第3話

 アンリエッタのものと同じくらいうずたかく書類が積み上げられた執務机の向こう、椅子の背もたれに深く身を預けながら、しかめっ面で書類をめくっているのが、アンリエッタの性悪給料主だ。引き続き彼の機嫌は絶不調。

「……」

 その余波をまともに受け、アンリエッタはアンリエッタで露骨に顔を顰める。もう取り繕う気にもなれない。

 月給は泣けてくることに変わらずの5,000ソルド。物価上昇分ぐらい考慮して欲しいと最近切に願っているのは、ささやかすぎる願いだとここに断言する。

 

「だから、さっきから一体、何が気に入らないんですか」

 無言で繰り出される冷たい空気に耐えかねてまた理由を質す。

「見事なまでに粗末な頭だな」

 チラッとこちらを一瞥しての台詞に、身体が怒りに沸いて、また寒さを忘れる。そして、時間を置いて繰り返す。

 

(ああ、なんて不毛……って不毛? 無駄、無益、徒労、なんて恐ろしい言葉)

 そう思うといても立ってもいられなくなるのが、性というもの。

「っ、ああもう、いい加減にしなさいよっ、言いたいことがあるなら、はっきり言えって昔っから言ってるでしょう! 無駄なエネルギー使わせんじゃないわよっ」

「では、お言葉に甘えるとしよう。はっきり言われなければ分からない己が鈍さ加減を棚に上げ、人に向かって逆切れするその根性は、他に類を見ない。その希少さに敬意を表して、減給500ソルドでどうだ」

「そんっなことははっきり言わなくていいっ、なに立て板に水を流すように流暢に人を貶めてるわけ?」

 しかも、何気に過去最高減――いくら温和で平和的な私にだって忍耐の限界ってものがある!



* * *



「例の狩猟地で鹿狩りを行うそうだ」

 首に赤い痕跡をつけた王子が、ようやくまともに話し始めた。相変わらず可愛くない口調なのは気に入らないけど、そこは大人になって流すことにする。

 ちなみに、赤い痕と言っても、もちろん何をどうしたって、いわゆる色っぽいのではない。

 外は秋だ、恋だと浮かれているけれど、アンリエッタにはもちろん無縁、芋の収穫ぐらいだ、大事で意味があるのは。

 

 そう、ほんの少しばかし首をお絞めしただけ。減給を取り消すよう脅す……もとい、お考え直しいただく為に。

 だって、幼少の砌からお仕えする殿下に、権力を乱用して、誠意あるか弱い臣下・臣民を苦しめるような理不尽な国王に成り果てていただいては困るでしょう?

 つまりは世のため人のため――お金のためでもなければ、私怨でもないわ、多分。ちょーっと、加減が出来なかったのはあれね、ご愛嬌ってやつよ、きっと。

「……」

 ……ねえ、ルーディ、姉さんの限界はすぐそこのようよ? 姉さんが犯罪者になっちゃう前に、お願いだから、必死で節約して農園の頭金貯めてね?


(って、そうじゃなかった)

「ええと、例の狩猟地ってカテスア? 鹿狩り? と言っても、社交の場に他ならないのでしょうけれど……」

 最近、現実から逃避する癖がついてきたかも、と眉をひそめながら、アンリエッタは応えを返す。

「ああ、昨日の晩餐で、血縁の絆をたまには深めようと叔父上が提案なさってな。王子は全員行くことになりそうだ」

 カテスアは王室保有の狩猟地だ。現王が狩りを嗜まないこともあって、王弟、つまり王子の叔父にあたる人が実質上の権有者になっている。

「……行く気ですか」

(あのくそ王弟余計なことを)

 その話を聞いてアンリエッタは険悪に眉をひそめた。

「気に入らないか?」

「当たり前でしょう? 何が今更血縁ですか」

(王子の命を狙っているのはほとんどの場合、血縁者じゃない)

 アンリエッタはいらいらと爪を噛む。

 狩猟はかなり嫌なシチュエーションだ。誰もが狩猟具という名の武器を持ち、行動範囲が広い上に、環境は死角だらけ。

 しかも提案者は王弟リチャード。奴は証拠こそ挙がらなかったものの、過去には現王を亡き者にしようと企んだという話もある野心家だ。何より――

「反対します」

 彼は先頃、マーリナ公国出身の、今は亡き第1夫人を母に持つ第2王子の後見人になった。

 第2王子は、カイエンフォ-ルを除いた4人の王子の中では最も優秀だと言われている。年齢もカイエンフォールより2ヶ月後に生まれただけの同じ17歳。何度か話をしたことがあるけれど、掴み所のない、何を考えているかさっぱり分からない人物だった。

 そんな2人を王子と一緒にすることは、是が非でも避けたい。

「心配か?」

「そ……」

 そんな話じゃないでしょう、と言おうとしたのに言葉が続かなかったのは、性悪王子がさっきまでの不機嫌さを消して、珍しく含みなく微笑んだからだ。

(うー、一瞬とはいえ、今の腹黒さを忘れて、可愛いとか思った自分の脳を呪うわ……)

「お前も来い」

「殿下が行くならもちろんお供しますが……」

 言っとくけど、心配してるからじゃないわよ? 仕事だから、給料のうちだから、なの。お金をもらうってのは、そういうことだと思うだけ。……なによ? 違うってば!

 

 不意に王子が顔に浮かべていた笑みを消し、宵の帳のような色の瞳で、真っ直ぐ見つめてくる。

「……」

 この世でこれ以上奇麗な瞳はないだろうと密かに思っているそれに見据えられて、なんだか居心地が悪くなった瞬間。

「調べたいことがあるんだろう? 向こうが罠を張ってくる気なら、泳がせれば手っ取り早い」

「げ」

 隙を突いて発せられた王子の言葉に、つい顔を歪ませてしまった。

(やっぱり気づいてるんだわ、ここ数ヶ月間、私が王弟と第2王子の近辺を洗っていたこと。さっき王弟の領地のロワンヌに行くと言ってたのも、多分その関係だ……)

「はっきりするまで黙っている気だったわけか?」

「……」

(だって肉親が自分を殺そうとしているかもなんて、いくらなんでも気分のいい話じゃないじゃない)

 強い色を湛えてこちらに向けられる紫の視線から、アンリエッタは目を逸らし、顔を伏せた。

「……それが不機嫌の理由?」

 そして、敬語も忘れて、ぼそりと呟いてしまった。


 勘違いであってほしいと思って黙っていたから、そのくせ黙って探っていたから――

 自分に腹が立った。もっと才覚があれば、こんな話になる前に、カイが知ってしまう前に、片を付けられたかもしれないのに。


「……」

 目の前でカイがゆっくりと、長い息を吐き出す。その音になんだか切なくなって……

「ほんっとうにどこまでも粗末な頭だな」

「!?」

 ひ、人が下手に出てればっ! あんたの心配なんか金輪際してやるもんですかーっ!

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