第5章【狼の追い払い方】

第1話

「……ん」

 そうしろと騒ぐ何かに急き立てられて、まだ重く感じる目蓋を何とか押し開けた。

(……ぼろぼろ)

 視界に入ったのは天井。元は蔓草かなにかの幾何学模様が描かれていたのだろう。だが、それも消えかかっている。

(って、どこ、ここ?)

 馴染みのない場所だと判断するやいなや、アンリエッタは跳ね起きた。


「……」

 直接顔に光が当たって、視界を奪われる。

 数秒後、明かりに慣れた目に、窓に取り付けられた鉄格子と、褪せて元の色の分からなくなったカーテンが映った。

 その窓の向こうには、鮮やかに色づく秋の木々。建物の外に人気はなく、耳を澄ませば、風に舞って落ち葉が地に降り積もる音まで聞こえてきそうな気がした。

 アンリエッタが今いる部屋も、ドアの向こうも静まり返っていて、それ故余計現実感が持てない。


「ええと……」

 改めて自分の身を確かめれば、なぜかベッドの上。制服を着たまま。結わえていた髪はいつの間にかほどけている。

「……真っ昼間だってのに、寝てた?」

(やだ、給料泥棒ってこういうことかしら? 私の美学に反するわ。それにしてもこのシーツ、質は良いけれど、ちょっと埃っぽいわね)

「って、そうじゃない」

 私としたことが、王子もいないってのに、現実から目を逸らしてしまった、とアンリエッタは顔を顰める。

(ええと、さっきまでは確か……)



 不穏な気配は終始あったものの、王子は無事に狩猟会の最終日となる日を迎えていた。

 王位の奪取をもくろみ、他国と内通した王弟らの罪を問うのはこの日の予定で、そのために周到に準備していた。

 狩猟地カステアで鹿狩りを行うと聞いた後、アンリエッタはここから馬で3時間ほどの国境沿いの町に流民が流れ込んでいるというデマを流した。工作員を使い、実際にそれらしき者たちに見えるよう見せかけ、ちょっとした揉め事も起こしている。そして、その人数と頻度を徐々に上げた。

 その町から、暴動が発生したという知らせが届いたのが昨日。もちろん偽りだが、計画がうまくいかないことに焦りを隠せなくなっていた王弟は、その誘い水に乗って王子に提案してきたのだ。こちらの目論見どおりに、『ここから兵を差し向けてはどうか』と。

 王子はその案を容れ、執務補佐官と、護衛として連れて来ていた近衛中隊をその町に差し向けた……と王弟は信じたはずだ。

 “流入民”によって悪化している道中の護衛と称して、王弟を含めた他の王族に断りなくつれてきたこの隊の実際の目的は、王弟とその私兵の牽制だ。それをここから離せば、王弟は王子を亡き者にするために動き出すと見込み、事実王弟はその通りに動いた。

 もちろんアンリエッタと隊の方には、何事もない平和な町に武装騎士を引き連れていく理由はない。だらだらたらたらと30分間ほど行った所で、馬首を返し、一気に離宮へと駆け戻った。

 その後は、狩りに出かけた王子たちを追っていた王弟の私兵を背後から奇襲して一掃、残っていた共謀貴族たちの身柄を拘束した。

(その確認をあれこれしてたのよね、私。ついでに、他の王子にも巻き添えを食らわせられないかと考えていて……。そうしたら、ルーディと同じくらいの幼い侍女に、「これ、落とし物ではないですか?」って呼び止められた……)



「そうだ、そこから何か変な臭いがしたんだった……」

(つまりそれで意識を失って……さらわれた、ということかしら?)

「……」

 アンリエッタは、目をぱちくりさせる。緊張感がないと我ながら思うけれど、それも仕方がないと主張したい。だって剣こそなくなっているものの、拘束もされていないし、見張られている気配もないのだ。

「ええと……」

 置かれた状況の奇妙さに首をひねりつつ、とりあえずベッドから足を下ろし、立ち上がった。

(なんだか分からないけれど、こういう場合はさっさと逃げ出すのが賢明ってものよ)

 転んでただで起きるのも癪だし、出来ることならなにか面白い物を見つけて帰りたいところだが、何かを探るのは自分の優位を確保してから。

(いついかなる時も冷静に客観的に、が大事なの。欲張っては駄目なのよ。株の売り時・買い時を逃がすのは、いつだって欲張ってしまった時だもの!)


「……」

 ……って、ねえ、お母さん、私、ほんの少しばかりのん気だったようよ。


 念のため忍び足で部屋の入り口に近づいたアンリエッタの目の前で静かに扉が開いた。古びた意匠の木戸の向こうから現れた人影に、頭が真っ白になる。


「……な、んで」

 彼が1歩近づいてきたのを、同じだけ後退って距離を保った。

「そんなに意外?」

「だって王弟、は……」

(今頃、彼は期待していた応援がないまま、王子たちによって逆に捕まえられているはずで……)

「さあ」

 表情を動かすことなく、「興味ない」と返してきた目の前の相手を、アンリエッタは凝視する。

「あなた、は……」

(だから、彼の駒だった第2王子は今頃、亡命のためにマーリナ公国に向かっているはず……)

「王弟のようなよほどの間抜けじゃなきゃ気付く」


 ――なのに、どうして、その第2王子がここにいるの。


「……っ」

 思い当たった可能性に、全身から一気に血の気が引いた。

「他に聞きたいことは?」

「カイ、カイは……」

(この人がここに居るなら、まさかカイは……)

 体が震え出した。

「……狩りの最中だろう。もっとも狩っているのは、鹿じゃないだろうけれど」

 初めて彼の顔に表情が載った。一瞬だけ皮肉に笑った彼は、何とか呼吸を取り戻したアンリエッタを無言で見つめる。

「……」

 そして、得体の知れない微笑を顔に浮かべ、ゆっくりと距離を縮め始めた。

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