第2話

「ああ、間違いない、今日は厄日だわ……」

 行く手に、本宮殿で働いている侍女が、ダーバ侯爵に絡まれているのが見えた。

 まだ若いし(と言っても多分同じくらいの年だけど)、見慣れない子だから、逃げ損なったのね、とアンリエッタは呻き声をあげる。

 それにしても、真っ昼間から嫌がる女の子を部屋に連れ込もうってどういう神経してるんだか。城に執務室を持たない貴族向けの一時利用部屋なんて、宮殿からこの際一掃してしまおうかしら。

「ご容赦くださいませ……」

 可哀そうに、侍女の彼女は真っ赤になり、涙目でお茶を運ぶカートに必死にしがみ付いている。


「……」

 アンリエッタは溜息を共に、抱えていた資料に目を落とした。

 王子に最終報告をしてから粛々と、と思っていたけど、まあいいか。あの子、可哀想だし、第1――あいつ、嫌いなのよね。


 アンリエッタは私怨一杯にそう決めると、静かに周囲に目を遣った。

 身分のない官吏たちはともかく貴族たち……かなりの人数が集まっているのに、誰も彼女を助けようとしていない。ある者は見ない振りをし、ある者はニヤニヤ笑っている。

(――顔、覚えたわよ、じりじりと不利になるように取り計らってやるからね、覚えておきなさい)

 今は緑色に見える目を眇めて、彼らを睨めば、人垣の向こうに騒ぎを聞きつけたらしい、近衛兵が走ってくるのが見えた。

 あら、素敵、ついでだから利用させてもらおうっと。


「ダーバ侯爵」

 怜悧に響く声を作り上げて、離れた場所から居丈高に名を呼ぶ。嫌な例えだけど、王子のまねをすれば効果は完璧。

 思惑通り、下卑た顔で女の子の体を撫で回していた奴の顔が、呼びかけられてこっちを見た瞬間に、にちゃりとした笑みの形に歪んだ。


 ああ、もう本当に醜いことこの上ないわ、何だって朝からこんなもの見なくちゃいけないのよ。

 ルーディ、姉さんね、こんな場所じゃなくて、朝露の光る農園で爽やかに農作業をして、朝を迎えたいの。そう、あなたと一緒に! ああ、なんて素敵な夢……。

 ……ああ、そうじゃなかった、あまりの醜悪さに可愛い弟の顔を思い浮かべて、つい現実から逃避しちゃったわ。


「これはこれは、スタフォード補佐官殿。何か?」

 返事をよこした侯爵の顔には、羞恥も気まずさも見られない。自分の行為を卑しいことだとも悪いことだとも思っていないから、見咎められても言い訳すらしない。

 だってそこにいる女の子は、奴にとって同じ人間じゃないから――醜いのは外見よりむしろ中身なのよね。とことんむかつくわ。


「……」

 軽蔑を露に侯爵を見据え、アンリエッタは敢えて沈黙する。

「……なんだ、その無礼な態度は」

 なぜか、他人を人扱いしないこういう連中ほど、自分が見下げられることにはひどく敏感で、しかもそれを激しく嫌う。

 アンリエッタは怒りに赤くなった侯爵の顔と、芸のひとつもない陳腐な台詞を露骨にせせら笑った。滑稽なまでに定型化している。

「お茶をご所望ですか?」

 カートを顎でしゃくって指しながら敢えて確認すれば、つぶれたカエルそっくりの顔が、にやりと品悪い笑みを浮かべた。

「ほお、才媛と名高いお前さんが淹れてくれるのかね?」

(ボロボロにしてやるべきは肉体か精神か……)

「茶のついでに、わしの相手をして見るか、女は泣いて喜ぶんだ、ん? お前さん、顔はいいんだ、そうすればその体も少しは色っぽくなるぞ」

(ダメ、私には選べない、どっちか一つだなんて――)

 全身を舐め回すように見られた挙句「色気がない」と口にされた以上、そんな結論に至るのは、乙女の正当な権利だと主張しておくわ。


「うふふふふ、」

 内心のあくが出ないように注意しながら、アンリエッタは計算して可憐に微笑む。

「それは泣きもするでしょう、ぶよぶよの腹の肉に埋もれて腰のくびれどころか、どこからが足でどこが大事な場所なのか、さあっぱり区別が付かない、品性ゼロの醜い肉塊に迫られれば」

「……な、なな」

 つぶれガエルは一瞬呆けた顔をした後、顔に血を上らせた。

「あら、ご自覚ない? まあ、なんてこと。では、ひょっとして、私が噂で聞いたように、影で「あのお体、自慢なんですって」「雉も鳴かずば、と申しますのに」とか言って、涙が出るほど笑われているのもご存じない? ああ、でもそうですわね、あなた、身分を振りかざすばかりで、人に対する思いやりってものがありませんもの。誰も忠告なんかしてくれませんわよねえ。知らずに生きていられるって、ある意味すごく幸せですね、侯爵」

 邪気の無い笑顔を装いつつ、腹式呼吸。廊下の端から端まで、歌うように声を響き渡らせ、アンリエッタは見物人を集める。――さあ、せいぜい恥をかくがいいわ。


「き、貴様っ」

「でも――もうそれも終わりです」

 それから、アンリエッタは打って変わって射殺すような目を侯爵へと向けた。

「その腹の肉も地位も金も、すべてすぐ無くなりますから」

 アンリエッタは手にしていた書類を、奴の足元へばさりと放り捨てる。もちろん原本は別に取ってある。

「率にして32.33%の地方税というのはやりすぎでしたね。ああ、禁止されているはずの、作付けのための借り入れに対しても複利10.8%でしたっけ?」

 カエルもどきの顔色が赤から青へと変わっていく。

 這いつくばって書類を拾い集め、食い入るように文字を見つめるうちに、その手が、そして全身がガタガタと震え始めた。

 ――本当、いい気味。

「カイヤック、レデン、聖ニスト、ルクソン――昨冬の大して強くもない流行り病で、おかしな数の死者が出た地域です」

 すべてあなたの治める地域ですし、ご存知でしょうね、と軽蔑とともに言い捨てた。

 本来なら控除すべき費用を一切控除させず、国税部分すら上乗せして地方税を計算していた。それだけではなく、本来ならば地方税内で行うべき事業の費用を別途住民から徴収、結果として住民は本来額の約4倍の地方税を払わされていた計算になる。

 福祉サービスも無い状況でそれでは、生きるか死ぬかぎりぎりのラインだったのだろう。弱ったところを病に襲われ、本来なら耐えられたはずの人たちが亡くなった――もう少し早く気付いていれば、と悔しくて仕方がない。

「ちなみに――」

 ダーバを睨み据えたまま、アンリエッタは口元だけで笑う。

「スウェザ国営銀行普通口座2235977並びにその他3口座は既に押収済み、オスロン金融銀行当座口座3005681並びにその他1口座は既に凍結済み」

「……っ」

 あら、白くなったわ。でもそれで終わると思ったら大間違い。

「ふふふ」

 アンリエッタは、軽やかな笑い声を立ててしゃがみ、這いつくばったままの男の顔を覗き込む。

「もちろん、その他の私財という私財――屋敷から耳飾りの1つにいたるまで、全て没収して差し上げますからね?」

「っ、ぎゃあっ」

 細い腕をすっと侯爵へと伸ばし、たるんだ耳たぶにくっついていた大きな金の飾りをむしり取った。なんか叫んだけど、知った話じゃないわ。


「さて、『元』侯爵。あなたに相応しい場所へご招待いたしましょう。あなたに協力していた会計官ゴードン・ケアックと査察官ボルミア・ゼックスも、既に同じ場所に向かっていますから、同じ穴の狢同士、そちらで仲良くお茶をなさってはいかが? 私はもちろん付き合いませんが」

 アンリエッタは立ち上がってこれ見よがしに一礼すると、顔を引きつらせながら事態を見ていた近衛兵に「地下牢へご案内して差し上げなさい」と命令する。

 ガタガタ震えながら、耳を抑えているダーバの手指の間からは、血がにじみ出ていた。


 近衛兵2名が嫌そうな顔をしながら、奴の両脇を抱えあげるのを見て、アンリエッタは踵を返した。

 さっさと王子に報告に行かなくては。遅れるとそれをネタに何を要求されるか、わかったもんじゃない。

「ところで、ダーバ殿、」

 だが、それ以上に大事なことを思い出して、アンリエッタは背後を振り返った。


「私も悪魔ではありません」

 そうなの、私自身はとおっても慈悲深くて寛容ないい子なの。

 だから、ひどい目に遭わされた侍女の子と、朝から醜いものを目の当たりにする羽目になった私の分、相応の目に遭わせてやろうとか考えているのは、本物の悪魔が身近にいるせいで歪んじゃったからであって、私のせいじゃないの、多分。

「……」

 その声に希望でも見出したのか、生気を瞳に戻して、つぶれガエルは顔をあげた。

 悪いことに手を染める人間って、自分に都合の良いところだけ無駄にポジティブなのよね。

「せっかくなので、行き先は西監獄の北棟。ついでに、あなたが“素晴らしい”体をお持ちと吹聴なさっていることと、その手の欲にまみれておいでなことを、前もって周知しておいて差し上げましょう。うふふ、本望でしょう? あなたの言ったこと、やったことがそのまま返ってくるって」


 西監獄北棟――囚人の福祉向上のため、趣味の時間やプライベート空間の拡充などを図ると共に、実験的に自由恋愛を認めた監獄。ちなみに、収容者は全員重罪を犯した終身刑の男性。なお、西監獄の看守長曰く「“自由”恋愛の定義はとても難しい」そうで、「プライベートなことですし、その手の“恋愛”事情にはできるだけ介入しないようにしています」とのこと。そう、つまりは、純粋な少年少女が想像もできないことが横行しがちと噂の、異性愛者の非力な貴族男性たちが最も恐れる監獄No.1。


 にこやかに微笑んであげたというのに、ダーバは泡を吹いて気絶し、近衛兵たちにも周囲の見物人たちにもドン引きされた。

 が、さっきまで彼に絡まれていた侍女は、何のことか分からなかったらしい。怪訝な顔をしてこちらを見ている。


 その彼女と目が合って、アンリエッタは引き攣り笑いを顔に浮かべた。

「……」

 ねえ、ルーディ、知ってた? 姉さんは今思い知ったわ――月給5,000ソルドの対価には、姉さんの純情も入っていたようよ?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る