第4話
「はい?」
「ですから1週間後に、カイエンフォール殿下の側役として宮殿に上がっていただきたい、と」
破れたカーテン、あて布で繕いいっぱいの硬いソファ。
母が泣くので涙をのんで売り払うことを諦めたお客さん用のティーカップに、年に1回お目にかかるかどうか、という紅茶が入って、そのお客さんの前に置かれている。
アンリエッタの頭には農作業用の帽子、右手にスコップ、左手に収穫したてのトマト。
ええ、そうなの、ひと月半、健康に生き延びたのよ。郊外の林に、アンズの木を発見したの。生で食べて、煮て食べて、出来ない分は乾かしたりジャムにしたりして売って。ついでに、小川で鱒を見つけて捕まえて。自然は偉大だって実感したわ。
ああ、問題はそうじゃなかった。
「アンリエッタ、帽子くらい外しなさい」
失礼でしょう、と母の穏やかな声がする。
そういう問題でもない気がするのだけれど、と首をひねりつつ、言われた通りにした。だって、お母さんに泣かれるととても居心地が悪くなるんだもの。しかも、おなかの中に私の妹か弟がいるのだもの。
「あのう、受かったのですか? 私が?」
正気?と思わず唸る。
自分で言うのもなんだけど、普通あれじゃ受からないんじゃない? そりゃあ、3,000ソルドは欲しかったけど、あれって駄目もとの博打のつもりだったし。
「はい」
あら、この人、あの時の面接官の一人だわ。司会してた人。
それから、手をつけないのは失礼と思ったのか、彼は恐る恐る紅茶に手をつけた。
「なぜ? 私、お気に召すようなこと、全然してないと思うんですけど」
疑問がつい口をついて出る。目を丸くしたその彼は、そこでようやく作り物でない表情を見せた。
「そういうところが、お気に召したようですよ」
む。大人って時々こうやって子供を煙に巻くのよね。気に入らないわ。
* * *
あれから1週間。
宮殿からのお使いの人――侍従長らしいわ、あの人――が用意してくれた、制服だという騎馬服を着、迎えの馬車に揺られて、アンリエッタは宮殿に入った。
家から持ってきた荷物はちょっとの着替えと、いざって時は売ってしまおうと決めている、父がくれた分厚い本2冊――間違いなく準備に1週間もいらないという量と内容だ。
あとは、侍従長が個人的に贈ってくれた可愛いドレス。売り飛ばして現金ともう少し質の劣るドレスに買い換えようかと思ったけれど、さすがに失礼なので考えるだけにしておいた、中々高そうな代物だ。
ちなみに、アンリエッタは最初この贈り物を、高そうだからいらないと断った。
「ただより高い物はないもの」と言ったら、彼は目をまん丸にした後笑って、「じゃあ出世して返してください」と返してきた。
「そんなだから王子の側役ってややこしいんじゃないの? 面接の時の女の人もそれを気にしてたんだわ」と言い返したら、「なるほど、だからあなたなんですねえ……」と何でだか1人納得して、やはり笑って頭を撫でてくれた。
「無い袖は振れないって言うのよ? お礼なんて無理よ?」
それにも笑っていたから、お礼はいらないのだと勝手に解釈している。
口約束だって一応契約は契約だし、逆に紙で契約していないのだから、これが侍従長から贈られたものだなんて証明できないものね。
「お越しになるのを楽しみにされてますよ」
「?」
……楽しみ? 誰が?
不思議に思ったけれど、侍従長が大人のくせに子供みたいに笑うから、結局たずね損ねてしまった。
「本当、お金ってあるところにはあるのよね……」
馬車の戸を開けてくれた見知らぬ人の手をつかんで、磨かれた石の上に降りれば、1ヵ月ぶりに見た目の前の宮殿はやっぱり豪華。
金糸の刺繍と同色のボタンが目立つ、赤の騎士服を着た男の人が2人、階段上の大きな扉の前で立っていて、階段を上りきった侍従長に向かって挨拶している。それから、2人がかりでその扉を押し開けて中に通してくれた。
「あの人たち、何していたの?」と侍従長に訊ねれば、「門の開閉を担っているんです」とのこと。
警備ならともかく、扉の開閉のためだけ……無駄だって思わないのかしら? 人が1人で開けられないような扉を作ろうって思いついた人の顔、1回見てみたいわ。
「嘘!?」
ああ、しかも中の調度品も変わってる! 誰かが売り払ったのかしら?
その後、今日から私の部屋だと言われた場所に小さな荷物を置いて、王子さまの乳母さんだという面接の時のあの女の人に出会い、案内されて隣の部屋に入った。
そこで、妖精のように奇麗な、紫の瞳の男の子に出会う。
そして、その夜。
泣いていた自分を慰めてくれた、優しいその子にこっそりこっそり、自分ですら気付かないような淡い、淡い恋をした。
そう、美しく、可憐な初恋――に、年月がいかに恐ろしいか、思い知らされることになるだなんて、その時は夢にも思っていなかったのだけれど……!
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