シャッターチャンス

小池 宮音

第1話

 ベトベトした湿気が肌にまとわりついてイライラが募っていた梅雨が明けた。着る服の厚みと面積が減り、海に行くわけでもないのにSPF値がなるべく高い日焼け止めを、露出した肌に塗りたくる季節。


「ネオワイズ彗星を見に北海道へ行くぞ!」


 高校生の頃からフレームを替えずにレンズだけ交換してきたらしい黒縁眼鏡を押し上げて、聡一そういちが私にそう言ったのは二日前。


 ○○を見に△△へ行くぞ、という聡一の発言は、今に始まったことではなかったので別に全然驚かなかった。またか、と子どもが同じアニメのDVDを何度も繰り返し観るときの感情と一緒で、わたしは文句も言わず「はいはい」と言ってついてきた。この前は日食で、その前は金星と水星。そう、聡一は天体バカなのだ。三度の飯より天体好きで、昼夜問わず天体に何かあると自分の目で確かめなければ気が済まないらしい。これはもう本物の中の本物である。


 ただ不思議なのは、彼女の私も必ずその現場に連れていくことだ。聡一と付き合ってもう二年になるが、初めの頃から○○を見に△△へ行くぞ、と私に声を掛けて一緒に天体ショーを観てきた。本物の中の本物は、大抵一人で行って一人で楽しむものなのではなかろうか。例えば美術館巡りが好きな人とか、電車が好きな人とか、誰にも邪魔されない環境、つまり一人で鑑賞する人が多い気がする。聡一もそういうタイプだと思っていたので、最初誘われた時は戸惑ったものだ。私自身、そんなに天体が好きなわけではない。まぁ天体を一緒に観に行く以外のデートをあまりしていないので、彼にとってはデートの代わりなのかもしれない。ただ普通のデートと違うのは、朝が早すぎることだ。


 時刻は現在夜明け前、午前三時すぎ。飛行機、新幹線、電車を乗り継いでレンタカーを借り、どこかの駐車場で一旦仮眠を取って、聡一に起こされたのが今だ。私にはここがどこだかさっぱり分からない。迷うことなく突き進む聡一に黙ってついてきただけで、実は北海道ではなく海外だと言われても別に驚かない。天体しか見えていない聡一を、全面的に信頼しているのだ。


 北海道に着いた時は陽が沈む前で明るかったのだが、今度は陽が昇る少し前で薄暗い。助手席を倒して寝ていたのでリクライニングを起こすと、目の前に広がる光景に思わず息を呑んだ。


「わぁ、キレイ……!」


 駐車場は高台にあるらしく、北海道の街が一望できた。朝が早いにもかかわらず、赤やオレンジ、青や紫といった電気の灯る色とりどりの夜景が広がっている。あまりにもロマンティックな夜景だったので、思わず聡一に「もしかしてこの夜景を見せにわざわざ北海道まで連れてきたの?」と聞いてしまった。


「え? 違うよ。メインはアレ」


 あっけらかんとそう言った聡一の指差す方向を目で追う。


「え、なにアレ」


 夜景の次に私の目に映ったのは、流れ星より遥かに大きく、そして遥かに滞空時間が長い流星だった。流星なのかアレは? 願い事を三回どころか百回は唱えられそうなほどゆっくりと落ちていて、そこだけ時間の流れが狂っているように思える。


「アレがネオワイズ彗星だよ」

「彗星……」


 暗い夜空に浮かぶ彗星の周りには、豆粒みたいな小さな星がそこかしこに散らばっている。星空なんて何度も見てきているので「キレイ」と呟くことはなくなってしまったが、初めて見る彗星とダイヤモンドみたいにキラキラ輝く星に、「すごい」と感嘆が漏れた。


「車から降りて観よう」


 聡一に言われてまだ車内だったことを思い出した。フロントガラス越しでもあんなにキレイに見えるのに、直接見たらどうなるんだろう。今までにない緊張と興奮が、体の奥底からモクモクと湧いてくる感じがして、ちょっとだけ熱くなった。深呼吸をして車のドアを開ける。


「あれ、いい匂いがする」


 車から降りると、嗅いだことのある香りが鼻腔をくすぐった。クンクンと香りセンサーの細胞をフル動員して香りの正体を掴んだ時、私と聡一の呟きが重なった。


「実家の玄関の匂いがする」

「ラベンダーの香りだ」


 聡一の情緒がないのは、今に始まったことではない。ラベンダーは芳香剤として広く使用されている香りなので、玄関から同じ匂いがしていても何ら不思議ではない。


結衣ゆい、見てよ。ネオワイズ彗星」


 花より天体の聡一は、空に浮かんでいる、うっすらと尾を引く大きなほうき星を指差して私を誘った。仕方ないなぁと鼻でため息を吐いて、私は聡一の隣に並ぶ。


 真上の空は真っ暗で星の絨毯が広がり、少し目を下に向けると白み始めた空に彗星が浮かんでいる。その奥には北海道の街が一望でき、大きな木の葉が風でカサカサと揺れている。下には紫色の絨毯が広がり、呼吸をするたびにハーブの香りが全身を駆ける。星とラベンダーの絨毯で挟まれた私の身体は、魔法にかかったかのようにフワフワと浮かび上がり、空を飛んでいるかのような気分にさせられた。卒業論文と就職活動に疲れていた私の心は、段々と余裕を取り戻してくる。リラックスの最上級に癒されていると、聡一が解説を始めた。


「この彗星、今年の三月にアメリカの観測衛星NEOWISEネオワイズによって発見された新しい彗星なんだ。この彗星、次に見られるのがなんと、6700年後なんだって」

「6700年? へぇ、そんなに貴重な彗星だったの」


 あまりにも未来の話すぎてピンとこない。しかし聡一はその壮大な年月に興奮している様子だった。隣の聡一を見上げると、彼は空に浮かぶほうき星を真っ直ぐ見ていた。その横顔は暗くてはっきりと読み取れないが、目を見開き口元を緩めていることから、天体しか頭にないことが窺えた。


 遠くに見える彗星が流れる音は聞こえない。大きな空から落ちる一筋の光はあまりにも遠くて、そんな遠い光に魅了されている聡一までもが遠くに行ってしまうような気がして、私はそっとその手に触れた。冬でもないのにカサついた皮膚に温かみを感じて、フッと安心する。よかった、ちゃんと隣にいた。


 突然手を握ったからか驚いて私を見下ろす聡一。ずれた黒縁眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた彼と目が合って、急に気恥ずかしくなった。なにしてんの私。付き合い始めのウブ乙女かよ。顔が熱くなる。辺りが暗くてよかった。


 手を離そうとすると、今度は聡一がグッと力を入れてきて、握り返された。


「聡一……?」

「一生に一度も見られないものを、今、俺と結衣は一緒に見てるんだ。周りには誰もいない。誰も同じ景色を見てない。俺と結衣の二人だけ。今この景色を見ているのは、世界中に二人だけなんだ」


 足元に広がるラベンダー畑が風で揺れて、ハーブの香りが二人を包む。似合わない臭いセリフも、天体の前だとスラッと出てくるらしい。


 唐突に今の風景をカメラに収めたいと思った。星空と彗星と夜景と木とラベンダー畑を枠内に収めて、今日のこの日のことを閉じ込めたい。しかし、以前、聡一とこんなやり取りをしたことを思い出した。


『いつも思うけど、聡一は星空とか、見た景色を写真に撮らないの?』

『うーん。一人の時は撮ってたこともある。でも、結衣と見るようになってからは心のシャッターを切るようにした』

『……それってどういう意味?』

『ん? 内緒』


 当時は意味が分からなかった聡一の言葉だったが、今なら分かる気がする。一人で観る天体ショーと二人で観る天体ショー。隣に人がいるかいないかで、見え方が違うのだ。もしこの場に総一がおらず、一人で観ていたとしたら、十年後にはこのラベンダーの香りを思い出せないだろう。だから写真を撮る。写真を撮って部屋に飾ってその日のことを思い出す。でも、隣に聡一がいれば、彼を見るだけでその日の出来事を全身で思い出すのだ。目で見た光景、耳で聴いた音、鼻で感じた香り、口から零れた声。一瞬で全部が蘇る。その証拠に、今まで一緒に見てきた流星群だったり皆既月食だったり、全部を昨日のことのように思い出せる。全部、心のシャッターを切ってきたからだ。


 どうやら私は、天体バカの黒縁眼鏡野郎色にガッツリ染められていたようだ。


 握られた手からはトクトクと心地良いテンポで拍動を感じる。どちらの拍動かは分からないが、なんとなく二人とも同じテンポで刻んでいるんじゃないかな、と思う。


 星空と彗星と夜景と木とラベンダー畑。そして聡一。


 私は心のシャッターを静かに押した。



END.



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シャッターチャンス 小池 宮音 @otobuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ