蝋燭は身を減らして人を照らす


 筋肉注射は、略して筋注きんちゅうまたはIMアイエムと呼ばれる処置である。

 筋肉注射は静脈注射よりも早く長い効果が期待できるもので、血管への注入では痛めてしまうような刺激の強い薬剤(油性液や懸濁液けんだくえき)に対して用いられるものだ。


 医療用ペンライトを口に咥えた小夜は、可動域の限界ギリギリまで首をひねって自らの肩——三角筋の辺りに指を這わせ注射位置を探る。肩峰けんぽう(肩甲骨にある骨の突起)から指3本分下の辺りが好位置だ。

 穿刺せんし部分をアルコール綿でぬぐった後、左手で皮膚をピンと伸ばし右手でシリンジを持つ。些か無理のある体勢だが、自主練習では致し方あるまい。


「持ち方は鉛筆を持つように⋯⋯っと」


 此処まで来れば、後は覚悟を決めて針を刺すだけだ。小夜の額にはじわりと汗が滲み、ごくりと唾を呑む。


(ちょっと怖い、かも)


 小夜は健康優良児の為、此れまで予防接種以外に注射を打った記憶が無い。ましてや自らの身体に針を刺した経験など当然ながら無かった。

 その為、直前になってから少々怖気付いてしまったのだ。


(覚悟を決めるのよ。文字通り、私の手に此の村の未来が懸かっているのだから⋯⋯!)


 これから訪れるであろう痛みに耐える為、歯を食い縛る。そして、真っ直ぐに勢い良く針を刺した。


「っ⋯⋯!」


 チクリと腕に鋭い痛みが走り、思わずギュッと瞳を閉じた。

 気持ちが落ち着いたところでそっと瞳を開き、空のシリンジに目をやる。


(⋯⋯うん、しびれも逆血も無い。成功ね)


 残念ながら今、練習として出来るのは此処までだ。ペストを発症していない小夜の身体に実際に薬液を注入する訳にはいかない。


(仕方ないけど薬液の注入は一発本番ね。その時までにイメージトレーニングを重ねて完璧にしておかないと)





 ——小夜が一通りの確認を終え、腕から針を抜こうとしたその時、部屋の扉が開いた。


「聖女様、食いモン持ってきたぜ」


 入って来たのは大きな袋を抱えたルッツだった。


「あら、ルッツ。ありがとう」

「いいって事よ。それよりも聖女さ——」


 ルッツはそこまで言って口を閉ざした。力の抜けた手からはドサリと音を立てて抱えていた麻袋が床に落ち、飛び出そうな程にブラウンの瞳を見開いている。

 そんな彼の視線は一心に小夜の左腕に向けられていた。


「せ、聖女様⋯⋯それ⋯⋯」


 震える指で針が刺さったままの小夜の腕を指差す。


「あんた⋯⋯遂に頭が可笑しくなっちまったのか?」

「失礼ね。私は何時だって正気よ」

「だって、それ⋯⋯!!」


 ルッツはわなわなと震えながら信じられないものを見るような目で小夜を凝視している。


「これは、注射k——」


 言いかけて、はたと口をつぐむ。


(ちょっと待って、ルッツの反応を見る限りこの国には注射器が無いんじゃないかしら⋯⋯?)


 よくよく考えれば病は呪いが原因と考えられ、著しく医療技術の進歩が遅れているエーデルシュタイン王国ではそれも納得の事である。そんな国に住む彼に本当の事を言っても理解を得られるかは分からない。

 それに、聖女と注射器は何ともミスマッチである。


「え、えーっと⋯⋯これは——」


 そう言いながら小夜は頭をフル回転させ、最善手を探る。そうして、導き出した解は冷静に考えてみれば実に頓珍漢とんちんかんなものであった。


「此れは⋯⋯そう、つえ⋯⋯杖よ!!」

「つ、杖!? コレが⋯⋯!?」


 自分で言っていても無理があるとは思ったものの、一度口にした事を撤回する選択肢など無い。

 小夜は元の世界ではそんな事を口に出せば即病院送りにされそうな荒唐無稽こうとうむけいな論——注射器は杖である説を提唱し、大胆にもそれを貫き通す事にした。



「そうよ、何処からどう見ても杖じゃないの!」

「⋯⋯杖、あんたの腕に刺さってるけど」


 この光景にも慣れて来たのだろう、ルッツは目を細めながら言った。


「此れはそういう使い方をするのよ。そして此れこそが私の魔法なの」

「⋯⋯でも、さっきはそんな物使ってなかったよな?」


 ルッツはいぶかしげな視線を向けて来る。彼の言う『さっき』とは恐らく、小夜が出鱈目な呪文を唱えさせられた時の事だろう。

 小夜は深く息を吐き、自らの腕からゆっくりと針を抜いてからルッツに向き直る。


「⋯⋯あの時の事は忘れて。それに、私を召喚した魔女だって持っていたじゃないの。聖女だって杖くらい持つわよ」

「そういうモンなのか⋯⋯?」

「ええ。人間だって同じ人は一人として居ないわ。それは、聖女も同じこと。みんな違ってみんな良いじゃない」


 自分でも信じられない事に、それらしい言い訳が次から次へと口をついて出てきた。ルッツは突然もたらされた大量の情報に混乱しており、困惑顔である。

 そんな彼の様子を見た小夜はあと一押しで丸め込めそうだとほくそ笑んだ。


「聖女なんて伝承上の存在なんでしょう? だったら貴方が知らなくても無理ないわ」

「そう、か⋯⋯」


 ルッツはぎこちなくでは有るが、漸く頷いた。小夜が言いくるめた結果、多少は疑問が残るものの受け入れてくれたようだ。


(勝った⋯⋯!! ルッツが単純で助かったわ!)



 勝利を収めた小夜は次なる目的の為、新たな注射器に手を伸ばす。


「またそんなモン取り出してどうすンだ?」

「此れはね、こう! ブスッと刺して使うのよ! ⋯⋯アンタの腕にね」


 そう言いながらニィッと笑う。


「ひッ、ヒィ!?!?」


 それを見たルッツは引きった声を上げた。赤い髪を振り乱し、逞しい身体をこれでもかという程激しく震わせている。小夜を見る目はまるで出会ったばかりの時のように多分に怯えを含んでいた。

 ルッツは獰猛どうもうな獣と対峙するかのように小夜からは一瞬たりとも目を離さずに一歩、また一歩と後退る。


「慣れればどうって事無い痛みよ。まあ、筋肉注射はそれなりに痛いんだけどね」

「っ⋯⋯!?」


 ルッツは無言で背を向け、扉に向かって走り出そうとする。


「ルッツ~ゥ? 一体何処へ行くつもりなのかしら?」


 小夜は逃げようとするルッツの肩をガシリと掴み、にっこりと微笑む。


「次は貴方の番よ。いいから早く腕を出しなさいっ!」

「~~~~ッ!!」


 太陽が隠れすっかり夜も更けた頃、本部にはルッツの悲痛な叫び声が響き渡ったのだった。







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