憧憬の背中を追いかけて


 黒宮小夜、20歳。家計を支える為看護師として働く母の背中を見て育ち、世界で初めての女性医師——エリザベス・ブラックウェルとその友人でありクリミアの天使と名高いフローレンス・ナイチンゲールに憧れて医の道を志す者である。


 しかし、そんな小夜は此処まで来て人生最大の困難に直面している真っ只中であった。




 詠唱後、気不味い雰囲気に耐え切れなくなったのかルッツはいつの間にか消えていた。

 小夜は一人、銅製の燭台しょくだい蝋燭ロウソクが一本だけ立てられた薄暗い部屋の中、腕を組みながら神妙な面持ちで考え込む。


(——そう。何を隠そう私は⋯⋯注射をした事が無いッ!!)


 小夜はやるせ無い気持ちを打つけるように、勢いよくテーブルに両手を振り下ろす。ダンッと激しい音が室内に木霊こだまし、手のひらにはビリビリと強い痛みが走った。


(私はまだStudent Doctorの資格も取っていないのよ。でも、仕方ないじゃないっ! この資格を取れるのは4年生からなんですもの。対して私はまだ3年生になったばかり。本当は嘆いても如何しようも無い事だって分かってる⋯⋯でも——)


 Student Doctorとは取得すれば、一部の医療行為を指導教員の監督の元で行う事が許される資格の事である。しかしながら、殆どの者が研修医として実際に現場に出るまでは経験する事は無い。


 ペストの治療薬の一つであるストレプトマイシン硫酸塩は筋肉注射により接種するものである為、如何しても注射が必須となる。

 他人の身体に凶器にもなり得る針を刺すのだ、当然ながら失敗は許されない。そして此れは一発本番で如何にかなるものでも無いだろう。

 あまりのプレッシャーから小夜は身体が震え、次第に手足が冷たくなっていくのを感じていた。


(やり方ならよぉく知ってるわ。だって何度も何度も勉強したんですもの。でも⋯⋯識っていても実践経験が無いのなら此処では無知同然よ)


 経験とは何ものにも代え難い財産である。勿論、今まで培って来た知識も尊いものでは有るのだが、今はただ無駄に知識だけを詰め込んだ頭でっかちな自分が無力で、恥ずかしくて堪らなかった。


(正直、経口摂取の薬剤も有るわ。有るのだけれど⋯⋯経口摂取は最も安全な代わりに胃から小腸等の臓器を介するうちに薬量が少なくなってしまうという欠点があるのよね。だから私としては何としても非経口投与をこころみたい。⋯⋯でも、どんなに知識ややる気が有ったとしても研修医どころか私は医者を志すただの医学生。つまりは無免許、まだ孵化ふかもしていない未熟者よ。そんな私に本当に出来るの⋯⋯?)


 追い詰められた小夜は落ち着きを取り戻す為、瞳を閉じて暗闇の中、思考に集中する。


(⋯⋯私は一体如何すれば良いの?)



 小夜が迷った時や落ち込んだ時、そして困難に直面した時——。そんな時、思い出すのは決まってエリザベス・ブラックウェルの残したとされる言葉だった。


 小夜はすうっと細く息を吐き出し、ゆっくりと空気を肺に取り込む。酸素が行き渡り幾分か平静を取り戻した小夜の脳内には、まさに今の状況に打ってつけの言葉が浮かんで来た。

 そらんじられる程に幾度も幾度も指先でなぞり読み込んだそれは、まるで直ぐ近くで囁かれていると錯覚する程に音を伴って鮮明に聴こえて来るようだった。



 ——私は嬉しい。他人ではなく、私が開拓者パイオニアとしてこの仕事をするのだという事が。開拓者になるのは簡単な事ではありません。しかし、それはとても魅力的なものです。私は一瞬、最悪の瞬間でさえ、それを世界の全ての富と交換するつもりはありません。



 小夜の心にぽうっと火が灯る。その熱は胸から腹、四肢へと次第に伝播して行き、気付けば全身が熱くみなぎっていた。


(エリザベスは困難に打つかった時こそ、それを楽しんで乗り越えて来たわ。そうして彼女は未だ誰も成し遂げていなかった女性初の医師という快挙を成し遂げて見せた。先駆者たる彼女のようになりたいのなら私もこんな所で怖気付いている場合では無いわ!)


 気付けば身体の震えは止まっていた。瞳からも怯えはすっかり消え去り、今では確固たる意志を秘めた輝きを放っている。

 心を決めた小夜は椅子から立ち上がった。


(村人達の病状を見るに、残された時間は少ないわ。私は限られた時間、少ない実践の中で最大限の経験値を積まなければならない——)


「故に、私は私自身を実験台モルモットとして使うのよ!!」





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