第7話

「そういえば、求婚があったらしいです」

 忙しくて放置していたけれど、父から一度実家に帰って来いと連絡が来ていたのは、それが理由だったらしい。

「ほう、物好きがいるものだな」

(あ、苛ついた)

 声も表情も憎たらしいまでに全くいつも通り。でも、左のつま先がとんと床を叩いた――これはそういう時の王子の癖だ。


「図らずも私は、旦那さまになっていたかもしれない人を失脚させて、牢獄送りにしたわけですね」

 左のつま先が、今度は2回。

(うふふ、長い宮殿暮らしで培った表情筋の完全コントロールは、こんなところでも役に立つのねー)

 長い付き合いも悪くないって久々に思えたわ!と心の中で高笑いしつつ、アンリエッタは神妙な顔を保つ。


「結婚に興味があったとはな」

 そう言いながら、また2回。

「あれは絶対嫌ですけどね」

(ふふふ、1、2、3、4)

 いけない、左頬がちょっとだけ痙攣してきた。


 あれね、「まあ、王太子殿下相手になんて不遜なの、駄目よ、アンリエッタ」なんて、ちょっとだけ欠片だけ爪の先だけ思わなくもないということにしておくけれど、本音はそうよ、「めっちゃくちゃ楽しい!」の。


 アンリエッタは、今カイエンフォールの執務室を訪れている。ドナウセル元辺境伯とエーム教事件の後始末に関する報告書を広大な机の前に座る彼に渡し、口頭での説明を終えたところだ。


 ちなみに、ドナウセルがアンリエッタに求婚してきた理由は、ルーディがあっけらかんと教えてくれた――気の強い女性を自分の思い通りにするのが、ドナウセル辺境伯の趣味っぽかった、と。

 そんな1ソルドの生産性もないことで満足できるなんて、ただ馬鹿なだけじゃなくて、どうしようもなくつまんない人間だったのね、とアンリエッタが心底呆れたのは言うまでもないが、問題はもちろんそこではない。

 そう、問題は10歳のルーディがなぜそんなことを口にするのか――可愛くて無垢なルーディをあんな奴にみすみす会わせた挙句、「これも社会勉強かと思って」とかのほほんと言った父は既に蹴ってやった。それでも飽き足らなかったので、ドナウセルを西監獄にぶち込むべく、アンリエッタは彼の罪状を血眼で探しつくして、まんまと完遂している。


「あれじゃなかったらよかったのか?」

「へ?」

(え、なにその微妙な質問)

 せっかく珍しく優位に立ったと思ってたのに、と思わず顔を引きつらせると、アンリエッタはそれを見られないように慌てて顔を伏せる。


 3回、4回、5回、6回、7回……

 視界に入る足の動きが増えていく。段々早くなっていく。

「年上趣味か?」

「は? な、なんでそうなるのよっ」

「そういえば、キーンが俺たちの護衛をしていた時も懐いていたな」

「キーン? なんでここに彼が出てくるわけ?」

 思わず足から目を離し、王子の顔へと視線を移した。

「っ」

 その瞬間、心臓がドクリと音を立てて強く跳ねあがった。


 ああ、もう最近絶対神経がおかしくなってる。ちょっと、副交感神経、しっかりしなさいよっ。さっさと顔の赤みを消して、心臓を鎮めるのよ。こんな奴の前で固まってたら、「どうぞ遊んでください」って言ってるようなもんでしょうがっ。

 今日は久々に私が奴で遊ぶ日になる、はず、で……。

「アンリエッタ」

 み、耳までやられてきたのかしら? なんか、奴の声がものすごく優しく聞こえたわ。

「心配しなくていい。一生放さない」

 なんか、奴の声がものすごく甘く聞こえる気もするわ。


 立ち上がったカイが真剣な顔で近づいて来る。そして、ごく側にやってきてアンリエッタの髪を1房、その長い指にとった。

 身をかがめ、髪へと唇を寄せる。

(どう、しよう、運動神経もやられたみたい……)

 身動ぎ1つできないというのに、目だけは彼が自分の髪へと口づけるのを追ってしまって――

「――死ぬまで側でこき使ってやる」

 そう笑った悪魔の顔を、きっちりしっかり捉えた。


 ねえ、ルーディ、姉さんの目だけは正常だったわ。ね、これって喜ぶべきことなのかしら? 姉さん最近色んなことが分からなくなってる気がするのよ、うふふふ。

 こんな可哀相な姉さんには、癒しが必要だとは思わない? だからね、お願いだからね、あんただけはこんな汚い大人の世界に染まらないでちょうだい……!


 そのためなら、姉さん、この理不尽な扱いに耐え忍べる……

「言葉も返せないぐらい嬉しいってことだな」

「っ、な訳あるか!」

 ――って言ったって、世の中、限度ってもんがあんのよっ!!

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