傷的な気持ちを振り落とす様に頭を振り、目の前の患者に集中する。
(親指と人差し指で掴んで中指を添えるように⋯⋯後は
小夜は垂直に、勢いよく針を刺した。すると、痛みにビクリと女性の身体が跳ねる。
「痺れはあるか?」
小夜が針を刺した事を横目で確認したルッツが女性へと尋ねると、彼女はゆるゆると首を振った。
(ルッツったら⋯⋯上手い具合に気を逸らしてくれているわ。彼女に腕に針が刺さっているところなんて見られたら卒倒してしまいそうだものね。手早く済ませないと)
痺れと逆血の有無を確認した後は、いよいよ薬液を注入する。
(聞いた話では意外と力がいるらしいけれど⋯⋯如何なのかしら?)
プランジャーを押し込む。
小夜はそれまで半信半疑だったが実際に経験してみて理解した。確かに抵抗を感じる。
(⋯⋯やっぱり机に
左手でシリンジを支えながら薬液を注入すると、女性が身体を
永遠にも思える時間、ツウと額を汗がつたう感触で我に返った。針抜し、アルコール綿で押さえたら薬液を広げる為に綿越しに揉み解す。
「⋯⋯終わったわ」
ふうっと深く深く息を吐き出す。如何やらいつの間にか呼吸を忘れていたようだ。
(未だ1人⋯⋯でもやり切ったわ! これで私も少しはあの人に近付けたかしら⋯⋯?)
こんな事を後何十回も繰り返すのかと思うと些か気が滅入ったが、それ以上に達成感と高揚感で不思議と悪くない気分だ。
小夜は再びエタノールで手指消毒を施し、ルッツを伴い次の患者の元へと向かうのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます