第2話

 自身の宮殿と本宮殿を繋ぐ渡り廊下を歩いてくるにっくき主へと、アンリエッタはずかずかと大股で歩み寄る。


「名をきちんと呼ぶのは、人心を掌握する初歩ではありませんこと、殿下?」

「人の心の機微を読めない存在を人と呼ぶのはいかがなものか」

 目の前まで来て、「いい加減にしろ」という含みを持たせ、引きつった顔で微笑みかければ、王子は王子でにこやかに含みのある笑いを返してくる。実にかわいくなくなった。


「……ご無沙汰しております、カイエンフォール殿下」

(あ、忘れてた……)

 背後からトレバーの挨拶が響いて、別の意味で顔を引きつらせると、アンリエッタは彼を振り向いた。

「久しぶりだな、トレバー。王宮司書の仕事はどうだ? 館長のシューデからは、君は博学で司書としてこの上なく優秀だと聞いている」

「光栄です。性に合っているようで、楽しく務めております」

(また猫被ってる……)

 上に立つ者に相応しい寛容さと慈悲を見せてトレバーと話す王子を見ていると、「けっ」と言いたくなってくるのが悲しい。我ながら荒み切っている。


「君は昔から探求心が強いからな。そうだ、もし希望があるなら、王立の博物館の研究官と兼務することができるようにシューデに話しておくが」

「え」

「っ、すごいじゃない、トレバー」

 王子の声掛けに、トレバーは目を瞬かせた。それもそのはず、王立博物館の研究官は、彼のような学者肌の貴族にとっては垂涎のポストで、中々空きが出ない。

「昔、昆虫を研究したいって言っていたじゃない。それに給与もいいし、肩書的にも人気だもの、結婚を考えているなら、それこそ最高だわ」

 先ほど結婚にためらいがあるかのように話していた幼馴染に降ってわいた幸運に、アンリエッタは思わず手を叩いた。

 ついでに泣きそうにもなった。私にも、人様の幸福をただ喜べるピュアな心がまだ残っていた……!と。

「あー……忙しくなって、結婚、どころじゃなくなる気もするけど」

「まあ、それはそれで幸せなことだ。行くぞ、アンリ」

「アンリエッタ!」

 荒んだ日常を送る身には尊いそんな時間も、性悪皇子のせいで、すぐにおしまいとなってしまったのだが。


(しかもなんか機嫌悪いし……)

 そうして王子から半歩下がって歩き始めたのだが、無言の王子から漂う気配にアンリエッタは眉を顰める。

「アンリエッタ、明後日の夜会のエスコートの件、考えてく…………し、失礼しました、殿下」

 ちょうど柱の陰となっていたのかもしれない。声をかけてきたセイルトン国王補佐官の3番目の孫も、「……夜会?」と呟いた王子に目を留めるなり、真っ青になった。

「生憎とスタフォード執務補佐官の当面の予定は、仕事で埋まっている。セイルトンも知っているはずだが?」

「しょ、承知いたしましたっ」

(私が相手しなくていいのは助かるけど……)

 微笑んでいるのに空気が冷たいという、ここ数年で王子が身に着けた悪質な技に、アンリエッタはげんなりとため息を吐いた。ますます魔王に近づいていく気がする。


 その証拠だろう、彼が横にいるだけで、先ほどまでわらわらと寄ってきていた人々がみな遠巻きにしてくれる。

(なるほど、ただの悪魔じゃなくて、魔王ならおいそれと近づけない。やはり高みを目指すべきなのね)

などとうっかり納得してしまいそうになるが、問題はどのみち逃げられない我が身だ。

 無言で歩いていく彼の機嫌が最高潮に悪いことを確信して、アンリエッタは5,000ソルドの費用対効果の悪さをまたも嘆く。


「アンリ」

「アンリエッタ!」

「どうでもいい。明日から1週間、ロワンヌに行く」

「どうでもよくない! って……ロワンヌ?」

(王弟の居城のある……)

 歩きながら、ここのところこっそり調べている場所をさらっと口にされて、アンリエッタは唇を引き結んだ。

「…………私もご一緒します」

「当たり前だ、せいぜい俺のために働け、高給取り」

「っ、高給かどうかは費用対効果で論じるべき! ……と僭越ながら」

「なるほど、俺の側にいられるのだ、効果はこの上なく高いな。さぞかし心苦しかろうから、見合うよう減給してやろう」

「っ、ふざけんじゃないわよっ……で、はなく、お戯れもいい加減にしていただきたいものですわ、うふ、ふふ、ふ……」

(あああああ、周囲に人、人さえいなければ、蹴り倒してやるのに……!)

 気まずさがあって殊勝に返事をしてみたのに、まったくもっていらぬことだった。


(わ、たしは大人、私は大人――流せ、流すのよ、なにせ減給額の具体的な数字が出ていないのだから、そこにこれ以上触れさせないためにも!)

 こめかみに青筋を立てつつも、アンリエッタはなんとか次の話題を口にする。

「ところで、殿下、ジメテル侯爵から夜会の案内が届きました。この間もお断りになったのですから、今回は応じてください」

 あそこの鉱山で強制労働が行われているという情報があって、内偵を入れたことは、王子にも報告している。断り続けて警戒を招くようなことはしたくないし、できれば油断を誘ってほしい――。

「なるほど」

 人目を気にして理由は伏せたが、ため息を吐いたことから察するに、王子にはきっちり通じているようだ。皆まで言わなくて済むのは、腐れ縁ゆえとはいえ、実に便利だ。

「あそこの娘」

「長女のローレラは今年で20、先日ゴードバン伯爵家の長男と結婚しました。陸運に強みのあるゴードバン家との結びつきによって貿易の対象を広げる意図あってのことで、思惑通りに順調。そのせいか、侯爵の現在の関心は、1つ下の次女エミリアに向いているようで、侯爵の領地のうち、イメルが一月ほど前に彼女の名義に代わっています。相続に向け、資産調整をしているのかもしれません」

「その娘の“結婚”に向け、持参金代わりにイメルを委譲した、という可能性もあるとは思わないか」

「あり得ますね。親の資産も重要ですが、当人に財があると、より有利な縁談が望めます」

「……それだけか?」

「イメルと言えば、良質のぶどうが取れることで有名――私にそんな土地があれば……! ワインづくり……!」

「気にするところはやっぱりそこか」

「…………だから、なんなのよ、さっきから」

 さらに不機嫌になった王子に、限界のきたアンリエッタも、ついに同じ顔を返した。

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