第3話

 街の賑わいから離れたその屋敷は、林と呼べそうなぐらいの木々に覆われていて、本来ならとても居心地がいい場所だ。

 だが、今日ばかりは到着を素直に喜べず、アンリエッタは「行きはよいよい、帰りは……」とぼやく。

 もちろん道理だとは思っているのだ。襲うなら約束の前より約束の後のほうがリスクが低いと。

(でも、分かっていても、やり切れないことってこの世にはあるのよねー、うふふふふふふ。ちなみに、笑ってないとやり切れないことっていうのも、姉さんにはたくさんあったりするのよ、ルーディ、知ってた?)


 アンリエッタは自ら門扉を開け、そこの古い玄関扉をノックする。あらかじめ連絡を入れておいたせいだろう、すぐに中から扉が開かれ、温かい室内に招き入れられた。

「そちらは……?」

「……友人です」

(ああ、王子、むかつくくらい完璧です。彼にすらばれてないわ)

 応対に出てきた執事に外套を渡して、この屋敷の主、アンソニー・クラーク老への取次ぎを頼めば、顔馴染みのはずの彼が、王子を見て一瞬怪訝そうな顔をした。これで脱力感は倍増。


 

「アンリエッタさん」

 まだ40ちょいの癖にどこに目ぇ、付けてんのよ?と、執事の彼に真実を親切に教えてあげようと――いやあね、王子のせいで抱えてるストレスを解消しようとか思ってないわ。親切なの、親切、多分――思って、口を開いた瞬間、耳に届いた声にドキリとした。

「イズミルさん」

 吹き抜けのホールを見上げると、階上で老師の客人が穏やかな笑顔を浮かべている。

「ふふ、こんにちは」

 目が合って、手を振った彼につられてにっこり笑い、手を振り返した。

(ああ、癒されるわ……)

 “穏やかな”笑顔――それがこんなに心に沁み入ってくる私って、きっとどこまでも不憫な子だわ、って思わなくもないけど。


 横から性悪王子の舌打ちが聞こえた。同じくそれを耳にしてしまったらしい、不幸な執事の顔が信じられないものを聞いたという顔になる。

 けれど、彼はゆっくり首を振って平常の顔に戻った。

「……騙されまくってるわ」

(あれ、聞こえ違いだって思いこんだって顔よね……)

 

「今日は寒いですし、来られないかと思っていました」

 そう言いながら、イズミルが階段を下りてきて、アンリエッタはその彼へと慌てて顔を向け直す。

「ええ、私も無理だと思っていました」

 うふふ、もちろん寒さなんて可愛い理由じゃなくて、と内心で付け加えつつ、アンリエッタもにっこり。


 そうしてアンリエッタたちの目の前まで来た彼は、大陸の西端に位置する国の裕福な家の出身で、様々な学問に強い興味があるらしい。大陸中に名を知られたクラーク老がミドガルド王太子の教育係を辞したと聞いて、はるばる2ヶ月の旅を経てやってきたという。

 歳はアンリエッタや王子より6つ上で、大人の落ち着きがあって知的でとてもかっこいい人だ。

 何より――性悪に日々悩まされている身の上には、「良い」人というだけで、燦然と周囲の空気が輝いて見える。涙が零れそうになる。


「ミドガルドではこれぐらいの寒さは普通ですのよ」

 アンリエッタが癒しを求めて彼との会話を繋ごうとしたところで、「ふふ」と軽やかな笑い声を漏らした、隣の王子が彼にそう告げた。

 これを含みのある笑みだと見破れるのは、多分実の親である国王と第1夫人、そして老師とアンリエッタ、彼の乳姉だけだと思う。

「……?」

 だが、彼が何をしたいのかまではわからず、アンリエッタは首を傾げた。

「……あなた、は?」

「げ」

(はい? ……ちょ、ちょっと、イズミルさん?)

 一瞬で彼の目が、隣の王子に釘付けになったことに気づき、あんぐり口を開けてしまったアンリエッタの目の前で、「あら」と言って恥じらったように王子は顔を染めて微笑む。

「申し訳ありません。私、アンリエッタの友人の、メイフィールと申します」

「!?」

(ちょ、ちょっと待ってっ、しかも何その、ドレスの裾つまんでちょんって小首を傾げる挨拶は!?)

「私はイズミル……、イズミル・アッテンマイヤーです……」

(あ、の、イズミルさん、き、気のせいでしょうか……お、お顔が赤くないですか……?)

「……」

(午前中書類とにらめっこしてた疲れ目かしら、イズミルさんの王子を見つめる視線が熱い気がしなくもないような……)

「あなたのような可憐な方にお会いできるなんて、今日はなんてすばらしい日でしょう? 冬の寒さなどあなたの前にいられるなら忘れてしまえる」

 王子の顔をじっと見つめていたイズミルさん(私、忘れられてる!)は、おもむろに王子の前に膝を落とすと、その手を恭しく取り、白い甲にキスを落とした。

「ちょっ」

 ちょっと待て、そいつは腹黒カイエンフォール、この国の第1王子で、あんたも何度か会ったことあるでしょーっ !?

「んむ」

 ……と叫ぶつもりだったのに、アンリエッタにだけ分かる人の悪い顔で王子はにやりと笑うと、人差し指を唇に押し当ててきた。

「アンリエッタ、あなたと老師さまとお話の間、わたくし、お邪魔にならないようにイズミルさまとお話ししてまいりますわ」

 よろしいかしら?と再び小首を傾げて、上目遣いにイズミルへ尋ねる王子。しかも……、

(目、潤んでるわ…………わざと? そ、それもわざとなの?)

「っ」

 はっと横を見れば、上気した顔のままその王子の顔を見つめ、夢見心地で頷いているイズミル。

「もちろんですとも。さあ、参りましょう」

「まあ、ご親切に」

 イズミルが差し出した腕に腕を絡め、2人はアンリエッタを玄関ホールに残し、連れ立って別室へと消えていく――

「……」

 (あの、もしもし……? もしもーし? 何か忘れてませんかー?)

 

 そんなアンリエッタの前で、パタンという面白くもなんともない音を立てて木製の扉が閉まった。

「……」

「……」

 そして、アンリエッタは気の毒そうな表情を浮かべた執事と色んな意味で寒いホールに2人きり。

 

「……」

(……え、ええと、そう、よね、いつまでも現実から逃避してるなんて、私としたことが)

「……う、ふふふふ」

(そう、そうなの、そういうことなのね……? うふ、ふふふふ、ああ、もう上等じゃない、あんの……)

「っ、ろくでなし変態王子っ」

 (性悪なだけじゃ飽き足らないわけ!? 私の淡い恋を返してー!)

 

 ちなみに、頭を抱えて王子への呪詛を唱えるアンリエッタを、書斎から顔をのぞかせた老師が呆れ顔でじーっと見ていることに気付いたのは、それから2分後のことだった。

 

「老師、黙って見てないで、なぐさめるとか色々あるでしょうっ」

「そう言われてものぅ」

 大恩ある師に、理不尽にも涙声でそう叫んでしまったのは、アンリエッタが不幸な子だっていう証明そのものだということにしておく。


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