第5話

 硬直するアンリエッタの目の前で、勝負はあっけなくついた。


 カイはナイフの刃の根に剣を合わせると、手首をわずかに反しただけでそれを弾き飛ばす。

 第2王子は憎悪に顔を歪めると、呪詛を吐きながら新たなナイフを胸元から取り出し、カイへと振りかぶった。

 あっさりとそれを避けると、カイは剣の柄を握る手で、斜め後ろから彼の後頭へと衝撃を加える。それから色の褪せたカーテンを乱暴に引きちぎり、呻き声もなく床に倒れ伏す彼を括り上げた。


(いつの間にこんなに……)

 キーンを含めた近衛騎士たちに教わって、側役のアンリエッタはカイとずっと一緒に剣術の稽古をしてきた。だが、彼の動きは記憶よりはるかにレベルが高い。簡単に第2王子を制圧したカイを見ながら、アンリエッタは呆然とする。

 第2王子の身を引き起こし、険しい顔で彼の状態を確認しているカイを見ているうちに、自分の腕で自分の体を抱きしめていることに気付く。そして顔を歪めた。

(……情けない。それに引き換え、あの程度のことで動けなくなったなんて)


「……」

 カイが顔を上げて、視線が交わった。

 ――……まずい。

 慌てて上着を胸元でかき合わせて、顔を彼から背ける。

「……アンリエッタ」

「っ」

 けれど、誰のものより馴染みのある声に名を呼ばれて、目頭が勝手に熱を持った。


(しっかりしなさいよ、この上まだ醜態を見せる気……?)

 そう自分を叱咤してみるのに、視界が滲んでいく。雫だけは絶対に落としたくなくて、瞬きを必死で堪えていたのに、カイが目の前まで来たことで、結局その堤は決壊した。

「アンリエッタ」

 水が頬を湿らせ始めた感触に、せめてカイにだけは悟られまいと顔を俯ける。

(どう、しよう、ほんとに情けない……)

「悪い、遅くなった」

「……っ」

「痛かったか」

 肩と腰に手が触れた。引き寄せられて、その胸の中に収められる。昔は当たり前だった優しい響きの声と体温、香りに、そっと首の傷を確かめる仕草に、唇がわななき始める。

「……アンリエッタ」

 小さく、小さく、耳元で響く囁きに胸が震えた。

(こんな時だけ、名前、呼ばないでよ)

「……っ」

 宥めるように背を撫でられて、きつく合わせていた唇が開いてしまう。

 絶対わざとやっている、そう知っているのに――

「…………カイ」

 もう呼ばないと決めているのに、決めていたのに、震える唇の合間から勝手に音が漏れた。

「……うん」

 自分の耳にすら届かないほどの声であっても、昔から彼は逃さない。そう知っているから余計危険だと思うのに抗えない。

「もっと……もっと呼んで」

 背に回された腕に力が入って、さらに涙腺が壊れた。

「カイ……」

「アンリエッタ……」

(ダメなのに、こんな風にしちゃもういけないのに……)

 肩を押され、アンリエッタの全身を包んでいた熱が離れた。生じた距離の間に温い空気が緩やかに入り込み、両手で頬を押さえられる。

「……」

 何度も何度も見つめた紫の瞳にまっすぐ捕らえられて、呼吸を止めて――


「でんかー、アンリエッター」


「「っ」」

 間延びしたアゾットの声に2人同時に硬直すると、アンリエッタは瞬時にカ…………王子を突き飛ばした。



* * *



「馬鹿アンリ」

「アンリエッタ!」

 周囲にはアゾットと彼直属の近衛騎士5名、諜報を専門とする第9部隊が10名ほど。残りの騎士たちは少し遅れて第2王子を護送してくるはずだ。


 地面に降り積もった赤や黄の落ち葉を、皆が乗る馬の蹄が踏む。乾いた音が足元から絶え間なく響いてくる。


「どっちにしたって、馬鹿がつくのには変わりないだろう。あっさり敵にひっかかって、薬まで嗅がされて」

「し、仕方ないでしょうっ? じゃなくて、不可抗力ですっ、10かそこらの侍女がそんなことをするなんて」

「思え――“人を信じるの。でも疑いもちょーっとだけ持っておくの。相手がこっちを騙す気だった場合、逆に油断させられるから”が口癖のくせに。しかも見事に眠りこけて易々と連れ去られるなんて、馬鹿以外のなんだって言うんだ」

「っ、馬鹿はお互い様でしょ! そもそも第2王子はそっちがわざと逃がして亡命させるって話だったじゃないっ。なんで見失ってるのよ? おかげでこっちはいい迷惑よっ」

「見失ったのは俺じゃない。だから馬鹿はそいつとアンリであって俺じゃない」

「ぐっ」

 呻き声を上げて馬の首に顔を突っ伏した第9の例の人物を横目に、アンリエッタは隣り合う馬上で王子と刺々しい視線を交わす。

(なんなのよ、ちょっと感動したのにっ、見直したのにっ、心まで悪魔になりきった訳じゃなかったのねってちょっと安心したのにっ)


「まあまあ、殿下。よかったじゃないですか、アンリエッタが無事で」

 2人の前にいるアゾットが、ひょいっと顔をこちらに向けた。カイはその彼に苦虫を噛み潰したような顔を返す。

(……気に入らない顔。昔はこんなことがあった時、泣きそうな顔で駆け寄ってきたくせに。それで「大丈夫よ」って言ってあげたら、実際に泣いたのよ、めっちゃくちゃ可愛かったの! ああ、もう11年の年月、最悪!)

「いなくなったと聞くなり真っ青になって、人が止めるのも聞かずに走り出した甲斐があったってものでしょー?」

「……え?」

「アゾット!」

 思わず横の王子を見れば、さっと顔を背けた。

 銀色の髪がその動きに応じてさらりと流れ、横顔を隠してしまう。

 でも淡い色だから――その合間に見え隠れする耳朶がうすく染まっているのが分かった。


(……へえ、ふーん、そう)

 アンリエッタがつい目元を緩めてしまったのは、嬉しいからとかじゃない。

「怒鳴りつけた1隊にもちゃんとフォローしてくださいよ」

「黙れ、アゾット」

 ちらりとアンリエッタを見た王子が、慌ててまた目を逸らす。

(ふーん、なるほどねえ)

 口角を思わず上げてしまったのも、喜んでいるからじゃない。この根性悪詐欺王子に仕返しする材料が出来たから、それだけだ。


「そうですか、そんなにご心配くださったのですか……。つまり、執務補佐官たる私の価値にようやくお気づきくださった、と――感無量です。まあ、自分で言うのもなんですが、これほど有能なのですもの、いなくなったら“そりゃあ”お困りになりますよね、殿下?」

(ふふふふ、いやっそーな顔したわね、万歳! アゾット、この顔に免じてこないだの件、許してあげるわ!)

「もちろん、“それ相応の態度を見せないと逃げられるかもしれませんよ”などの不遜、殿下の忠実な僕たる私が口にしようはずもございません。ですが! “目に見える形で来月の15日の給料日を迎えられるはず!”と思うことぐらいは、儚い自由の範囲ですよね?」

 ――さあ、これ以上からかわれたくなかったら、給料をとっとと上げなさい。

 刺し殺しそうな目で睨んでくる王子に、アンリエッタは含み笑いを返す。

 もちろん怖くなんてない。その目つきの意味だって当然知っているのだ。耳がまだ赤いことにも気付いている。

「……ニヤニヤ笑うな、ただでさえ馬鹿面なのに余計間抜けに見える」

「っ」

(っ、くぅーっ、たっのしーっ!! 甘いわね、今更不機嫌な顔したからって怯むような間柄だとでも思ってるわけ? これ、これなの! これなのよ!! こんな思いが出来るなら、相場より1,000ソルド低くたって許してあげるわと思わなくもない私って、世界一寛容で気前のいい女だと思うの、お母さん!)


「……」

 王子が不意に真顔になった。そのまま無言で見つめられて、アンリエッタは含み笑いをひっこめる。急に居心地が悪くなってくる。

「王太子ともあろう者がなぜ間抜けな補佐官をわざわざ助けに行ったと思う、アンリエッタ」

「……まさかとは思いますが」

 お母さん、甘かったわ、とアンリエッタは顔を引きつらせる。

「いたいけなくてか弱い身の上でありながら、涙ぐましいまでに献身的な執務補佐官を助けたことを恩に着せようだなんて、“まさか”なさりませんわよね? ご高潔で知られた王太子殿下の御名に傷がつきますもの」

 その顔のまま、「ふふふふ」と笑ってみると、まるで鏡を見ているかのように、王子も引きつった顔で「ふふふふ」と笑い返してくる。


「いたいけないにか弱い、献身的……言葉の意味を1度調べ直してみる必要があるんじゃないか、アンリ?」

「アンリエッタ!……です、殿下。可愛らしくていじらしい、いかにも弱弱しくて、自分を犠牲にしてまで世の為人の為に尽くす――まさに私のためのような言葉の数々かと」

「随分と幸せな頭だな」

「それぐらいでなくては殿下の執務補佐官などという、忌々し……光栄な仕事、務まりませんの」

「「……うふふふふ」」

 にっこり微笑み合っていながら、仮面の下の本音が手にとるように分かる付き合いの長さ――これで泣けるんじゃなかったら、他になにで泣けると言うのか。



 ねえ、ルーディ、……って、色んなことがあったせいか、なんだか久しぶりな気がするわね。

 ところで姉さんね、最近色んな瘴気に当てられて、朝露光る健全な農園が似合いそうにないレベルまで堕ちてしまった気がしているの。

 ああ、でも泣かないで。姉さん成長することにしたのよ、いつまでもこの悪魔のペースに付き合っていたら、きりがないっていい加減学習したの。今回のこともいいきっかけ。

 ええ、頑張るわ――落穂をせっせと拾う、慎ましやかな乙女の純情を取り戻すために!

 なんせその第1歩として、とにかく見ない振り・気付かない振りで色々やり過ごして、さっさと給料アップを勝ち取ることにするから!



「それはそうと大事なことを忘れていたんだが、アンリ」

「アンリエッタ! ……です。脳に何か起きると、物忘れが激しくなることや性格がどうっしようもなく!悪くなることがあるそうですから、お医者様をお呼びしましょうか」

 にっこり笑う悪魔のコメカミにたった青筋、これこそが今日の私の成長の証。

 ――さあ、いつまでもやられていたりはしないのよ? これをきっかけに平穏無事に穏やかに日々を乗り切……、

「俺を無駄に働かせた罰で、減給1,000ソルド」

「っ、れるかっ!」

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