第5話

 牡鹿が派手な音を立てて、落ち葉で黄金色に染まった林床に倒れ落ちた。アンリエッタは栗毛の馬上で構えていた弓を下ろすと、小さく笑い、すぐに表情を改める。

(ふふん、見たか。小さい頃からおかずを探して、近くの林に頻繁に入ってたのよ。獲物がどんな風に動くかなんてお見通し。胸筋だって鍛えまくってるもの、女だと思ってなめるんじゃないわ)

 それから横を振り返り、可愛らしく見えるよう微笑んだ。

(ああ、ナイスだわ、悔しがる双子とうどの大木の顔! ほんと、気味がいいわー。声をあげて笑えないのが、つらいったらない)


「馬鹿アンリ」

「アンリエッタ!」

 こちらへと馬を進めてきた王子の、人の気分に水をさす言葉にむっとしつつも、そこは反射で訂正。さらに馬首を寄せてきた王子と、ひそひそと小声で喧嘩する。

「こんなところぐらい、あいつらに華を持たせておけばいいものを」

「だって馬鹿にされるじゃない」

「それでムキになるから馬鹿だと言っているんだ」

「ふーん、そう、ひがんでるんだ。そうよねえ、私の方が腕いいものね」

 王子が笑顔のまま固まった。アンリエッタの笑顔もとっくの昔に固まっている。


「……」

「……」

 お互いその表情で、顔を寄せたまま、睨み合うこと数秒。

 王子はふっと鼻で笑うと(これがまた絵になるくらい様になるからむかつき倍増)、アンリエッタから身を離した。森の奥へと馬首をめぐらすと、動き出す。銀の髪が風になびいて、光を反射する。

 そして、水辺の近くまで来ると、銀の睫に縁取られた目をすがめ、乱れのない所作で弓に矢をつがえた。彼方を凛と見据える神秘的な紫の瞳と、長く真っ直ぐ伸ばされた銀の髪が、秋の森を埋め尽くす赤と黄にひどく映える。そんなところもいちいちむかつく。


 追いかけてきた誰もが息を飲んで彼を見つめていて、その間だけ、森はひどく静まり返った。

 数十秒後に静寂を裂いて、矢が弓を離れた。直後に大きな塊が落葉の降り積もった地面に崩れ落ちる。

 どよめく周囲が駆け寄っていく先には、遠目に視認できるほど立派な角を持った牡鹿……。

「お見事っ」

「さすがですな、カイエンフォール殿下っ」

 歓声を背景に、馬をその場に留めていた王子が、銀糸をふわりと躍らせながらアンリエッタを振り返り、憎たらしさ満点の顔で笑った。

「……っ」

(くぅっ、くやしいっっ、しかも、ほんっとに憎ったらしいっ)



* * *



 今日の予定を終え、一同は離宮へと戻ってきた。西の空が鮮やかな赤とオレンジを染まる一方、中空からは夜の帳が降りつつある。


「いやはや、スタフォード執務補佐官、美しい上に狩りまで得手とは」

 ――額面どおりの褒め言葉と受け取るなかれ。

(顔が思いっきり歪んでいますよ、王弟どの)

 西日を受ける顔に苦々しさを目一杯乗せて話しかけてきた彼に、アンリエッタは可愛らしく照れ笑いしてみせる。はにかみ、頬を少し染め、ちょっと恥らっているように。

「まあ、王弟殿下にお褒めいただけるなんて、身に余る光栄です」

 どう? 影にいた刺客に矢を当てて追い払った娘には見えないでしょう?


 本当は王弟本人に当ててやりたかったのだが、それは想像だけに留めておいた。なぜなら、近々あーんなことやこーんなことを“合法的”にしてやれるのだから!

(合法的に王弟にやりたい放題――なっんて素敵な響き……!)

 権力欲しさに甥を殺そうとする奴だ、地獄のほうがましという目に遭わせやる。

 それだけじゃない。奴は、鋼硬石を優先的に提供するという密約を、マーリア公国と勝手に交わしている。鋼硬石というカードを上手く使えなくなったら、ミドガルドの経済も外交もあっという間に破綻するというのに。

(その意味を分かっていようがいまいが、どの道断罪対象だわ――みんなが貧乏になるのよ? つまり、子供が食べるに困る、ちっちゃい子がおなかを空かせる! なっんて嫌な響き!!)


 可憐に見えるように微笑みながら、「絶対に許さない、どんな手を使っても洗いざらい吐かして膿を叩き出してやる」とアンリエッタは決意する。

 何度も言うが、これは社会正義の実現だ。公明正大で人格者のアンリエッタが八つ当たりする訳はない、多分。


 ちなみに、王弟の標的であるカイエンフォール太子は少し離れた場所で、近衛隊のアゾット副隊長と話し込んでいる。もちろん、そのまま周囲を近衛騎士たちで囲んで、用事があるよう見せかけつつ、王弟たちから離れる予定だ。


(王弟が王子をいくら狙おうと、こっちもそのつもりで態勢は整えている。(ちょっと変だけど)切れ者のアゾットも居るのだし、王弟もこの場でこれ以上の手を出してくるような馬鹿ではないはずだ。ただ、焦りはする――そこを、)

「――アンリエッタ・スタフォード」

 王子が護衛たちと動いたのを確認し、アンリエッタも踵を返したが、突然、抑揚のない声に呼び捨てられた。

「……」

 奇妙なまでに平坦なその声音に相手を悟って、アンリエッタは緊張と共に振り向く。

「月給12,000ソルド」

(げっきゅういちまんにせん……そるど……)

 ――なんですって?

「相場の2倍出すよ」

 2倍? 相場の? 2倍??

「だから、俺のところに来ない?」

 そう言って無表情なままこちらに歩いてきたのは、あの未知の生物、第2王子リエンだった。


 ああ、それも不思議だけど……聞いた? ええ、私はもちろん聞いたわ、しっかりと。

 月給! いちまんにせん! 1万、足す、2千! 12,000ですってっ!!


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