第4話
首筋に当たっているナイフの刃は、もう完全にアンリエッタの体温に同化している。微かな動きに応じて、それがちくりとした感覚を脳に運んできた。だが、そんな痛みすら、目の前の出来事が現であるとアンリエッタに認識させてくれない。
後頭部にある右手がうごめき、親指が頬に触れた。嫌悪に顔を歪めたのに、髪をぐしゃぐしゃに巻き込みつつ、無遠慮にそこを撫でまわされる。
――脳裏に浮かんだのは、おざなりな振りをして差し出されるのに、いつも神経質なほどの気遣いを隠している手。
その手が頬から離れ、上着のボタンをはずしていく。白いシャツの隙間から覗く鎖骨に、白くて細い指が押し付けられた。おもちゃを見るかのような無機質な目に鳥肌が立つ。
――意地悪に笑ったかと思うと、次の瞬間に優しく弧を描く不思議な目。
「……っ」
何かを確かめるように、鎖骨と首筋を数度往復した後、冷たいその手はアンリエッタの顎をとらえた。その拍子に逆の首筋に痛みが走る。
――口では無茶苦茶言うのに、まるで壊れ物を扱うように優しく触れる仕草。
唇が近づいてくる。視界に入るのは金の髪で、その合間から覗く瞳は――水の色。
――チガウ、アノイロジャナイ
違和感に知らず顔が歪んで、失われていた声と動きがわずかに戻った。
「い、や……」
だって違う、この色じゃない――。
「知った話じゃない」
「……っ」
ひどく似た声なのに、紡がれる内容は似ても似つかない。
必死で顔を逸らしたのに、痛いほどの力で再び正面に戻された。触れるか触れないかの距離にまで寄せられる唇の気配に、アンリエッタはぎゅっと目を瞑った。
(嫌、本当に嫌、でも、もうここまで来たら……)
吐息を感じた瞬間。ぐっと首に力を入れると、アンリエッタは自らそこへと唇を寄せた。
(人の思い通りになるなんて冗談じゃない、私の行動は私が決める――)
微かに感じる柔らかい下唇。決意したものの、その感触に眉が寄る。
(ままよ――)
そして心の中で気合を入れると、それを思いっきり噛んだ。
「っ!?」
行儀悪く唾液を吐き出すのと同時に、仰け反った第2王子を渾身の力で突き飛ばす。
よろめいた彼へと一歩距離を詰めると、側頭部目掛けて右足を蹴り出す。ミートポイントが少しずれたが、それでも彼は声を漏らしながら床へと倒れた。それに内心でよしっと叫んで、震える膝を叱咤し、一気にドアへと走る。
ナイフの刃で首筋が少し切れたけど、問題ない。命があればそれでよし。意の染まない他人に意のままにされる屈辱に比べたら、傷なんて全然構わない。
内鍵を開け、ドアノブを回して体当たりする。ガチャガチャと大きな音を立てるのに、手が震えてしまっているせいなのか、なかなか開かない。
(ああ、馬鹿、焦ったら余計時間を食うのに)
「っ」
自身に歯ぎしりする間に、後ろで呻いていた第2王子が起き上がった。こちらを嘲う気配に、血の気を失う。
「閉じたら外からも鍵をかかる仕組みにしておいたから」
「……っ」
口から流れ出た血を無表情に袖で拭いながら、ゆっくり第2王子が近寄ってくる。
(嫌っ、絶対に嫌っ)
アンリエッタは半狂乱になりながら、扉に体当たりを繰り返す。
「――逃がさない」
「っ」
後ろから肩を掴まれ、引き寄せられる。
(い、や……っ、いやだ! いやだったら!!)
引きずられて、遠ざかっていくドアを絶望と共に眺めながら、頭に浮かんだのはやっぱり同じ姿。
銀色の髪の間で輝く奇麗な紫。
長い腕をこちらへと伸ばしてくる姿。
目が合ってゆっくり笑って、『アンリエッタ』と名前を――
「アンリエッタ」
「っ、気安く呼ばないでっ」
殴りつけてやろうと振り上げた右腕は、けれどあえなく捕らえられた。それが悔しくて不覚にも涙が滲んでくる。
そのまま身動ぎどころか、呼吸もままならない強さで抱きしめられると、至近から血の香りが漂ってきて吐き気を覚えた。
ベッドへと突き倒され、首筋にぬるりとした感触が落ちる。
「っ」
悲鳴が勝手に口から漏れ出そうになるのを、何とか飲み込んだ。そんな真似はこの状況を認めているみたいで嫌だ。死んでもしてやらない。
(だって悔しい、こんなのは嫌っ)
そう思って、手足を動かせるだけ振り回して、抵抗する。
「いい加減諦めたらいいのに」
けれど、揶揄を含んだ声と共になんなく腕を、体を押さえつけられた。それこそが腹立たしい。
「お、大きなお世話よっ」
震え出そうとする体を泣きそうになりながら叱咤して、逃れようと身をよじる。
「……っ」
その拍子に視界に入ったのは、ベッドに広がった自分の銀色の髪。
一緒に手を繋いで寝た翌朝、絡まるように広がっていたのと同じ色の――それに何かが音を立てて切れた。
「っ、馬鹿っ、役立たずっ!」
困ってんのよ、あんたのせいよっ。あんなにこんなとこ出て行きたいって、農業したいって言ったのに!
「悪魔っ! 人でなしっ! ケチっ!」
他にも言いたいことなんて山ほどあるのよっ。あんたが性格よかったら、今頃私は農園で草むしりを謳歌していたのよっ、全部あんたのせいっ!
「う、嘘つきっ! 嘘つきーっ!!」
『アンリエッタ1人でそんな目に遭うことはない。ずっと側にいるんだから……どんな危険だって一緒に、だろう?』
約束したくせにっ、側にいるって言ったくせにっ、嘘つきっ!
「…………?」
不意に第2王子の動きが止まった。チャンスと思って彼を見上げた瞬間、
「そう……この状況で罵る相手すら、あいつ、なの……」
ひどく暗澹とした声が全身へと絡みつき、アンリエッタは凍りついた。
「っ」
瞳に宿る狂気の色が一層色濃くなった。次いで、腕を締め付ける手がぎりぎりと力を増した。痛みに顔を歪める。
「……気が変わった。これ以上無いくらいに弄ってボロボロにしてあげる」
――そうすれば、恐怖と怨嗟で僕のことしか考えられなくなる……。
耳元での囁きと、無遠慮に落とされる胸の痛みに総毛立ち、一切の理性がかき消えた。
駄目だと知っているはずなのに、勝手に唇が開く。
「……カ」
引き返せなくなると知っているはずなのに、口がこれまでの人生で1番たくさん呼んだ名の最初の音を形作る。
――約束、したじゃない、ちゃんと、ちゃんと側にいてよ……っ。
「……っ、カイっっ!!」
直後にドアが悲鳴を立てて吹っ飛んだ。
「っ!?」
「……」
拘束が緩んで顔を向けた先、視界に入ったのは、見たこともないくらい鋭く研ぎ澄まされた紫の瞳。そこに宿った苛烈な色に息をのむ。
「カイエ……っ!」
ざっと音を立てて動いたその瞳の主が、アンリエッタを拘束していた腕の主をすさまじい勢いで殴り飛ばす。
「……」
長くて細いさらさらの銀がやっとその動きに追いつき、追い越して、ベッドに倒れたままのアンリエッタの顔にゆっくりと舞い落ちた。
「…………カイ?」
(……本当に? 本当に、本物……?)
激怒を含んだまま第2王子へと向けられている紫玉を下から見上げる。1回の瞬きの後、その瞳は全く違う色を湛えて、アンリエッタを見た。
「……っ」
(本物――)
固まっていた身体が動きを取り戻す。
「っ、カイっ、……カイっ!!」
腕を伸ばし、目の前の胸に縋りつく。
「アンリエッタ……っ」
間違いのない声と共に、幼い頃から馴染んだ仕草で抱きしめられて、ポロポロと涙が溢れ出す。
「なんで……いつもカイエンフォールなんだ」
「っ」
強い憎悪を含んだ声にびくりと身体が震えた。
(そう、だった……まだ何も終わってない……)
しかも1拍後には目の前の体温が遠のいてしまう。
「……」
失われた熱と第2王子を睨むカイの険しい顔に不安を覚えて、思わずその顔を見つめると、再び視線が絡んだ。
『大丈夫だよ』
昔そう口にした時と変わらない形に、彼の目元が一瞬だけ緩んだ。自分でもおかしいんじゃないかと思うぐらいの安堵を覚える。そして、肩を押されるままにカイの背後へと回された。
「王位も周囲の関心も何もかも手にして……。1つぐらい失ったって構わないだろう……っ」
カイの背の向こうに、ナイフを手に第2王子がゆらりと立ち上がるのが見えた。それに応じてカイが腰の剣を引き抜く。
「生憎だな――その1つがなきゃ、全部意味がなくなるんだ」
カイはその第2王子へと、どこか自嘲を含んだ声で小さく応じる。そして、ナイフの切っ先をこちらに向けてきた彼へと切りかかった。
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