第23話 ロア、進撃 結末

 ネオンの光が二人を照らす。

 濡れたアスファルト。先ほどまでの光はなく、穏やかな月と卑しい人工の灯りだけが世界を照らす光だ。

 人のいない繁華街は不気味なほどに静かだった。

 雫が落ちる音。次第に増していく音はいつしか世界を満たす音になっていた。

 初めて見る世界だった。

 しかし、ツァラトゥストラに戸惑いは見られない。既に彼は眼前に見据える敵しか見えていない。

 ―――雨は嫌いだ。

 心が沈む感覚は落ち着きにも似ていた。

 魔素がないのか胸の焼ける感覚もなくなっている。体も心なしか軽く感じられた。

 彼は敵だ。

 彼は皆を殺した。

 彼はティファに手を出した。

 心に湧き出る感情の名前を彼は知っている。

 もういいだろう。終わらせるなら早いに越したことはない。


 ツァラトゥストラがアスファルトの大地を駆ける。

 吹き荒れる豪雨の中を駆ける黒い亡霊は感嘆するほどの速さだ。

 十メートルもない距離を詰めたツァラトゥストラはジギタリスの胸にナイフを突き立てる。

 皮を引き裂く感覚。肉を押しのけ、内臓が裂ける感覚が伝わってくる。

 見切れぬのか動かぬ標的は冷たい目で彼を見下ろしていた。

「意味ねぇよ、ここじゃあ俺は殺せない」

 確かに突いたはずの心臓。ナイフ越しに伝わってくる拍動は間違いなく彼の急所のものだ。

 ジギタリスは痛みすらないのか動こうともせず、ただそこに立つだけだった。

 ツァラトゥストラは彼の心臓からナイフを引き抜き距離を取る。

 殺意を向けているはずのツァラトゥストラに対し、ジギタリスは穏やかな表情を見せている。

「少し話そう。お前に俺は殺せねえんだ、それに雨に濡れるのは好きじゃないだろ?」

 そう言って踵を返すジギタリスにツァラトゥストラは呆気に取られる。

 死なないというのなら彼にとっては、かなりいい状況であるはずだ。それなのに彼は敵意すら見せることはない。

 ツァラトゥストラは両腕を降ろし、ジギタリスについていく。


 彼らが入ったのは小さなバーだ。

「何か呑むか?」

 敵同士だというのに彼は偉く警戒心がない。死なないのだから当然だとも思えるが、それにしたって警戒ぐらいはするものだろう。

 ツァラトゥストラは首を横に振る。ジギタリスは肩を竦めるとカウンターの中に入り、酒を漁り始めた。

「お、コニャックがあるじゃねえか、コイツにしよう」

 カウンターの下からグラスを二つ取り出す。コニャックのコルクを引き抜くと、その中身をグラスの1/4ほど注いだ。

 それをただ見ているツァラトゥストラにジギタリスは座れよ、と顎で席を指す。

 ツァラトゥストラは溜息を吐くと渋々彼の指した席を目指す。椅子の上を手で払い、携帯している消毒液を掛けてから席に着いた。

 ジギタリスは彼の前にグラスを置いた。

「いらないって言ったろ?」

「ツレねえな、せっかくのナポレオンだってのに」

 ツァラトゥストラの分のグラスを持ち上げ、自分の鼻先まで持ってくるとそのグラスを揺らす。

 熟成された果実とオーク樽の甘みのある豊潤な香り。保存状態もいいのだろう、色も綺麗な琥珀色をしている。

 一口含むとまろやかな口触りとブドウの皮を食むような濃い味わいを感じられる。喉を通った後も強い風味が残り、その余韻にも高級さが表れていた。

「で、ここはどこだ?」

 つまらなそうな顔で疑問を投げかける。

 居たくもない場所。それも仲間を殺した敵と共にいるというだけで彼にはストレスだろう。それにティファがどうしているかも気になっている。

末那識ブルーム、端的に言えば俺を俺足らしめている自我の具現化だ。俺たちロアにとって存在を確立する核となる場所と言っていい」

 神はロアを作る際にその自我を彼らの核に封じ込めた。

 物語の登場人物たちの性質と人々の物語の印象から形作られた彼らは、その印象を自我として抱えて、性質を能力として持っている。

 故に自我の解放ともいえるこの空間は彼らにとっては自分自身を象徴するものと言ってもいい。

「つまり俺はお前の腹の中も同然ってことか」

「そういうこった、まあ話が終わったら出してやるから安心しろ」

 にこやかに笑うもののツァラトゥストラの警戒心が解かれることはない。相変わらず胡散臭いものを見る目を続ける彼にジギタリスは溜息を吐く。

「まあいいさ、話ってのはフリティルス……いや、ティファだったか? あいつのことさ」

「ティファのことだと?」

「ああ、アイツはロアだ。本来なら俺が最初に見つけて俺が育てる手筈だった」

 だが、そうはならなかった。現実はあの異跡に訪れたツァラトゥストラが彼女と出会い、現在は情報統括局に保護されている。

「どんな理由があろうとティファを渡すつもりはない。例えお前たちの仲間だとしてもだ」

 強い反発の言葉を向けるが、それに対してジギタリスは首を振った。

「やめておけ、その感情はティファの能力によって植え付けられたものだぞ?」

 ジギタリスの言葉にツァラトゥストラは目を見開く。

 ティファは聖異物を体内に内包した人間であるとわかっていた。

 聖異物についてまだはっきりとわかっていないが、存在するだけで特異的な能力を発揮し、世界の法則さえも歪めてしまうこともある。

 彼女の特異性。彼はそれについて知っている。

「ティファは『寵愛』のロアだ。愛されることがアイツの『大罪』なんだよ。お前が抱いている感情は与えられたものでお前の中で目覚めたものじゃない」

 告げられた真実に言葉を失う。

 それは受け入れるには彼の心は少年であり過ぎた。

 彼女に対する愛情も、彼女に注いだ情熱も、その実は偽物を寵愛であった。そこに家族の愛情はなく、あったのは彼女によって植えられた偽の感情であったならば。それは酷い現実だ。

 力なく項垂れるツァラトゥストラに対し、ジギタリスは言葉を続ける。

「あれが子供を姿を取っているのは、その能力の代償みたいなもんだ。小さな子供の方が皆に愛されやすいからそういう風に生まれ落ちたってだけだ」

 疑問がなかったわけではなかった。

 これまで彼はおおよそ愛と呼べる感情を知り得なかった。

 他者に慈愛を向けることなどなかった彼が、自らを父と呼ぶというだけの理由で他者に愛情を向けるだろうか?

 それはあり得ないと言っても過言ではない。

 潔癖な彼は他者が自らに触れられることですら嫌っていた。自らの内に入り込もうする相手からは距離を取り、必要最低限のやり取りしか行ってこなかった彼が初めて守りたいと思った相手がティファだったのだ。

「と言ったところで受け入れられないだろ、だから俺たちの仲間になれ、坊主」

「……は?」

 ジギタリスが彼をここに閉じ込めた理由。

 それはツァラトゥストラの勧誘の為だった。

 別段、彼を連れて帰ることは最初から考えていたわけではない。

 だが、彼がティファを思う気持ちがあるのなら、ロアに与してティファを共に連れて帰る力になってくれるかもしれない。

 今、外に出れば待ち受けているはずのシロウとツァラトゥストラの二人を相手どらねばならないが、その片方を味方に付けられるのであれば、ティファを連れて帰れる可能性も高くなるだろう。

「考えてもみろ。もし、このままティファを守れたとしても、あいつの所為で大勢が死んだとなれば、お前とティファは恨まれる存在となる。だが、俺たちはお前を受け入れられる。神様だって戦力が増えるなら喜んでくれるはずだ」

 ジギタリスの口調に感情が籠る。自分に言い聞かせているかのような焦燥感が口の端から洩れていた。

 ツァラトゥストラは考える。

 今回の件で死んだ局員は多い。その原因の一端が彼らであると知ったならば再び奪還を目指すロアたちの襲撃に恐れを抱き、彼らを追放する恐れもある。

 遅かれ早かれ、情報統括局に彼らの居場所はなくなる。だったらロア側に付いてしまった方がティファの為にもなるだろう。

「そうだな、お前の言う通りかもしれないな……」

 彼の言葉にジギタリスは頬を緩める。

「そうか、なら……、

「それでも、俺はお前たちの仲間にはならない」

 面を上げた少年の顔は真っ直ぐと敵を見定めている。

 ジギタリスの言葉に揺れたはずの彼のその目には覚悟の意思が映っていた。

 彼は選んだ。ならばジギタリスもまた選択するしかあるまい。

「そうか、なら……仕方ないな?」

 鳴り響く銃声。銃を引き抜くと同時にジギタリスは少年の額に向けて弾丸を放つ。

 咄嗟の判断で銃弾を籠手代わりのダガーで弾いたツァラトゥストラは、そのまま立ち上がりワイヤーダガーを射出する。

 ひらりと避けるジギタリスはワイヤーを掴むとそれを引っ張り、ツァラトゥストラの体制を崩しにかかる。

 バランスを崩したツァラ。彼は体制を低くすることでカウンターの下に身を隠し、引きずり込まれるのを阻止した。

 だが、ジギタリスは攻撃の手を緩めることはない。

 三発の銃弾を空中に放つとそれは弧を描いてカウンターの下にいる標的を狙う。

 ツァラトゥストラは床を転がり、銃弾を避ける。

 そして、カウンターの下から飛び出し、ワイヤーを引き戻す勢いでジギタリスに近づく。

 ワイヤーから手を放したジギタリスだが、既に遅かった。彼の左頬にツァラトゥストラの拳が刺さる。

 倒れ込むジギタリス。棚にあった酒瓶も崩れ落ち、彼は酒塗れになった。

 カウンター裏に着地したツァラトゥストラはジギタリスの上に馬乗りになると彼の顔を殴打する。

 ニ、三発入ったところでジギタリスも抵抗し、ツァラトゥストラの髪を掴み、引き寄せて頭突きを喰らわせる。

 よろけたツァラトゥストラを退かし、立ち上がると棚にあった酒瓶で彼の頭を殴る。

 側頭部から血が流れ出すツァラトゥストラ。その目はいまだに標的を見定めている。

「んだよ、その目は……」

 ツァラトゥストラは握りしめた拳をジギタリスに放つ。が、そのまま腕を掴まれてジギタリスの懇親のアッパーがツァラトゥストラを襲った。

 脳が揺れる。視界が歪む。空気を取り込めなくなった肺が悲鳴を上げている。

「立つな。限界のはずだろ、もう立つんじゃねえ!」

 皮の手袋に付いたツァラトゥストラの血。

 限界のはずだ。

 あれほどの戦闘。濃い魔素の中を動き回り、弱った肺。そして、先ほどの一撃。

 動けるはずがない。動けるはずがないのだ。

 しかし、少年は立ち上がる。守るべきものの為に。

「限界? 知らねえよ、そんなもん」

 ツァラトゥストラの拳が再びジギタリスに襲い掛かる。ジギタリスは見切ったとばかりにカウンターの拳を繰り出した。

 が、ツァラトゥストラは身を翻し、左の拳でジギタリスの腹を射抜いた。

 しかし、ジギタリスも負けていない。奥歯を食いしばり、返しの一撃をお見舞いした。

 型もない。ただの殴り合い《ステゴロ》だ。

 沸騰した脳は痛みさえも忘れさせる。

 ジギタリスは末那識をおかげでどれだけ殴られても立っていられる。だが、ツァラトゥストラはそうじゃない。

 彼は殴られれば怪我を負うし、魔素に耐性もない。

 殴り合いが続けば続くほど、彼に勝ち目はない。

「植え付けられた感情? この気持ちが偽物? 知らねえよ。それが偽物だろうが、本物だろうが、ティファが俺に助けを求めたことに変わりはない!」

 握りしめた掌から血が出るほどに強く握られた拳。

 それがジギタリスの側頭部を貫く。そして、体制を崩した彼の顎に左フックが命中した。

 脳震盪を起こしたジギタリスは意識を失って倒れ伏す。

 世界が崩壊を始める。

 空間に亀裂が走り、砕けたガラスの様に世界が砕け散る。


 広がる空。崩壊した施設の一角。

 倒れ伏す敵を前に少年は浅い呼吸を繰り返す。

 ツァラトゥストラはダガーを手に取り、彼に近づいていく。

 敵に馬乗りになり、両の手でダガーを強く握りしめる。

 ジギタリスは意識を取り戻したようだが、まだ脳震盪の影響からか動けずにいた。

「……頭だ、頭をやれ」

 聞き洩らしそうなほどに消えゆく声。その瞳は先ほどまでの殺し合いが嘘かの様に酷く優しい。

 振り上げた凶器を頭蓋に向けて振り下ろす。

 皮膚を貫く感覚。頭蓋を割り、その中身の柔らかい部分を穿つ。切っ先が少し硬い何かを砕いた感覚が手に伝わってきた。

 赤い鮮血がツァラトゥストラの両の手と顔を濡らす。

 消えゆく男の姿を眺めながら、彼は何を思うのだろうか……。

 少年は一つ、大人になった。


 全てを終えた少年は、瓦礫の山を下る。

 そこには自分の娘を抱えた親友が喜びの表情で迎えてくれていた。

「お疲れ、ツァラ。大丈夫かい?」

 少し疲れたような微笑みで親友の問いに答える。

 彼の娘は疲れたのか親友の腕の中で眠っている。その命を狙われて疲れ果てたのだろう。聞けば彼女がジョンを助けてくれたらしい。

 健やかな表情で眠る少女の頭に手を伸ばす。

 赤く濡れたその手で、少年は少女を頭を撫でた。

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