第3章【蛇の仕留め方】

第1話

「ふうん……」

 ミドガルド王国王太子カイエンフォールの部屋のすぐ横、執務補佐官に宛がわれた執務室で、資料の山を前にアンリエッタは考え込む。

 彼女の左右に今にも崩れてきそうなほどうずたかく積みあがっているのは、宗教学やその歴史の本、国内の宗教活動に関する統計資料、福祉部門の報告書、関連地域の管轄部署に直接回答させた様々なデータ、諜報部門によるドナウセル辺境伯の身上調査書、などだ。


 調査対象のエーム教は、それまで中性であった神々の中から生まれた、最初の男神であるエーム神を祭る宗教で、女性に対する男性優位を教義の柱にしている。

 これをアンリエッタ的に身も蓋もなく翻訳すると、神様に名を借りておめでたく“自分えらい!絶対!”と信者に信じさせ、“それ、悪いこと言わないから妄想で楽しむだけにしておきなさいね……”なハーレム願望を現実世界において、経済的裏打ちへの言及ゼロで無責任に推奨。挙句、妻や娘の社会参加を制限して、自分が馬鹿であることを悟られて逃げられないようするということだ。

 ちなみに、教義に多少の差異はあるものの、最初の女神であるケケラ神を祀る、男性と女性を入れ替えたバージョンの宗教もあって、根底にあるマインドは瓜二つだというのに、彼らはお互いを罵り合っている。

 常々「権利の主張、大事! 同じくらい思いやりも大事!(ただし思いやりのない相手のぞく――どこぞの腹黒王子みたいな!)」と思っているアンリエッタとしては、もちろんどちらにも賛同しかねるけれど、とりあえずの問題はエーム教だ。気にかかる点がかなりある。


 まず、エーム教の信者が、この1年で大きく増えたという点。元々保守的で、男尊女卑的な傾向の強い土地での改宗率が高い。同地域での布教活動の活発化、頻繁に開かれ出した集会の数と規模が、その推察の根拠だ。ちなみに、新規信者はどうも金持ちではなく、どちらかと言うとかなり貧しく、さらには人品卑しいと評判な者が多いということ。なんせこのままの率で増加を辿れば、信者数が基準値に達する。そうなれば、免税や警察権の一部除外などの宗教団体としての特権を申請する資格を得るだろう。


 次に、エーム教の資金力が、この1年で増したということ。教会の物品購入額、神殿街の景気の向上が報告されている。しかし、信者が増えて寄付が増えたという単純な構図が当てはまらない。だって新規信者は貧しいらしいから。――では、何をして金を稼いでいるのか。


 3つ目に、エーム教が勢力を伸ばしている地域では、夫や父から逃れるために救護院の助けを求める女性や女子の数が顕著に増加していると、福祉部門から報告があがってきている。それを問題視してか、エーム教では最近女性の監視を推奨し始めたという。そんな暇があるなら働け!と言いたくなるのは、勤勉な勤め人として当たり前の感覚だと断固として主張したい。


 あとは、教父がドナウセル辺境伯と個人的に近しいということか。どうやら教父と大口寄付信者という関係だけではなく、教父は神殿入りする前、ドナウセルに仕えていたらしい。


「……ろくなものじゃなさそうね」

 眉を顰めながら、そうアンリエッタは結論付けて、手にしていた書類を机の上にばさりと投げ落とす。

 よからぬことで金を稼いでいるのはまず確実。そもそも教義も気に入らないが、問題はこれを利用する人間だ。

 自分がたまたま得た属性に依拠して、その属性を持たない他者を貶めようとする。差別と呼ばれるものに染まる人の多くは、自分の現状に不満があり、それゆえ他者を攻撃することを自覚すらなしに正当化する。エーム教はその手段でしかない。

 ちなみに、この手のタイプは取るに足らない努力や幸運を経て、少しうまく行き出すと、さらに性質が悪くなる。たまたまうまくいかず苦しむ人たちを、今度は「努力不足だ」とか言いだして、やはり見下す。


「結局のところ、理由も手段もどうでもよくて、とにかく他人を自分より下に置きたいってこと――嫌な話」

(ああ、でも人は結局のところ、群れを作る猿だもの。何かをきっかけに人間性が失われると、マウンティングしたくなっちゃうさがなのかも……、ん?)

「…………まずい、まずいわ、そのきっかけって、かなりの確率でストレスじゃない?」

 そう思った瞬間、忌々しいほど美しい顔で邪悪に微笑む紫の瞳が思い浮かんで、アンリエッタは銀の頭を掻きむしる。

 だ、大丈夫よ、ルーディ、姉さんあんたに顔向けできないような人間になりたくないから、可及的速やかにストレスを解消するわ! 5,000ソルドがかかっているから、あれ本人にストレスをぶつけ返すわけには(周到に計画してからじゃないと)いかないけど、ちょうど手頃なのがここにあるから!!


「問題は、爽快なストレス解消のために最も面白い罠は何か……じゃなくて、何で奴らが資金を稼いでいるかだったわ……」

 アンリエッタは口元に手をやると、ぼさぼさの頭のまま、緑にも青にも見える目を眇める。

 ドナウセルが加担する理由もそこにあるのだろう。あれは絶対に金や権力に換算できない価値のために動いたりしない。



「アンリ」

「アンリエッタ!」

 ノックと同時に名が呼ばれ、こちらの返事を待つこともなく入り口の扉が開かれた。

「返事くらい待ったら、どうなんですか?」

「しただろう」

 ひょっとして、『アンリエッタ!』ってあれのこと……?


「……」

 おのれ、性悪なだけでは飽き足らず、失礼さまで兼ね備える気か、とは思ったけれど、奴は厳然たるアンリエッタのボス、給料主、貧乏な学者貴族一家を支える源泉、可愛いルーディの健やかな成長に不可欠な財布。

「……おかけください。こちらがエーム信教の調査結果の概要になります」

 内心はともかく椅子を勧めて、やはり内心はともかく茶を淹れる。

 ちなみに普通の茶葉です、ええ、ご心配なく。ロココ茶とか物騒なものは、ここには置いてありません。だって目の前にあれば誘惑されちゃうでしょ?


「……」

 そして、前もって作成しておいた要約資料を読む王子に、湯気の立つカップを静かに差し出した。


 日が大分傾いてきている。

 背後の大きなガラス窓からは、中庭が見える。室内に差し込む、少しオレンジがかった光に、アンリエッタは目を細めた。


 11年前、側役として宮殿に上がることが決まった時に割り当てられたアンリエッタの居室もここだった。

 7歳の子供に与えられた、不相応に広い執務室と、その横に続く寝室。あの日も似たような光が同じ窓から差し込んでいた。

 あの時は知っていたのは月給3,000ソルドの価値と、自分が万が一の時にカイの身代わりになるのだと言うことだけ。あとは何も考えてなんかいなかった。この部屋の意味も、自分がずっとカイと過ごすことの意味も……。


「……」

 目の前で静かに書類をめくる彼を見つめる。

 カイだって最初からこんな根性悪だったわけじゃない。あの日の夜、さすがに不安になって1人でぐずぐず泣いていたら、こっそり慰めに来てくれた。

 優雅に伸ばされた奇麗な銀髪、吸い込まれそうに透き通った紫の瞳はあの晩と同じ。ただ、背が伸びて、肩幅も出てきて、顎のラインが引き締まって、もう少年じゃなくなってきている。何より……

「見つめるな、減るだろう」

 ――性格が悪くなった。捻じ曲がった。黒くなった。


 ああ、天国のお母さん、聞いて……っ、11年の年月とは恐ろしいものなのっ。こいつが、『僕が一緒にいるから泣かないで』って、天使の微笑を見せた少年の成れの果てなのよ、信じられる!? 私は未だに信じたくないわ……っ。

 はっ!? ああっ、どうしようっ、私の天使、ルーディもいつかこんな風になってしまうのかしらっ!?

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