第1章【鼠のさばき方】
第1話
「は?」
「何だ、耳まで悪くなったのか? 気の毒な、ただでさえ頭もお粗末なのに」
今アンリエッタの目の前で、これ見よがしの憐れみの表情を見せているのは、そんな顔さえ絵になるこの国の王太子。
銀色のさらさらの長い髪、白磁のような顔は女性と見間違えそうなほど甘く、きれいに整っている。何より印象的なのは、同じ色の長い睫毛に縁どられた、世にも稀な紫の瞳。耳朶を打つ声の響きまでうっとりするくらい心地いい、まさに世の女の子憧れの王子さま――の外見の主。
そう、外見“だけ”。
そして、悲しいかな、アンリエッタはそんなものが欠片の腹の足しにもならないことを身に沁みて、それこそ骨の髄までずずいと沁み渡り切ってよく知っている。
「ふ、うふふふふふ」
アンリエッタは、300年もののアンティークでもある広大な執務机に、優雅にもたれかかる王子の顔をニコニコと見つめてみる。
奴の足の長さも気に入らないけど、オークションにかければ45,000ソルドは下らないと目をつけて、じゃなかった、思っているこの机を、あんな無造作に扱う神経もいちいち気に入らない。
「もちろん聞こえておりますとも、カイエンフォール殿下。私の頭はもちろん耳の問題でもありません。むしろあんたこそ頭大丈夫?……ではなく、殿下の正気が心配になってしまうお言葉でしたので、もう一度拝聴できないかと」
「ふふふ、俺の正気を疑うその頭は、やはり疑うべきだな」
今日も無理ににっこり笑ってみれば、負けずに向こうもにっこり――本当に腹立たしい。
「ご心配なく。私、殿下に日々お仕えしていることによる膨大なストレス――嫌ですわ、つい心の声が。責任感に悩まされることはあっても、正気のほどには自信がありまして」
「心配するとも。根拠のない自信もそこまで行くと、馬鹿に分類されるからな」
「私の分類なんか余計なお世話!ですので、さっくり効率第一!に用件をもう一度お願いいたします」
(ああ、ぶっ飛ばしたい、今すぐこの場でぶっ飛ばしたいわ、あの減らず口のついた顔……!)
そんな本音を必死で押し隠して、アンリエッタはなんとか本題に戻る。
なぜなら、ここはミドガルド王国王城、第1王子カイエンフォールの宮殿――文字どおり奴の根城、本拠地、縄張り。
足元の毛足の長い高級絨毯も、あっちの壁にかかった絵画も、そこで花なんかが突っ込まれてる花瓶も、アンリエッタの給料では一生かかっても手に入らない代物ばかり。衣食住を何1つ満たさないというのに、そんな値のついた物どもで埋め尽くされたこの場所は、主に相応しくいかがわしさ満点。
そんな場所で、同じことを昨日に引き続いてやれば、何かと人の足を引っ張ろうとしてくる侍女頭をどれほど喜ばせることになるか! 一体今度はいくら減給(なんて嫌な響き!)されるか!
(堪えるの、堪えるのよっ、アンリエッタ、全ては来月の給料明細にきっちり“5,000”の文字を見つけるため!)
笑顔のまま、アンリエッタはぎりぎりと奥歯をかみしめる。
「だから、老師の屋敷に行くと言っている、ついて来い、アンリ」
「アンリエッタ!……です、殿下」
「どっちでもいい、そんなこと」
人の内心の葛藤をまるっと無視して(絶対わざと!)、退屈そうに(これも!)奴はアンリエッタの男性名を口にした。
それからどこから誰が用意したのかしれない、あまり質の良くない服を取り出して、着々と着替え始めた。眼前であっさりとシャツを脱がれて、思わず唖然とする。
「ちょっちょっとっ」
「ほら」
色んな意味で無視する気!?と顔をひきつらせたアンリエッタに気を払う様子もなく、王子は似たような衣服を一式放り投げてきた。
「っと」
動揺していたってそこはアンリエッタだ。咄嗟にちゃんと受け取って、それをまじまじと見つめる。
(男物、だわ……やっぱり。しかも生意気なことにちゃんと流行の奴だ。どっからどうやって手に入れてるのかしら? 小さい頃は城を抜け出すのも私がいなきゃ出来なかったのに、いつの間にか妙な風に世間ずれしちゃったのね……)
「さっさとしろ」
私にもここで着替えろと? いえ、問題はそこじゃなかった――。
目線を手元の服から目の前へと戻せば、自分の服に袖を通している、半裸の王子の姿がある。
「……」
(なるほど、ここに花の乙女がいるってのに、全く気にしてないってわけね……? ……ふふふ、やだわ、完璧で優秀極まりない執務補佐官の私としたことが。そうよ、問題はそこでもないの)
「っ」
アンリエッタは憤りを込めつつ、手にしていた服を床に叩きつけた。
王子からの『賜り物』に、そんなことするなんて本来なら不敬罪ものだ。が、
(不敬罪? 不敬! 万歳! 問えるなら問うてみたらいい、喜んで首になってやる! 月給5,000ソルドは貧乏貴族の身の上には惜しいけど、それがどうしたっていうのよっ!)
「頭悪いのはあなたです、先週狙われたところでしょう! そこにまた行こうって言うんですか!? 老師なら呼べば来てくださいます!」
在野となったカイエンフォールとアンリエッタの師を訪ねて城下に下りた先週、2人は、いかにも、な集団に取り囲まれた。
しかもご丁寧なことに彼らが手にしていた短刀などの武器の刃には、かすれば即あの世行きという毒物、マレドナらしき緑の液体が塗られていた。
幸いあの時は何とか切り抜けたものの……。
「!?」
「金魚でもあるまいに」
咄嗟に声が出てこず、口をパクパクさせてしまったアンリエッタを、王子が鬱陶しそうな顔で見遣る。
「女物!」
(何で王子が!? その上、なにその金髪のカツラ!? しかも似合ってるのが、すっっっごく嫌!!)
「うるさい。ほら、誰もそんな貧相な体、気にしないからさっさと着替えろ」
「っ! やっぱりここでかっ! しかも、さらっと貧相って!!」
ああ、お父さん、あなたの甲斐性のなさを今ほど恨んだことはありません。
ああ、お母さん、なぜ私と弟をあんなお父さんと一緒に残して死んでしまったのですか……。
ああ、愛しい私のルーディ、姉さんはあんたのご飯のために今日も頑張ってるからね……?
でも、これだけは言っておきたいの……。
月給5,000ソルドっ、こんな理不尽な扱いを受けるにしては安すぎだわっ!
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