第19話 死生

 まるで汗で張り付くシャツのような不快感。蠢く虫の群れを除く黒い泉の上空で座禅を組む枯れ柳のような男は静かに頭をもたげる。

「……いつまで隠れているおつもりですか?」

 首だけを動かし、背後を見る。

 そこには死んだはずのイヴが佇んでいた。

「意外と勘がいいね、見直したよ」

 わざとらしく驚いて見せるイヴにフリティラリアは目を見開き奥歯を噛む。

「私たちの神はその程度のこと、お見通しですよ」

 再び虫たちがイヴに群がり、その肉を腐らせて食い殺す。

 しかし、次の瞬間にはイヴは何処からか姿を現す。

「前言撤回だ、やはり君はつまらないよ」

 炯炯とした人を射る瞳で退屈を零す。

 イヴが手を前に出すと魔素の光が収束し、彼女の杖となった。

「神の予言は絶対です、その減らず口が閉じるのも、ねッ!!」

 再び虫たちがイヴに襲い掛かる。

 魔素の光で虫たちを焼き払うが、増え続ける虫にすぐ追いつかれる。腕を、足を奪われ、朽ち落ちる。

 だが、死のうとも彼女は直ぐに復活する。何度朽ちようとも死のうともそれに意味はない。

 故に、フリティラリアは彼女を殺すことではなく、無力化することを選択した。

 四肢を奪った虫たちは彼女の体まで喰らうことはせず飛び去っていく。

 が、イヴは迷うことなく、己に魔素の光線を打ち込み自死を選んだ。

「無駄だよ、私は死を恐れない」

 しかし、すぐさまフリティラリアは同じ手を打ってきた。

 足を失い、腕を失った瞬間に、自らに対し光を放つ。が、今度は蟲の大群でイヴを身を守る。

「死なせませんよ、貴女を殺しきるために……」

 矛盾を孕んだ防衛線。生きたまま殺すという彼の戦い。生きる為に死ぬという彼女の戦い。

 骨で覆い、蟲で囲い、魔素の奪い合いを行う。

 フリティラリアは己への攻撃には目もくれず、イヴの身だけを守る。

「無駄です、末那識ブルームの中では私は死なないッ!」

 末那識。ロアの持つ聖異物が発露する異空間。

 その力の本質は、世界に己という存在を確固たるものとする自我である。

 この空間は彼らの力を引き出す舞台であり、その役割を終えるまで演者を守る盾である。

「ここは私の腹の中。貴女がいくら蘇ろうとも、私の攻撃から逃れることはできない」

 不死者同士の戦い。死して蘇ったイヴの体は再び虫達の攻撃によって四肢を奪われ、自死を狙う攻撃は蟲と骨の守りで防がれる。

 そうした攻防を続けるうちに、イヴの攻撃が止んだ。

 地に伏せ、四肢と口から血を流す彼女の目に力はない。

「諦めが尽きましたか?」

 フリティラリアの体に肉が、皮が戻っていく。

「ああ、もう必要なくなった」

 イヴを捨て置いて、フリティラリアは身を翻し、ダアトの下へと向かう。


 世界に亀裂が走る。


 フリティラリアは目を見開き、イヴを見る。

 消えるはずの無い世界が消えていく。彼の驚きもそのはずだ。まだ彼自身は末那識を閉じていないのだから。

 生えそろった手足。破れた衣服までは復元できなかったのか、その白いガラスのような柔肌で彼女は立っている。

 崩れ行く世界。しかし、まだフリティラリアの力は残っている。

 虫たちをけしかけるが、その突撃は空しくも黒い異形の時と同様に彼女に触れることもなく霧散していくのみだ。

「ありえない。私の……私たちの末那識を塗り替えたのか?」

「あぁ、あの世界は君の腹の中と言っていたね、でも、それすらも私の腹の中だったんだよ」

 彼女が死なない理由。ダアトという急所を守るのが彼女一人だった理由。

 フリティラリアが考えなかったそれらの理由が収束していく。

「まさか、ダアトは……?」

 世界の記憶を持つ知恵の実。ありとあらゆる事象を観測し集積する装置。

 その守護者たる彼女の存在がダブって見える。

「そうだ、ダアトは私、そして私を産み出したのはダアトだよ」

 イヴという存在はシステムでしかない。

 ダアトを守護し、ダアトの正常化を図る監視装置。

 故にこの部屋に入った時点でフリティラリアは彼女の腹の中だったのだ。

「読ませてもらったよ、君の記憶。随分と可愛い神様だね、君たちが信仰するのもわかるよ、あぁそれからダアトに何かしようとしてたみたいだけど無駄だよ」

 饒舌に語り始めるイヴ。

 悔し気に奥歯を噛みしめるフリティラリアと対比的に彼女は少女のような笑みを浮かべている。

「……関係ない、私の末那識が解放された時点でダアトへの侵食は始まっている。後は私自身が起爆装置になればいいだけのこと!」

 フリティラリアは駆けだす。指先一つ触れるだけで彼らの目的は遂行されるのだ。

 最早、彼の生死は彼の勘定の外にある。

「はぁ……やっぱつまらないな、君は」

 光がフリティラリアの足を貫く。よろける体を粘液の異形に運ばせてダアトを目指す。

「君は、怪物の定義をというものを知っているか?」

 イヴはゆっくりと歩きながらダアトへ向かう敵へと話しかける。

「一つ、怪物は正体不明でなくてはならない。未知こそ恐怖の根源だからだ」

 降り注ぐ光の柱。それらが彼の腕を、足を奪っていく。

 それでもフリティラリアは手を伸ばす。残された左手をダアトへと伸ばす。

「一つ、怪物は言葉を話してはならない。理解不能こそ恐怖の体現だからだ」

 フリティラリアの手がダアトに触れる。

 沈黙するダアトにフリティラリアは目を見開き、後ろから迫る白い監視者の方を向く。その表情は怯えた小動物のそれだった。

「一つ、怪物は恐怖してはならない。君は全てにおいて落第だよ、フリティラリア」

 巨大な光の柱がフリティラリアに降り注ぐ。

 彼の肉片も、骨も、聖異物も、全てを焼き払う光の柱。

 イヴは興味もなさげに身を翻す。壊れた司令室を見て彼女はただ深く息を吐いた。

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