花は私
小池 宮音
第1話
酔いそうなほどの甘い匂いが嗅覚を刺激したので、私は思わず顔をしかめた。反対に、隣の
今日、この神代植物公園に来ようと誘ったのは私だった。別に花を愛でに来たかった訳ではない。成吾とデートがしたかっただけだ。交際期間はもう少しで二年になるけれど、彼は何も考えていないのだろう。いや、何も考えていないというのは語弊がある。写真の構図は考えているけれど、彼女の私のことは何も考えていない、と言い換えよう。
「おおお、いいね。いい写真が撮れそうだ」
成吾はお腹を空かせた猛獣のように舌なめずりをし、立派なカメラを花に向け始めた。ここは植物公園内のバラ園で、旬を迎えた色とりどりの秋バラが一面を覆いつくしている。バラの見頃は春と秋の年に二回で、秋の方が匂いが濃厚らしい。なるほどだから酔いそうなんだ、と一人納得した。
色々な角度から写真を撮る成吾の表情は、彼女の私に向ける表情とまるで違う。今にも顔から溶けてしまいそうなほど恍惚としていて、被写体に対し目いっぱいの愛情を捧げている。対する私には一瞥もくれず、存在自体を忘れられているようだ。実際に忘れているのだろう。今に始まったことではない。
成吾は写真撮影が趣味だった。写真コンクールでも何度か入賞しているので趣味の域は超えているが、本職ではないので分類的には趣味だろう。被写体は主に花とか物とか意思を持たないモノで、人物や動物を撮ることはない。何故かと問えば「動くから」と至極短い理由で片付けられたが、要するにジッとしているモノでないと撮れないらしい。
「君は何て名前? 『うらら』っていうのか。綺麗だね」
花に話しかけながらパシャパシャとシャッターを切っていく成吾。撮られているバラは凛と立って「美しく撮ってよ」と言わんばかりに花びらを広げている。あっちのバラもこっちのバラも、成吾に撮られるのを今か今かと待っているように見えて、私は下唇を噛んだ。
花を撮っている時は「花になりたい」と思い、モノを撮っている時はその「モノになりたい」と強く思う。彼に愛でられる子たちが、ただ羨ましく、妬ましい。喋りもしない彼女もしくは彼に嫉妬してどうするんだという感じだが、実際に妬いているのだから仕方がない。私は成吾が思うよりも成吾が好きなのだ。
告白をしたのも、交際を申し込んだのも、デートに誘うのも、私ばかり。成吾はいつだって受け身で、私の言うことに「ノー」と言わないイエスマンだ。だから多分、「別れよう」と言っても二つ返事で「イエス」と答えるだろう。そもそも私たちは本当に恋人同士なのだろうか。私が一方的に恋人だと思っているだけで、成吾は恋人ごっこをしているのではないか。だから私は、思い切って聞いた。
「ねぇ成吾。私とそのバラ、どっちが大事?」
「今はバラだよ。君はいつも一緒だけど、このバラは今しか撮れないからね」
間髪入れずに返ってきた言葉に、目の前が暗くなった。バラの香りが否応なく胸に入ってきて、風で揺れる花はまるで私のことをクスクスと笑っているようだ。
近くにある噴水の水の出が、少し多くなった。バシャバシャと音を立てるそれは、私の想いを汲み上げているようで、私の中の何かがゴゴゴ、と音を立てた。それはまるで噴火する前の地響きのような、沸騰する前の電気ポッドのような、とにかく何かが湧きあがる気配で、もう自分では抑えられない。腹の底からドロッとした黒い物と一緒に口から言葉が出た。
「いつも一緒? 髪は切ったしメイクも変えたし服だって新しいのに、一緒なの? 私ばっかりが成吾のこと好きなの、もう疲れた。成吾も好きでもない人と一緒にいるの、疲れるでしょ。別れよっか。今までありがとうさようなら」
一方的に捲し立てて私は成吾に背を向けた。そのままバラ園を離れ、植物園を出ようと歩を進める。
手首を掴まれて「待って」と言われないかと期待した。後ろから抱き締められて「愛してる」と囁いてくれれば、全部許すのに。でもそうしないのが成吾で、現実だ。ゆっくり歩いても成吾が来る気配もなく、無言の肯定なのだと悟った。「ノー」と言わない成吾はとうとう「イエス」も言わなくなってしまった。
成吾にとって私は、一体何だったのだろう。二年も恋人だったのに、最後まで私には分からなかった。沸々と湧きあがるものが怒りだと気付いた時には、頬に雫が流れて顎からポタリと落ちた。ポタリ、ポタポタ。すれ違う人達がチラチラと私を見て気にしているが、気にして欲しいのはあんたたちじゃない。私を見て欲しいのはただ一人だけ。
ズンズン進むが、一向に出口が見えない。私の行く手を阻むようにオレンジ色に染まり始めた木の葉が頭上でカサカサと音を立てる。カバンからハンカチを取り出して化粧が落ちないようそっと目元を拭うと、分かれ道が現れた。右に行く道と左に行く道。ここを間違えれば一生外に出られない気がして、立ち止まってしまった。後ろから手を繋いだカップルが楽しそうに会話をしながら私を追い越して行く。私は一体どこから来てどこへ帰って行けばいいのだろう。何から間違えて何が正解だったのか。今までの時間は無駄だったのだろうか。そんなことも今は分からない。
「やっぱり迷子になってる」
振り返らずとも聞いただけで分かる声が背中に掛けられた。お腹の奥底から喉まで一気に感情が沸きあがってくる気配がして、グッと両手に力を込める。泣き虫で面倒臭い女だなんて、思われたくない。
「ごめん
スマートフォンを差し出されて、手に取る。画面には「『僕の好きなもの』写真コンテスト結果発表」という文字が踊り、下にスクロールすると「最優秀賞『花と君』加藤成吾」の文字の下に一枚の写真が添えられていた。
「成吾、これ……」
「うん。言葉では上手く伝えられないから、写真で伝えようと思って」
人物は撮らないはずだったのに、その写真には私の横顔が写っていた。ピンクのバラの花に鼻を近付けて香りを嗅ぐ私。フォーカスは私とバラに当てられ、背景の緑はぼやけている。いつ撮影したんだろうと考えて、そういえば春にもここに来たことを思い出した。
「僕にとって紗耶香は、光なんだ。覚えてる? 妹の友だちとして僕の家に遊びに来た時、引きこもっていた僕を外に連れ出してくれたこと。そこから僕の世界は色を付けたんだ。空の青さもバラの美しさも教えてくれたのは紗耶香で、喜怒哀楽がハッキリしてる君が眩しくて仕方がない。そんな君の隣に並ぶには結果を出さないといけない気がして、焦ってた。僕は紗耶香を見てないんじゃない。紗耶香しか見てないんだ」
真っ直ぐ目を見て話してくれる成吾の言葉に、偽りなど微塵も感じられない。そもそもこんなにたくさんの言葉を私にくれたことなんて、今まであっただろうか。
成吾の首から下げられているカメラが目に入る。鏡筒部分にはキャップが付けられているので、これ以上撮影はしないのだろう。「花を撮らないなら私を撮って」という言葉が口から出かけたが、唇を引き結んで腹の底に仕舞い込んだ。その代わりに、カサつく成吾の手を取って微笑みかける。
「花と私、どっちが大事?」
「今は紗耶香。お腹空かない? 蕎麦でも食べに行こう」
バラを撮影していた時と同じ顔で、私を見る成吾。あぁ、なんて私は単純なのだろう。さっきまで路頭に迷ったような気持ちだったのに、優先順位が入れ替わっただけで目の前に進むべき道が見える。
植物園を出るまでにいくつかの花と目が合った。花の名前に興味はない。隣を歩く成吾がそれらに一瞥もくれず、私だけを見て話しかけている。
優越感に浸りながら、私は植物公園を後にした。
END.
花は私 小池 宮音 @otobuki
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