第6話
「月給12,000ソルドっ!」
アンリエッタはノックもせず離宮の王子の部屋に飛び込む。
「……」
ソファの上で寝転び、足を投げ出して寛いでいたらしい王子が、不機嫌そうに眉をひそめた。同じ部屋の向かいのソファに座っていたアゾットも眉を跳ね上げたけど、知った話じゃない。
「12,000! 相場の2倍出すって!!」
「……どういう神経してたら、今の雇い主に引き抜きの話を堂々と出来るんだ?」
「っ、なんであんたが不快気な顔してんのよっ!」
アンリエッタは詰め寄って、最低最悪の根性悪の襟首を掴みあげる。
「問題はそっちじゃないわよっ、相場っ! 6,000ソルドなんじゃない!!」
「……」
眼前の紫の瞳がスッとそらされた瞬間、頭に血が上った。
「しらばっくれる気? ちゃんと覚えてるのよっ、4,500ソルドが王太子付き執務補佐官の給料の相場だってあんたが言ったの!」
「何の話だ? 大体、自分でも調べて納得したんじゃなかったか?」
「む」
(そういえば、そうよね。さすがにちゃんと確かめたのよ、侍従長に。だって、このドケチの性悪の言うことなんて、信用ならないもの。そしたら、その通りだって規約書や過去の契約記録を見せてくれて……)
「……」
待て――脳裏にひらめくものがあってアンリエッタは額に手をやる。
(ちょおっと待て。ま、まさか、とは思うけど……)
「カイ、あんた、まさか……そのためだけに記録改ざん、した……?」
そういえば、あの時の侍従長の顔色も挙動もおかしかった――。
「何の話だ」
「っ、ふざけんじゃないわよ、しらばっくれたって無駄よっ、誰がそんな顔に騙されるもんですかっ」
にこりと殊更に可愛く笑った王子の襟首を持ち上げて締め上げる。
確定した、今確定した、長い付き合いだものっ、都合の悪くなった時の顔ぐらい知ってるのよっ!
「4年と3ヶ月掛ける1,000ソルドイコール51,000ソルドプラス利子! 複利よ、当然!! 返しなさいよ、私の農園頭金!! 今度という今度はもう許さないっ……て、何?」
ソファに寝転がったまま、不機嫌そうな顔をしていた(お前がするな!)王子に、突然ガシっと右手で後頭部を、左手で肩を掴まれた。
「?」
思わず眉を寄せれば、その間にゆっくり引き寄せられる。そして、嫌味なくらい整った顔がどんどん近づいて……
「っ! な、な、なななななななな……」
慌ててドンッと奴の肩を突き放して、1歩後ろへとよろめいた。
(いいいい、今、キ、キキキスしようとした……?)
「迫られたから期待に応えようと」
(せ、迫るっ!? 私が!?)
「ないっ、迫ってないっ」
ぶんぶんと音を立てて首を横に振った。
「いやあ、あれが迫ってなかったらなんなのか……」
「あんたは黙っててっ、アゾットっ」
楽しんでいることを隠しもしない、陽気な声を出した右横のアゾットをぎっと睨んだ。
(本当にこの人、キーンの親友なのかしら?)
8年間王子についていたキーンが地方の警備隊長になった時、彼の推薦で代わりに護衛の任についたのがこのアゾットだ。飄々としたつかみ所のない人で、口癖は、「まあ、殿下もアンリエッタもいまや立派になってますし、俺、出番ないでしょう」。
その言葉の通りに、普段はほとんど王子の側に居ない。一応影で色々手を回してくれているみたいだけど、胡散臭いことに変わりはない。
今も「怖いなあ」と笑いながらアゾットはアンリエッタに視線を合わせてくる。全然怖がっていないくせに、こんなことを言うのが実に憎ったらしい。
「それで? お金大好きアンリエッタちゃんとしては、月給12,000ソルドに乗り換える訳?」
「っ!? な訳ないでしょっ!!」
王子の頭の下にあったクッションを取り上げて、振り向きざまにその気に入らないアゾットへと投げつけた。
「……げ」
(し、しまった……)
2拍後にアンリエッタは己の失態を悟って青ざめた。
「……ふうん、訳ないのか?」
「う゛」
不自然なまでに抑揚のない王子の声に呻く。
(やっぱりばれた……もういや……)
顔に血液が集まってきた。ソファの表面が擦れる音がして、王子が身を起こしたのが分かったけれど、奴の表情が怖くて、後ろを振り向けない。
「くくく、つまり、たとえ相場以下でも殿下のお側がいいってこ」
「っ、アゾットっ、あんたのその口、永久に閉じさせてやるっ」
目の前でクッションを抱えて笑い転げているアゾット、彼の首を復讐と逃避をかねて全力で絞め始めた。
ええ、加減なんて一切してやらないわ。する義理も道理もないもの。
ああ、心配しなくていいのよ、ルーディ、王弟の仕業に見せかけるから。姉さんそういう工作得意なの。
え、倫理的に?――ぜんっぜん聞こえないわ。
だって、上手く交渉すれば、給料1,000ソルドUPと補償を得る絶好の機会だったのよっ。
なのに、こいつに引っ掛けられたせいで、私の給料は逆に今月も来月も、再来月も5,000ソルドに決定してしまったのっ。泣くに泣けないわ、物価上昇率にあわせた調整の余地すら私は失ったのよっ! 地獄を見せてやるくらいは当然の権利だわ!
ちなみに、あと少しでアゾットが落ちるとなった瞬間、後ろから響いた声はやはりアンリエッタへの救いではなかった。
「……そこまで言うなら、給料に関係なく一生側でっていう手もあるぞ、アンリエッタ」
「っ!? たっ、ただ働きしろっての!? あんた、人でなしにも程ってもんがあるでしょうっ!?」
それは止めね!? この悪魔っ!!
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