第2話
「アンリ」
「アンリエッタ!」
「街に行くぞ」
いつものようにノックと同時に扉を勝手に開いてアンリエッタの部屋に入ってきた王子から、いつものようにまともな説明なく、ずいっと差し出された服。
(まあ、今流行の布ベルト。ほんと、どっから調達してくるのかしら?)
――違ったわ、そんな問題じゃなかった。
(男物なのね、やっぱり)
――間違えたわ、ちょっと引っかかるけど、大人だからそこは問題にしないの。
(また、ここで着替えろって?)
――それは間違いなくすっごく問題だけど、寛容にとりあえずおいておいて。
「ふ、ふふふふ」
アンリエッタは笑顔のまま、頬をぴくぴくと引き攣らせる。
「お断り!……いたします。エーム教の件を速やかに片付けようかと。あんないかがわしい奴らに、絶対に宗教団体の特権を与えたくないんです。だから遊んでいる暇はないんです!」
手にした服を、そんな心からの叫びと共に王子に投げつけてやろうと(あら嫌だ、ここで着替えろって言われたの根に持ってるわけじゃないのよ? 私怨じゃないの。世のため人のためなの。多分)して、
「花街に行く」
王子の口から出た単語に、アンリエッタは停止した。
(かがいって花街、あれよね、色を売る街――)
「……なんだその目は」
「そんなに不自由してたんですか」
「は?」
「仰ってくだされば、わざわざそんなところまで行かなくったって何とかして差し上げますのに」
「……ほお」
「大丈夫です、口の堅い伝手をお願いしますから」
そう言って、アンリエッタは執務机から離れると、マーガレットを呼ぶ。
「だから、私はエーム教に専念させてもらって」
と言った所で、ぐっと腕を引かれてくるりと一回転した。その弾みに執務机に積み上げていた書類やら本やらが、ばさりと音を立てて床に落ちる。
(……ええ、と)
「……」
目の前にこの世のものとは思えない作りの王子の顔が見える。
背に当たっているのは、あれこれ資料が並べられた本棚だ。押し付けられた拍子に、周囲の空気が動いたのか、インクと新旧様々な紙の香りが漂ってきた。
「じゃあ、今何とかしてもらおうか。幸い口もこの上なく堅そうだし」
彼が小さく笑った拍子に、さらりと揺れた銀の前髪を、思わず見つめた。
(本物の銀より奇麗……って、今気にすべきはそんなことだったかしら?)
「え、ええと……」
いつの間にか長くなっていた指が顎に触れた気がする。そこがくいっと持ち上げられた気もしなくもない。
透き通った紫の奇麗な瞳が、真剣にこっちの瞳を覗きこんできているようにも思える。
距離をとろうにも、本棚と彼の体に挟まれた上、腰を押さえられていて、難しいような気がしなくもない。
「……」
息がかかるまでに、形のいい、艶やかな唇が近づいてきているのは気のせい、ではない――
「……っ」
(ええと……、ええっと……、ええええっと……。ちょ、ちょ、ちょちょ、ちょちょちょっと待ってっ! 待て、やめて、ストップ、口から魂が抜けていきそう!!)
アンリエッタは我に返ると、盛大に顔を引きつらせる。
「あら、何をしていらっしゃるのですか? 殿下、アンリエッタさま」
「っ」
扉の開く音に、顔を動かそうとしたものの、顎を拘束されていて失敗。
仕方なく目線だけ横に動かしてみれば、入口から顔を覗かせているのは、いつも通りにこやかに笑うマーガレットだ。
(ナ、ナイス、マーガレット! こないだの分とあわせてケーキも奢るわ!!)
「……」
動かない顔の移動を諦めて、目で必死に合図。彼女に助けを求める。
「恋人の抱擁」
「そうでしたか、ではお邪魔してはいけませんね」
「!?」
その間、10秒あっただろうか? 戦慄するアンリエッタを置き去りに、パタンとむなしい音を立てて扉は再び閉まった。
「……」
しばし呆然として、直後に涙目になった。
(くっ、世間の風はなんだって私に厳しいのよっ? さっさとお金貯めて、さっさとこんなとこ出てってやるっ。それで田舎に土地を買って農業するのよ。小麦とかトマトとか、品種改良して、登録して大儲けっ。そのために、これが終わったら1,000ソルドの給料アップを交渉してやるわ!)
「現実逃避しているだろう、今」
「う」
「――アンリエッタ」
「っ」
溜息を吐き出した王子が、さらに顔を寄せてきて吐息が耳を撫でた。囁くような声で名を呼ばれて、心臓がうるさく騒ぎ出す。
「こ、こんな時だけ名前を呼ばないでよっ、じゃなくて、くださいっ」
慌てて言い返してみたものの、顔が赤くなっていく自覚と、それを見られていることとで、屈辱感が全身に広がっていく。
こっちは一杯一杯で叫んでるというのに、返事の代わりにクスリと笑う音が耳朶を打った。
(顔、見えないし、あえて見たくもないけど……くっ、馬鹿にした。絶対今馬鹿にしたっ。ああ、もうほんっと、むかつくっ)
「あ、あのねえっ」
一矢報いてやろうと、敬語をすっかり忘れて顔を王子に向けたその瞬間。
「……え」
(く、唇、ふ、触れ、た……?)
「……」
(き、気のせい?)
アンリエッタは、さっきまでの強引さが嘘のように離れていく紫の瞳を呆然と見つめた。
「ほら、さっさと行くぞ」
(う、ん、そうね、気のせい、そうに決まってるわ。だってあっさり離れてったし)
「花街の東地区にある娼館」
(今だって何事もなかったみたいな顔してるし)
「そこにドナウセルの家の者が頻繁に出入りしているらしい」
(照れだって、はにかみだって、本当にかけらもどこにも奇麗さっぱり見当たらないし)
大体――
「呆けたアホ面、いつまでもさらしてないでさっさと着替えろ」
「っ、だ、誰のせいだと思ってんのよーっ!?」
こんなふざけたファーストキス、あってたまるもんですかっ!!
私だって一応乙女なのっ。端くれの端くれの端くれ、末輩中の末輩であっても、ファーストキスに甘い夢くらいあるんだってばっ!
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