第3話

「あん、りえった、すたふぉー、ど……」

 ……うふ、ふふふふふふ、直感万歳、やっぱり聞かないほうがよかったわ。素直に従わなかった私が馬鹿だった、ほんと反省しなきゃー。

 ……って、そうじゃない、そうじゃないでしょ、逃避してる場合じゃないの……っ、意識をここに戻して現実に向き合うのよ、アンリエッタ。

 さあ、深呼吸して――


「き、聞いた覚えがあるような、ないような名前ですね!」


 ……なによ、うるさいわね、いいのよ、私の頭がそうしたくないと言っているの……っ。それぐらいの逃避は許してよ! もちろん、水色の瞳から視線を逸らしたままよ。だって、気分はすっかり『猿と出会ったら、目を見つめてはいけない』っていうあれなのよ!


「君のことだ」

(す、素で答えられた……余計怖いーっ)

 真顔のまま真正面から見つめてくるリエン王子に引きつった笑いを見せつつ、アンリエッタは冷や汗を流す。


「で、でしたっけ? となると、望んでいただく価値はないかなーなんて。ほら、私、庶民的と言えばいいけど、粗野で粗暴だって皆さん仰っていますし、骨と皮と筋ばかりで、美しくもなければ、美味しくもなさそう!」

 自虐大歓迎! 後で枕でも何でも涙で濡らしてやるわっ、それで現実助かるなら万歳よっ。

「ねえ? あははは、は……」

と笑い飛ばせたなら、どれだけよかったかしら……? 


「……美味しい?」

 様子を窺おうと、首を傾げた第2王子もとい変態の顔にチラッと焦点を合わせば、悪寒が否応なしに増した。

「それも悪くないね、そうすれば完全に僕のものになる……」

「!!」

 そ、そそそそう反応する? って、文字通り『喰らう』っていう選択肢もありうるってことっ!? しかもなに、その“うっとり”って声は!? 場を和ませようっていう捨て身の冗談だったのにっ、いやーっ、目が笑ってない、この人!


(もうやば過ぎ、変態ばっかり! とっととこんなとこ出てってや……)

「……?」

 再び現実逃避してしまった一瞬の間に、第二王子の手が下顎に触れ、顔を持ち上げられた。

「……」

(こ、これは……ひょ、ひょっとしなくても……)

 近づいてくる表情の浮かんでいない顔に、全身を総毛立たせた。

 ゴクリと唾を飲み込んでみたものの、顔から血の気が失せた自覚なら嫌というほどある。

「アンリエッタ」

「っ」

 違う色の瞳に似た声で名を呼ばれて、身震いした。

(名前を呼ぶな!……もそうだけど、嫌ー、絶対嫌ーっ! 理性・取引・生命の危機云々全て越えて生理的に嫌ーっ!!) 

「り、理由、理由をお聞かせいただけますか? ほら、やっぱり無理やりより、ムードと合意がある方が!」

 この状況でムードも合意も絶対に覚えないとは思うけど、そこはそれ、嘘も方便というもの。アンリエッタは壁にめり込まんばかりの力で、リエン王子から距離をとる。せいぜい指一本分ぐらいしか遠ざからなかったが、ゼロより断然ましだ。

(決死で必死に頑張れ、私! とりあえずこの場を和ませて、ドアを蹴破ってでも外へ出ればきっと……)


 突然眼前の第2王子が目を不機嫌に細めた。

「時間を稼いでも、カイエンフォールは来ないよ」

「っ」

 頭がすっと冷えた。意図に反して声が低くなる。

「何のことでしょう」

 ――違う。

「その反応、やっぱり図星、だった?」

「何を仰っているのか、私にはさっぱり」

 相手の機嫌をとろうなんて考えをすっかり忘れて、アンリエッタは第2王子を睨み付けた。

(違う。私はカイ、王子を待っていたりしない。王子の危急は私のそれでも、私のそれは彼のじゃない。私は自分のことは自分でするの。これまでもそうしてきたし、この先もそう――)

 ナイフの存在もその刃が首にもたらしている微かな痛みも、途端に意識から消えた。


「――皆、カイエンフォールだ」

 けれど、視線だけで殺してやろうとまで思っているそのアンリエッタを、第2王子は真っ直ぐ見返してきた。そこに宿る激情に再び息をのむ。

「2ヶ月先に生まれただけで、第1王子。父の関心も大陸一と呼ばれる賢者も全て彼のもの。母も宮殿の者も城下の者も皆、僕には無関心」

「っ」

 顎を押さえていた親指が首筋を辿る。冷たいその指の感触に思考が再びまとまらなくなる。

「君だけだ。アンリエッタ、君だけが僕に微笑みかけた」

「え……」 

 思いもかけない台詞に、第2王子の人形のように整った顔を改めて凝視した瞬間、白い頬に似つかわしくない薄い傷あとを見つけた。

(……この縦傷……)

 不意に何かが記憶を掠める――あの日、怪我をしていたのにやはり表情1つ変えなかった男の子。

「あなた……」

 その面影が目の前の能面に重なった。



 木登りして大ぶりの梢の上で林檎をかじっていたアンリエッタを、ぼうっと見上げていた金色の髪の子だ。

『なあに? あなたも木登りするの?』

 怪訝に思って声をかけたら、その子は無言のまま同じ木に登ってきた。

『下手くそねー。違うわよ、そっち、そっちの枝に右足をかけるの!』

 全然しゃべらない、表情もほとんどない同じくらいの歳の子。

『そうそう、今度はそっち。わ、ちゃんと手で体を支えないと落ちちゃうわよ』

 ドンくさくて、放っておけなかった。

『ああ、大丈夫? やだ、ほっぺたに傷がついちゃった』

 頬に枝が引っかかってかなり深い縦傷がついたのに、それでも表情は変わらなかった。

『ようこそ』

 何度か手を引っ張ってあげた彼がやっと隣に来て、アンリエッタが思わずそう言った時、その子は初めて笑った。それが少し嬉しくて、ポケットに入れていた別の林檎をあげて……。


 別になんてことない日だった。

 毎日毎日王宮には貴族の子が遊びに来ていて、毎日毎日ある時は顔見知りと、ある時は知らない子と一緒に遊んだ。その日はそれが偶々その子だっただけで……。



「初めて欲しいと思ったのに、それすら既にあいつのものだった。頼んだのに、僕の側役にして欲しいって……」

 空ろな瞳のまま、彼は冷たい指をアンリエッタの制服の詰襟へと落とした。

「やっと、やっと、手に入れることが出来る……」

 陶酔を含んでいるような声が微かに響く。

「……」

 首に当たるナイフと背後の壁、目の前には覆い被さるように立つ第2王子。動けないアンリエッタの襟のフックが、ゆっくりと外されていく。


「……」

 開いた襟の隙間から手が滑り込み、手の平が首の左側面を撫でる。不躾に髪の間を通り、後頭部をとらえられた。

「アンリエッタ」

 ――『アンリエッタ』

(それでも兄弟、なのね。声、似てる……)

「……」

(悪夢、って……こういうことかしら……?)

 思い通りにできない自らの体に、そんなことを思うともなしに思った。

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