マリオネットと海

守宮 靄

マリオネットと海

 目が覚めると、薄暗い部屋にいた。ぼんやりした意識を鈍痛が刺激する。

 見慣れた天井、見慣れた家具。目を瞑ってでも歩けるくらいに熟知した自分の部屋のなかに、ひとつ、異物が放り込まれている。徐々に闇に慣れていく目が、異物の輪郭を捉えた。それは小さな胴体と頭部だった。四肢のないそれは生命の存在を感じさせるほど瑞々しくなめらかな肌をしていたが、その美しさは人間のものではない。人間を模し、それゆえに人間とは最も遠い姿となった、人形。


 靄がかかったようにまだうまく回らない頭で、眠りに落ちる前の出来事を思い出そうとする。友人に誘われ食事に行き、滅多に飲まない酒を飲んだところまでは覚えている。どこをどうやって家まで帰ってきたのかはさっぱり分からない。ただ、店を出る時は持っていなかったはずの何かを、家の前に辿り着いたときには抱きかかえていた、ような気がする。


 その何かは、考えるまでもなく目の前の胴体だろう。

 俺はいつどうやってこいつを手に入れた?

 道端に棄てられているのを拾った?

 怪しい露天商から二束三文で買った?

 向こうから歩いてきた知らない人に押し付けられた?

 あるいは光に包まれながら空から……。

 胴体の来歴について思いつく限りの可能性を列挙してみたが、どれもそこそこに現実味があり、そこそこに酔っ払いの夢のようだった。


 起き上がろうとすると身体の節々が痛んだ。家に無事帰り着いたものの、ベッドまであと数歩届かず、床に倒れ伏して眠ってしまったようだ。


 立ち上がるのを早々に諦め、這いずって赤子のそれと大差ないくらいの大きさの──しかし赤子よりはるかに細身で、艶やかで、しなやかな──胴体に近づき、上から覗き込む。さっきまでは見えなかったそれの『顔』と正面から向き合う形になった。頭頂部はつるりと滑らかで、毛の一本も生えていない。小さく尖った顎、色のない唇、小ぶりながらすっきりとした鼻、そして閉ざされた瞳。無機質な冷たさと官能的な美を兼ね備えた胴体にふさわしい顔だ。惹き込まれるようにぼんやりと見つめていると、唐突に、その瞼が開いた。大きな瞳がこちらを向く。あまりのことに声も出せずにいると、つんと尖った唇までもが動いた。


『ここはどこかしら?』


 鈴を転がすような、とはこの声のためにあるような比喩だ、と思った。俺の家だよ、と呑気に答える前にまたその声が響く。


『わたし、自由になりたかったの。自由になって、お外に行きたかったの』

『でも手足に糸がついていたから、どこにも行けなかった』

『糸は切れなくてほどけなくて、仕方ないから手足ごと外すことにしたの』

『お外に行くためなら手足くらい無くなってもいいと思ってた』

『右手と左手をつかって左脚を外して、つぎに右脚をとって』

『腕をとるのは難しかったわ。指が曲がらないから』

『壁と床とそれから右手をつかって左腕もとっちゃって』

『あら? それならどうやって右手をとったのかしら? 左手がないんだから右手はとれないわ。どうやったのかしら? 右手といっしょに記憶も外れちゃったのかしら』


 酔いが急速に覚め、事態を飲み込んだ俺が悲鳴を上げる間も与えず、四肢のない人形は話し続ける。


『とにかく糸はとれて、わたしは自由になった』

『それなのにわたしはどこにも行けないわ』

『足がないから歩けないし、手がないから這うこともできない』

『おかしいわねえ。自由になるために手足をとったのに、そのせいでもっと不自由になっちゃったわ』


 今更ながら冷や汗をかき始める俺に構わず、人形は抑揚のない声で滔々と語り続ける。いや、最初から俺の存在など関係なく、きらきらした瞳をまっすぐ虚空へ向け、やたらと大きな独り言を言っている。


『おかしいわねえ。おかしいわ。自由になれたのに、窮屈じゃないのに、縛られていないのにどこにも行けないなんて』


 おかしい、おかしいわ、と壊れたレコードのように繰り返す美しい声を聞いていると、こちらが先におかしくなってしまいそうだった。しかし先ほど上げかけた悲鳴は既に胃の中に逆戻りしてしまい、妙に冷静になっている。ここは紳士的に穏便に解決しよう、などとどこか場違いなことを考え、なるだけ穏やかな声を作る。


「あの、すみません……」


 間抜けな話しかけ方だな、と軽く悔やんでも出した言葉は戻らない。取り繕うための言葉を見つける前に、ぐりん、と人形の瞳が回転し、うろうろと視線をさ迷わせたあとに俺の顔を捉えた。


『あら、あなた、手足があるのね。糸のついてない手足があるのね』


 感情の乗っていない声に僅かに妬ましさが滲んでいる、と感じたのは錯覚だろうか。


『わたし、自由になりたかったの、自由になって、お外に行きたかったの、でも手足に糸がついていたから、どこにも行けなかった、糸は切れなくてほどけなくて、仕方ないから』


 さっきと全く同じ話が全く同じ声質で繰り返されるのを予感し、慌てて口を挟む。


「そうだね、だから自分で手と足を取ったんだよね、とても勇気ある行動だと思うよ」


 自分でも何を言っているのかよく分からなかったが、人形がその唇を止めたのを見て、さらに言葉を続ける。


「ここはどこ、って言ってたよね。俺の家だよ」

『家。おうち』

「そう」

『じゃあ、お外じゃないわ』


 抑揚も表情も変わっていなかったが、落胆しているのがありありと伝わってくる。


『わたし、自由になりたかったの、自由になって、お外に行きたかったの、でも手足に糸がついていたから、』


 隙あらばまた同じ話を始める! 俺は人形が話し始めたのに気がつかなかったふりをして提案する。


「よかったら、外に連れていこうか? 遠くまでは行けないけど」


 人形はそれを聞いて暫く黙り、その美しい顔とまなざしを存分に俺だけに向けた。


『海』


 短い沈黙は唐突に破られた。


『海に行くわ』


 確かに、こういうときに向かうのは海以外にないように思えた。




 赤子を抱くようにして滑らかな胴体を抱え上げる。片手で掴みあげられそうなほど細い腹のひんやりとした肌に触れたとき、えも言われぬほどの背徳的な快感の片鱗を覗いて背中がぞわりとしたが、気のせいだということにした。抱き上げるときに見えた後頭部には、小さな穴があった。ここにも糸が通されていたのだろうか。


 早朝というには早すぎる外は肌寒い。部屋の鍵をかけてしまったあと、人形の胴をタオルか何かでくるんでやればよかった、と思ったが、たかが人形にそこまでする必要はない、とその思いつきを振り払った。

 まだ暗い街を歩いていく。車も人も通らない道を、街灯だけが勤勉に照らしている。黙って歩いているのも気まずいので、人形に話しかける。


「どうして海に行きたいの?」

『わたしと同じ、操り人形が海へいくのをみたの。四角い箱の中に写っていたわ。とても楽しそうだった。大きないきものがいてね』


 海へ行く操り人形。思い当たるアニメ映画がひとつあったが、その場面はそんなに楽しいシーンだっただろうか。


『そういえばあのいきものも手足がなかったわ。そして自由そうだった。箱からは出られないようだったけど。──わたし、自由になりたかったの、自由になって、』


 また同じ話を始める人形をわざわざ止めることはせず、「うん」と「へえ」を交互に繰り返して相槌とする。人形はその話を四回ほどループしたあと、ふっつりと黙ってしまった。話し疲れたのか。あるいは機械的な俺の態度に気がついたのか。


 道の脇に立ち並ぶ建物が徐々に低くなっていく。まだ暗い空に星が散っている。あと2時間もすれば日の光に塗り潰されてしまう輝き。ちらりと盗み見た人形の瞳は震える星を映し、整った横顔は思慮深くも白痴にも見えた。


『ねえ』


 前触れもなく上げられた声に驚いて人形を取り落としそうになり、いや驚くなら他にも相応しい場面があったろうに、と苦笑しながら応える。


「なに?」

『わたしの右手をとってくれたの、あなただった気がするわ』


 そうだったろうか。

 話し始めたときと同じ唐突さで人形は黙り、その言葉についての詳細を聞くことは叶わなかった。



 数十分の静かな旅の末に、砂浜に辿り着いた。人形は相も変わらず無表情に、寄せては返す波の向こうを見つめている。


『海へいけば手足がなくても波に乗ってどこへでも行けると思ってたの。かしこいわね、わたし』


 腕の中の人形の比重が海水より大きいのか小さいのか、俺には分からなかった。


『海に入りたいわ。ここまではあなたが運んでくれたけれど、それは自由じゃないわ。あなたの足に頼るのをやめて、あなたの手を離れて、わたし、初めて自由になるのよ』


 返事をする代わりに人形をきつく抱き締め、海に向かって歩く。


 濡れることを想定していないスニーカーに塩水が染み込み、足枷のように重くなる。いっそ脱いでしまおうか。しかし人形を抱くために両手は塞がっている。

 くるぶしを超えた海水はズボンの裾にまとわりつく。砂と塩と水とで重くなる膝から下を引きずるようにして歩き続ける。


 黙って抱かれていた人形だが、俺の様子がどこかおかしいのに気がついたのか、今までより少しだけ早口になる。


『ねえ、はなして、はなしてよ。わたし、自由になるのよ。糸からも人からも離れて、どこへでも行くの、だからはなしてよ』


 きっと暴れてでも離れたいのだろうが、あいにく、じたばたするための手足がない。


『ねえ、はなして、縛らないで、はなしてったら』

「そうだね」


 肯定的なだけで全く噛み合っていない、しかし心だけはこもった返事をして、さらにきつく人形を抱きしめる。自分が何を言い、何をしようとしているのか分からなかったが、そのことを欠片も疑問に思わなかった。


「いつかはほどけるよ、たぶん」


 海水浴には向かない水温。冷えすぎた足先から感覚がなくなっていく。既に海面は腿の半ばまである。気を抜けば、波に攫われてしまうだろう。人形は叫ぶのをやめていた。その顔から感情を読み取ることはできなかった。


 水の中は歩きにくい。ゆっくりと確実に歩を進める。今は奇跡的に穏やかな海が唐突に牙を剥き、少し大きな波でも立てようものなら、俺は二度と陸には戻れないかもしれない。

 暗い海の底へ舞い落ちる、波に揺らめく星の瞬きが遠くなる──。

 そんな空想が頭をもたげたが、それが不幸な結末なのか素敵な未来なのか判断できず、ただ、もしそうなっても俺の腕のなかにこの美しい人形がいてくれればそれでいい、とだけ思った。


 シャツの裾までもが水を吸い始める。絶えず変化し続けるさざ波の模様がちらちらと反射する光は街の灯か、それとも星か。ふと人形を見ると、輝く瞳がこちらを見ていた。初めて本当の意味で『目が合った』ような気がして、思わず微笑んだ、そのとき。


 少し大きな波が脚を掬った。


 よろめいた拍子に人形を手放してしまい、無理に抱き戻そうとしてさらにバランスを崩す。水に軽く叩きつけられながら転び、驚いて呑んだのは息ではなく海水だった。


 慌てて立ち上がった。

 噎せる。


 水が入ってしまったのか、鼻の奥まで痛む。生理的な涙でぼやけた視界で、白く滑らかな胴体を探すが、暗い静かな海に浮かぶ異物は見当たらず、広い海底をくまなく漁るための気力はもう、なかった。


 ずぶ濡れの下半身を引きずるようにしてとぼとぼと歩いて帰る。行きは独りではなかった道だった。何もかもが夢のようだった。出会ってしまったことも、失ってしまったことも。夢だとしたらとびきり悪い夢だ。


 空が白み始め、星は薄くなっていた。星を映していた瞳の色を思い出せなかった。



 部屋に帰り着いて、海水がたっぷり染み込んだ服と靴の処理に困り、「どうせならこれも悪い夢であってほしかった」と独りごちた瞬間、やっと何かから醒めたようだった。しかし肉体は休養を求めていたため、冷えた身体をシャワーで温めたあと、全てを後回しにして再び泥のように眠った。


 冗談みたいにすっきりとした目覚めだった。爽やかな気分は風呂場から放たれる磯の香りで一気に沈む。落ち込むくらいなら早めにやってしまえ、と服を洗濯し、靴も洗う。

 これでよし。

 これで昨晩の出来事は、すべて夢になった。

 洗濯の勢いで部屋の掃除もやってしまおう。肌にへばりつく濡れた服の感触にも似た、未練とは呼べない程度の淡い愛惜から逃れるように、鼻歌を歌いながらペーパーモップで床を拭いていると、カラン、とベッドの下から細長い何かが飛び出した。


 それは小さな右腕。複数の丸い関節で繋がれ、持ち主を失ってなお甘美な曲線を描く。何もつかめない小さな手の甲から伸びた糸は、どこにも繋がっていなかった。

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