第2話

 何度目を凝らしてみても、こちらへと歩み寄ってくるのは、美しい金の髪とガラス玉の瞳を持つ第2王子。数日後には、彼の亡命先のマーリナ公国に抗議の使者を送りつつ、形式的に身柄を要求するはずだったその人だ。

 そう、要求は形だけ。

 王弟のこれまでの行動で問題にできるのは、第2王子の祖父でもあるマーリナ公との硬鉱石をめぐる内通、そして今回の太子カイエンフォール暗殺未遂の2点だ。第2王子自身がそれに直接関与したという証拠は、今のところ確認できていない。

 ならば、敢えてマーリナ公国に逃れさせた方がいい。そう主張したのはアンリエッタだ。

 太子であるカイエンフォールを狙い、かつその現場を抑えられたことで、王弟は速やかに死罪を受けることになるだろう。昔の疑惑で、既に彼は王位の継承権をはく奪されている。

 マーリナ公の血縁であり、王弟が後見している第2王子も、このまま国内に居させた場合、責任を問われるのは必至、証拠が挙がるようなことがあれば、死罪もありうる。だが、彼の場合は、いずれにせよ決着まで時間がかかるはずだ。

 そんなことになって政情の不安定さを国内外に喧伝するより、疑惑だけくっつけた状態で、マーリナ公国に押し付けてしまうほうがいいとアンリエッタは考えた。そうすれば、彼は公国に対して外交をより優位に運ぶためのカードになる。

 硬鉱石に関する内通の証拠が挙がっている以上、かの国は第2王子を受け入れざるを得ない。身内だからではない。事実にせよそうでないにせよ、第2王子にマーリナ公国に不利な証言をされてはたまらないからだ。また、外交法もそれを許している。政治的な理由の亡命の場合、引渡し後死罪の可能性がある亡命者については、受入国は引渡しの要求を拒否できる。


(だから、彼については、公国に向かって逃げられるよう、わざと警備に隙を作っておいたのに……)

 じりじりと後退を続けながら、焦りでパニックになりそうになるのを鎮めようと、状況の分析を試みる。

(彼の言うことが確かなら王弟の方は予定通りで、カイも無事。なのに、彼が私の目の前にいるという事は……まさか既にマーリナ公国?)

「ミドガルド国内、狩猟地内の別宮だよ。昔は避暑のために使われていたようだけれど、数年前に取り壊しが決定してからは放置されている。灯台下暗しって言うし、中々だと思わない?」

「っ」

 抑揚のない声で、内心を正確に言い当てられた。顔をこわばらせたアンリエッタに向けられている彼は笑っているのに、ひどく無機質に見えた。


 第2王子から漂ってくる妙な空気に、知らず口内に溜まった唾を飲み込めば、喉がごくりと音を立てた。

「っ」

 その音にアンリエッタは突如我に返った。

(呆然としてる場合じゃない。早く状況を把握して、上手く事を運ぶ、それが私のすべきことだ――)

 ぎゅっと拳を握り締めて気合を入れ直す。


 ――根性見せなさい、アンリエッタ。びっくりして固まっていたって、事態は解決しないのよ? 大体あんた、そんな柄じゃないでしょう? 


「……お1人ですか、殿下?」

 余裕を取り戻すために、「よし、いい感じ、声に動揺が現れてないのは合格点だわ」と内心で自賛する。

 その質問に、目の前の金髪が左右にゆっくり振れた。

「君がいる」

「………………まあ、そうでしたか」

(そ、れ、共謀者がいるってより、ある意味よっぽど嫌な回答なんですけど……!)

 そんな心からの叫びを押し隠して、にっこり余所行きの声出せる私って上等だわ、と今度は現実逃避を兼ねて自賛した。顔が一瞬引きつったのは及第点だけど、致し方ないということにしておく。

 長年の宮廷サバイバルで培われた直感が告げてくるのだ――この人、絶対にやばい。


「そう。やっと、だ……」

 暗い何かをはらんだ低い声に、額にじわりと汗が滲み出した。

 正攻法は多分無理だ。どこかねじが外れている感じがする。そもそもちゃんと考えの回っている人間なら、アンリエッタや王子が事前に想定していた行動パターンにない、こんな非論理的な行動をとる訳がない。


(ええ、と、こんな時は、あれね、あの作戦ね……くっ、プライドを切り売りするみたいで、ちょっと苦痛だけど……ええい、ままよっ)

「うふ、ふふふふふ、すみません、なんだか色々ご迷惑おかけしちゃったみたいで。ほんとに駄目ですよね、私、反省しなきゃー、えへ。あ、それとちょっとだけ喉渇いちゃったんですけど、お水いただけません? あとおなかもすいたんで、出来れば何かつまむものもいただけると嬉しいなあって」

 作戦、すなわち『私、なんのことかわかんなーい。ええー、危険ってなにー? 私、それ関係ないしー』――。

 ポイントは、出来るだけ愛くるしく、「天然……?」という空気を、顔と表情、言葉と全身で表現すること。それで、相手が呆気に取られた、もしくは馬鹿にして侮った隙に逃げる。

(脱出口はあのドア――)

 アンリエッタの場合は、普段が普段だから前者だ。機を過たずにさっくりこの人をかわして、入り口から走り出る。


 汚い? 情けない? ――痛くも痒くもないわ。最後に立ってた者勝ちの世界なんだから! 美しく敗れるなんて私の辞書には存在しないのよ! 生き延びてなんぼ! 卑怯も姑息も騙し討ちも私が使うのに限って大歓迎!


「――逃がさないよ」

「っ」

 けれど、目論見は静かな声と共にあえなく破れ、目的にしていた扉が後ろ手に閉じられた。カチャッという鍵の音に、内心の呻きが顔に出てしまう。

 あの鍵のせいで、彼をかわして扉の前に行けたとしても、外に出るのが数秒遅れる。味方1人、武器1つない今は正直かなり痛い。


 第2王子が1歩、2歩と音もなく、さらに近づいてきた。それに合わせてアンリエッタも1歩、2歩と後退する。

「っ」

 体の陰になっていた彼の右手が現れた。刃をむき出しにしたナイフが光を反射したことで、アンリエッタは今度こそ顔を盛大に引きつらせる。

「君の意図ぐらい分からないとでも?」

 一瞬細まった瞳の奥にのぞいた、知の光にアンリエッタは息をとめた。

(色々おかしいとしても馬鹿じゃないんだわ。なんて厄介……)


「私、は……人質にはなりません」

 自分の心臓の拍動の音が耳に届き始めた。焦りが加速していく。

(落ち着きなさい、アンリエッタ。それならそれで、会話で上手く第2王子の気を逸らしなさい。そしてこの状況を打開するのよ)

「私を人質に逃げようとお考えなら無駄な話です」

 刃物ごときで今更私がびびるとでも思ってるならお門違い、それぐらいの修羅場は何度だってくぐったもの、と自分を奮い立たせながら、周囲へと目線を走らせた。

(脱出――窓は無理。あの格子、ご丁寧なことに真新しいわ。となると、やっぱり他に選択肢はない。こいつの向こうのあの扉になんとしてでも辿り着かなきゃ)

「人質? 君を?」

「見込みが甘いにもほどがあるのでは。反逆罪に問われうる人間を、誰が一介の雇われ人のために逃がすと?」

 カイはふざけた性格だけど、すべきことはきちんとする。

「……」

(でも、そんなことになったら、きっとカイは――)


『アンリエッタっ』

『お前みたいに役に立たないの、もういらない』

 幼い頃の顔がこんな時にいくつも脳裏に浮かんで来て、それに眉根が寄りそうになる。それを隠そうと、アンリエッタは顔に笑みを浮かべて、第2王子に囁きかけた。


「お命を頂くことにはなりません。元々当方の予定では、殿下にはマーリナ公国に亡命して頂く予定でした。外交法によれば、貴方の身の安全は保障されます。幸いあちらの国には今現在直系・傍系ともに男子がおりませんし、そのおつもりがおありでしたら、今回の件は全て王弟に被せても構わないのです。そう悪い話ではないでしょう?」

(頷け。欲に囚われて、わざわざ策を弄してこんな場所にいる意味はない、そう思え――)

 返事を待つまでの間に、胃がきりきりと悲鳴を上げはじめる。


『でも……死んじゃったら……』

 冗談じゃない、あんな顔させるのも、あんな台詞を言わせるのももう絶対ごめんだわ、夢見が悪いったらないんだから……っ。


「甘言を弄す、か。本当に油断のならない人だよね。けれど……僕に逃げる気はないんだ」

 ナイフを持った手をだらりと下げたまま、第2王子がさらに近寄ってきた。今度こそ隠しきれなくなって、露骨に眉間に皺を寄せてしまう。

 彼はアンリエッタの意図に間違いなく気付いた。ということは、恐らく今のこの行動も今回の作戦を全て察知した上での事だ。この人をただの人形だと思っていたなんて、なんという見込み違いをしていたのだろう。

(しかも、私の方はまだ彼の意図が分からない――)

 舌打ちしたくなるのを抑えて、アンリエッタは必死で考えを巡らせる。


(となると、駆け引きに乗ってくる可能性は低い。逃げるか、制圧するかしかない)

「仰ることが分かりかねます。条件を仰っていただければ、それなりの取引を……」

「無駄だよ。僕1人でここを整えたんだ。君を有利にする物は何もない」

 会話を繋ぎつつ、そのための武器や手段を周囲に探すアンリエッタを前に、第2王子は鮮やかな赤の唇の両端を上へと釣り上げた。水色の瞳がアンリエッタの全身をくまなく見つめる。

(な、何なの、この薄気味悪さ……)

 それに応じて勝手に身体が震え始めた。

「何、が、望み……?」

 寒気を何とかしたくて、何でもいいからと声を出したのに、言ってしまってから後悔した。

(これ、多分訊かないほうが良いって質問だわ……)

 しかも第2王子がはじめて感情らしい感情を見せて笑ったのを見て、ありがたくない予感が当たってしまったことを知る。


 唾を飲み込みながら、彼から後退るものの、退路は背に当たった壁によって絶たれてしまった。

「……っ」

 ゆっくりと第2王子が近づいてきて、ナイフを持つ手が首横の壁へと伸ばされる。銀色に輝く硬質の刃が首に当たり、その冷たい感触に全身の肌が粟立った。

 もう一方の白い手が、ゆっくりと頬へと上がる。

「僕が望んでいるのは……」

 そこに触れた人差し指の腹は、次いでつつっと斜め下へと移動すると、アンリエッタの唇をかすかに撫でる。

(気持ち悪……っ)

 そう思った瞬間に、間近に迫った形のいい第2王子の唇の合間から、音が漏れ出た。


「――アンリエッタ・スタフォード、君だよ」


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